第7話 健康診断
非常階段の出口から2階フロアに出ると、一本の長い廊下があり、そこはその突き当たりに近い場所だった。突き当たりとは反対の方向に廊下を歩いてゆくと、左側にエレベータホールがあった。そこに設置されていた案内板を見ると、医務室は2階フロアの東側にあることが分かった。
アキラは、もときた廊下を東に歩き出し、角を左に曲がるとすぐに右側に医務室の受付らしき「小窓」が見えた。
その小窓の右隣りにあるドアには、「Medical office」と書かれたプレートが貼られていた。
小窓を覗くと、白衣の上に紺色のカーデガンを着た女性が座っていて、携帯電話をせわしなく操作していた。
「あのー、すみません」
女性は携帯電話に夢中でジョーの声が届いていないようだった。
「すみません! 健康診断はここですか?」
語気を少しだけ強めて言うと、女性ははっとして顔を上げてアキラの方に向き直った。
「失礼しました。今日はどうされました?」
「健康診断を受けにきました。アキラ・ルドリードです」
そう言ってアキラが身分証を差し出すと、女性はそれを見ながら机に据え付けられているタブレット端末を操作した。
「地区第3処理班のアキラ・ルドリードさんですね。お待ちしておりました。どうぞ中にお入りください」
ドアが開き、アキラが入室するとドアは自動で閉じた。部屋の中は、正面に見える大きな窓から日光がよく差し込んでいて明るく、壁際にベッドが3つ並んでいた。
別の壁際には大小様々な瓶や箱が整然と収納された薬棚が置かれており、ベッドシーツの真白さと、部屋の中を漂う消毒液のような匂いとがあいまって、医学的に裏付けされた清潔な空間という独特の雰囲気を醸し出していた。
部屋の隅の方に、デスクトップパソコンに向かって座っている白衣姿の人物が見えた。
「リアム先生、お見えになりました。アキラ・ルドリードさんです」
リアムと呼ばれるその人物の、肩くらいまであるストレートのブロンドヘアと華奢な感じの肩幅とが、女医であることを物語っていた。
彼女は返事もせずにPCのキーボードをたたきつづけていた。受付の女性は肩をすくめると、ベッドの脇にあった椅子をもってきてアキラに座るようにうながした。
「少しお待ちください」
しかたなく、アキラは用意された椅子にすわり、黙って女医の方を見ていた。
(早くしてくれないかな・・・)
昼食を食べた後ということも手伝ってか、不意の睡魔がアキラを襲ってきた。瞼が下がる頻度がじょじょに多くなり、女医の後ろ姿がぼやけだした。
(だめだ眠っちゃ、もうすぐ呼ばれ・るん・・だ・・・)
心地良くまどろむ視界の中、振り向いた女医は、なぜかガスマスクのようなものを身につけていた・・・
・・・う、ううん・・・
目覚めたアキラの前に、白い壁面のようなものがおぼろげに映った。
あれは・・・天井? ここは・・・?
そのときふわっとした甘い香りが鼻をかすめた。匂いの元をたどるように首を横に向けると、わさっとしたブロンドの髪の毛がジョーの左腕にのっかっていた。
!?!?!? うっ、うわあっ!
髪の毛の主は女性だった。見知らぬ女性がアキラの左腕を枕にして寝ていたのである。
浅黒い肌をした女性は、その体全体の素肌をアキラの身体としなやかに触れあわせていた。女性とアキラは裸だった。
「うわああああ!」
アキラは叫びながらベッドを飛び降り、とにかく周囲のすべてを視界の中に押し込もうとした。
「どこだどこだどこだ・・・あっ、あった!」
アキラが着ていた作業服は、壁際に置かれていた丸い椅子の上にきれいに折り畳まれていた。
「ふあああ・・・あら? もう起きたの?」
起き抜けのかすれたハスキーな声がベッドの方から聞こえてきた。しかし、アキラは振り返る余裕もなく、とにかく急いでパンツとズボンに両足を突っ込んだ。
「あっ、と、っとと」
慌ててはいたズボンがひっかかり、バランスをくずしたアキラはそのままベッドのほうに倒れ込むようにして転んだ。
「アハハ、そんなにあわてるから」
「くっ、くそ、あんた一体だれだ!」
「私? 私はリアム、リアム・ルードヴィヒ。ここで産業医をしているわ」
「リアム? 医者!? じゃあそこのデスクに座っていた」
「ふふふ、そうよ」
アキラがデスクの方をみると、窓から差し込んでくる光がオレンジ色を帯びていた。
「ちょっとまて、今何時だ?」
壁にかけられた時計の針は午後4時を少しまわっていた。
「4時!? お、俺は一体なにを?」
「野暮なこと聞くのね。男と女が裸で寝てるんだから、何をしたかなんてそんなこと決まっているでしょ」
女医はなぜかうれしそうで、撓わに揺れるその胸を堂々とさらけだしていた。
「さてと、私もそろそろ仕事に戻らなくちゃ。あなたの身体機能はどこも問題なし。帰っていいわよ」
「帰っていいって、俺は健康診断を受けにきたんだ」
「だから、その健診が済んだと言ってるの。リアム式健康診断は無事終了よ。君のことはハリルから聞いていたけど、思っていたよりもずっと良かったわ。うふふ」
「ハリルさん? それって、どういことですか」
「本人に聞けばいいじゃない。それじゃね、お疲れさま」
リアムは、ベッドを仕切るカーテンをひっぱってその姿を隠してしまった。
「アキラ・ルドリードさん、こちらにどうぞ」
受付の看護師が何食わぬ顔をして現れた。まだパンツもろくにはいていないアキラの姿に驚きもせずに淡々と説明を加えた。
「検査結果については後日、自宅の方に直接送らせていただきます。何かご質問は?」
「あの、俺は一体何の検査を?」
「詳細については検査結果を見てください。ただ、少なくとも”男”としての機能は申し分ありませんでしたよ」
看護師のいやらしげな含み笑いが、アキラをさらにどこかに突き落とすようだった。
医務室を出たアキラはすぐに携帯でハリルに連絡を入れた。
「もしもしハリルさんですか?」
「アキラか? 健診は済んだのか?」
すでに午後4時をまわっている時点でのハリルのその返事にアキラは違和感を覚えた。
「え、ええ、終わったと言えばそうなんですが・・・それよりすみません。午後の仕事をすっぽかしてしまって」
「それはいい。こうなることはだいたいわかっていた。気にするな」
「こうなる? どういうことです? リアムとかいう女の医者も変なことを言ってました」
「リアムが? 彼女はなんて?」
「それはハリルさんに聞って」
「あいつめ、全部俺に押しつけやがって」
「一体なんなんですか? 俺、気が付いたら医務室のベッドであの女性と裸で寝てたんですよ」
「そうかー、やっぱりヤラレちゃったか」
「やられた?」
「プライベートなことをきくけど、お前さん、彼女はいるのか?」
「いえ、いません」
「じゃ、セックスの経験は?」
なぜそんなことを聞くのか反駁したくなったが、ハリルに対する信頼の方がほんの少しだけ上回った。
「・・・ありません」
「じゃあお前さんは”男”になったってことだ」
「男!? それってまさか・・・」
「そのまさかだ」
アキラは絶句した。自身の童貞喪失がこんな形でやってくるとは想像もしていなかった。
「ハリルさん、なんか、ひどいじゃないですか」
「すまん。だが勿論、お前を陥れるとか、そういうつもりは全くない。これは業務命令だから仕方がなかった」
「業務命令?」
「ああ、健康診断っては普通は集団検診だろ? でもうちの場合はたまにだがプライベートに行われるときがある。それが今回だったというわけだ」
「たまにって、どういうことですか」
「個別に指名されたときにそうなる。昨日の夜、お前さんを本社までよこしてくれって、リアム本人から連絡があったんだ」
「本人から? なぜ僕が?」
「あいつとは同期でたまに一緒に飲むんだが、そのときにお前さんのことを少しだけ話したんだ。うちの部署に若くて有望な奴がいるって。そしたら彼女、ちょっと興味をもったような感じだった。だからもしかするとそのうち指名があるかもなとは思っていた」
アキラは、ハリルがそんな風に自分のことを人に話していることを聞いて少し照れくさく思ったが、何かよからぬことが自分に関与しようとしているのではないか、そんな気持ちの方が先行した。ハリルとリアムが同期入社のよしみで知り合いだということは分かったものの、プライベートで行われる健診の目的は依然として不明だった。単に若い男の身体が目当てで行われているのだとしたら、それは職権乱用どころか立派な犯罪である。
「あのっ、この健診の目的って、一体なんですか?」
「それは追々分かる。今のところはまだ不確定な部分が多くて説明し難い。とりあえずはお前さんがリアムに気に入られたかどうかだ」
「気に入られるとどうなんです?」
「この会社でリアムに気に入られるってことは、社長とのパイプができるってことだ。なんたってあいつは社長の元愛人だからな」
「もと愛人? パイプ?」
「今はまだその辺のことはよくわからないだろうが、まあいずれ分かるようになるさ」
つぎつぎと飛び出すハリルの言葉に、アキラはほとんど翻弄されかかっていた。
「で、どうなんだ?」
「は?」
「リアムはなんて言ってた?」
「よく分かりませんが、思っていたよりもずっとよかったとか言ってました」
「そうか・・・なら、ほぼ確定だな」
「確定?」
「お前さんにチャンスが巡ってきたってことだよ」
「チャンス?」
「次の人事異動が楽しみだ。今日はもうあがっていいぞ。家に帰ってしっかり休んでくれ」
「あっ、ちょ、ちょっと待って」
戸惑うアキラの言葉から逃げるように、ハリルは一方的に電話を切ってしまった。
(しっかり休めって・・・)
疲れてなどいない自分はただ寝ていただけだと、心の中でぶつぶつと繰り返しながらアキラは本社を後にした。
◆
アキラの家は、市街から少し離れたグリーングラスというエリアの中にあり、地下チューブの終点であるクリーブ・バイ駅から、自転車でおよそ15分ほどかかる。
駐輪場に停めてある自転車に乗って、駅前の商店街を抜けて川沿いの道を5分ほど行くと、よく整地された田畑と果樹園が目の前に広がってくる。そして、リンゴ園の中に敷かれた農道に入り、その先の橋をわたると住宅地が見えてくる。住宅地といっても50戸くらいの小さな村で、お店は小さな雑貨屋が一軒あるだけだ。アキラの家は、その住宅地の中心部にある火の見櫓のすぐ隣にある。
アキラが帰宅すると、玄関に妹のジュンの靴があるだけで、両親はまだ帰っていないようだった。
「ただいま」
「あれ、兄貴? おかえり。今日は早かったね」
「ああ、午後から本社で健診があって、終わった後にハリルさんに連絡したら今日は帰っていいって言われた」
アキラは作業着を脱ぐと、それをジュンに手渡した。
汗と埃にまみれたアキラの作業着に嫌な顔ひとつせず、ジュンはいつものように作業着のポケットをまさぐっていた。
母も父と一緒に働いているので、ルドリード家では全員で家事を分担している。ジュンの主な担当は洗濯で、アキラの担当は各部屋の掃除とゴミ出しである。
普段と少し違う兄の様子にすぐに気づいたジュンだが、そのことにはふれなかった。
「ん? 兄貴、なにこれ?」
ジュンは、アキラの作業着のポケットの中にくしゃくしゃになった紙切れを見つけてそれを広げていた。それはADC本社でもらったコンペに関するチラシだった。
「ああそれか、なんでもない、捨てておいてくれ」
「ふーん・・・あっ、そうだ、今日はお父さんとお母さん遅くなるって言ってたから私が晩ご飯の用意をするよ。兄貴、なんか食べたいものとかある?」
「父さんたちが遅くなる? ジュン、学校の勉強は終わったのか?」
「ううん、課題がまだもう少し残ってる」
「じゃあそっちをやれよ。晩めしは俺がつくるから。今日は午後の仕事がなかったから全然疲れてないんだ。まあ、いつもの野菜炒めとかでいいだろ」
「そう、ありがと、兄貴」
「ああ」
アキラは冷蔵庫の中身を確認すると、足りない材料を近所のスーパーに買い出しに行き、帰ってくるとすぐに調理にとりかかった。料理について、アキラには特に苦手な意識はなく、むしろわりと好きだった。基本的な作り方を覚えた後、材料や味付けなどを好みでいろいろと変えてみることが楽しく、大抵の場合は出来映えもまあまあで、これまで家族から不評が出たことはほとんどない。
「ただいま、ごめんなさい遅くなって。あら? アキラもう帰ってたの」
「おかえり母さん。今日は午後から健診があって早退してきたんだ。父さんは?」
「今、作業小屋に道具を片づけているわ」
「そうか」
アキラの料理が出来上がる頃に父親が丁度戻ってきた。
アキラがADCで働くようになってから、平日に家族全員がそろって晩ご飯を食べるということはめずらしくなっていた。アキラは毎日のように残業をしてきて、晩ご飯もADCの食堂車ですませてくるので、帰宅するのはたいてい夜の10過ぎになる。
「おっ? アキラじゃないか。今日は早いな」
「おかえり父さん、午後から本社で健診があって早く帰れたんだ」
「健診? おまえどこか具合でも悪いのか?」
「いや、ただの定期検診さ。検査結果は後日送られてくるみたいだけど、特に問題はないみたい」
「そうか、それならよかった。それより、ほーう、うまそうな匂いだ。おまえが作ったのか?」
「うん。さっそくみんなで食べようよ。俺、ジュンを呼んでくる」
アキラがつくった料理を家族で食べるのは久しぶりだった。父親とジュンは、アキラの料理に対してその感想を容赦なくぎゃんぎゃんぶつけてきた。アキラもそれに応じてガンガン言い返した。母親は彼らの様子を眺めながら嬉しそうにして食べていた。
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