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 目覚めると私の眼前にはまだ羽虫が存在していた。どんなに動こうが、羽虫は私の動きについてきて、必ず視界の中に居続ける。私はこの時ようやく恐怖と不安を感じた。私は会社に病欠する旨を伝えると支度をして知り合いの営む眼科に走った。

 眼科はアパートから1km直進したところに位置しており、事前に連絡などしなくとも常に患者は数人しかおらず、確実に診察してもらえる。

 古びたコンクリート造りの建物には色あせた看板が掲げてあり知っている者でなければ閉院しているようにしか見えない。

 私は院内に入ると受付に保険証を投げた。


「あら随分とお急ぎで。いかがなさいました?」


 40過ぎの看護師はやれやれと言う顔をして淡々と問うてくる。機械的その対応にはいつも不気味さを覚える。


「目の前に羽虫が飛び回ってひどく不快だ。なにかの病気なのであればすぐさま治療してもらおう。このままでは日常生活にも支障をきたす」


「わかりました。今日は他の患者様がおりませんのですぐに診察室へ」


 古臭い緑のソファーベンチが規則的に置かれた待合室を抜けて薄暗い廊下を進んでいくと、左手に診察室がある。引き戸を開けると半目開きの顔色の白い初老男が座っている。


「なんじゃ?あんさんかい。今日は何の用だ」


「目の前を羽虫が飛び回っている」


「羽虫だ?そんなもん居ないが?……はん、成程となりゃ飛蚊症だろうそりゃ。網膜剥がれそうになってんじゃないか?ちと見てみるか」


 初老の医師は検眼鏡を手に取ると目に当て眼球内を詳しく検査しているようだ。うぅんうぅんと至近距離で唸られ、加齢臭をかがされ続けるのは不快だ。しかし、これで眼前の羽虫がいなくなるのならば我慢するしかあるまい。


「何の異常もねぇな……。こりゃ精神的なもんか目の使い過ぎかもしらねぇな」


「なんだと?では私にどうしろというのだ」


「慣れるしかねえ。そのうち気にならなくならぁな」


「ふざけてるのか?」


「ふざけちゃいねぇ。そういうもんなんだよ」


 そういうととっとと出て行けと手で追い払う仕草をした。こんな診察で金を取るというのだ。私は憤りを感じ診察室の戸を勢いよく閉めてやった。そのまま外に出てやろうと思っていた私に保険証を投げつけて看護師が領収書を見せつけてきた。


「診察代と検査代、しっかり払ってもらわないとね」


 私は金額を見ることなく1万円を叩きつけて医院から出た。

 帰る中で冷静になって釣りをもらわなかった事を後悔した。私の稼ぎは同年代と比べるとかなり低いと言っていいだろう。そんな私に1万円は大金である。それをあんなボロくさい眼科に投げてきてしまったのだ。これもすべてこの眼前を飛ぶ羽虫のせいである。


「慣れろと言われて慣れるものか。兎にも角にもこの羽虫を消し去らねばなるまい」


 私は部屋に戻ってくると、いつ買ったのか忘れた目薬を取り出した。使用期限が切れていないのを確認した私は早速目薬を両目に点した。瞼を開け閉めして馴染ませ、目をカッと開いた。しかし、目の前には未だに羽虫が飛んでいる。

 どうしようか思案して、私は冷蔵庫を開けるとビールが目に入った。その時私が瞬時に酔ってしまえば羽虫のことも気にならないのではなかろうかと考えた。

 私は財布をもって近くのコンビニに向かいアルコール度数の高い酒を買いあさりに向かった。

 ワインが好きではない私はチューハイのストロングばかりを買い、部屋に戻ってひたすらに飲んだ。まだ昼にもなっていなかったが私にはそんなことはどうでもいいことだ。二日酔いになれば明日も会社を休めばよいだけだ。有給休暇ならばたんまりと残っている。この羽虫さえどうにかなれば何の問題もないのだ。空き缶が一つ、また一つと薄汚れた畳の上に転がった。

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