4月8日 謙遜と傲慢

 昔々、謙遜という僧侶がおりました。彼は数多くいる僧侶の中でも群を抜いて優れており、まさに秀逸という言葉に似つかわしいほどの人物でございます。不治の病にかかった人がいると聞けば、すぐに駆けつけては処置をして助けてしまうほどです。謙遜の知識はとても豊富で人々に重宝され、寺の坊主たちには尊敬されておりました。

 ある日、寺に傲慢という有名な僧侶を招き入れたことがございました。

「謙遜よ。この私が来てやったぞ」

 傲慢はいつも人を見下しておりました。自分は最も優れていて誰にも劣ることがないと思っていたのでございます。

「どうも、お久しぶりです。さあさあ、中へお上がり下さい」

 そして傲慢が寺の中に入ると、目を丸くして驚いたのでございます。なぜなら西にある自分の寺よりも煌びやかで美しいものだったからでした。

 傲慢はこれを見て良い気分にはなれるはずがありません。傲慢は素直になれるはずはなく、きっと建物ばかりが少し良くて寺の坊主はたいしたことがないだろうと思い込むことで、気にはとめませんでした。

 翌日。傲慢は自分の寺に寂しく戻って行きました。傲慢は自分が思っているほど優れている人物ではないことを悟ったからでした。謙遜の寺の坊主は、傲慢に対しても丁寧に接して、なおかつ心配りができる素晴らしい坊主ばかりでした。これは謙遜の教育によるものだと後になって傲慢は分かったのでございました。一方で傲慢は自分の寺の坊主にはいつも文句ばかり言って、ろくな教育はしてはおりませんでした。

 このように傲慢は謙遜という優秀な人物に会うことで自分の愚かさを理解したのでございます。

 今日も謙遜は高座に乗って坊主たちを集めては教えを説いておりました。そしてそれが終わると坊主たちは謙遜を囲んで褒め称えるのでございます。

「おしょう様は何でも知っているのでございますね。やはりおしょう様は優秀な御方だ」

「そのようなことはないだろう。私は一度として自分を優れていると思ったことはない」

 謙遜はいつもそうして否定しておりました。自分が優秀な人物だと様々な人に言われてきましたが、いくら人に称賛されても、調子に乗っていい気にはなりませんでした。

 謙遜のように本当に優れた人間というものは自分で自分自身を褒め称えたりはしないのでございます。つまり優れた人物ほど謙虚さがあるのです。

 のちにこの二人の僧侶を表して、控えめでつつましくふるまうことを謙遜、おごり高ぶって見下すことを傲慢と言うようになったのでございます。

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