明けない夜はないらしい

来栖クウ

明けない夜はないらしい

「……3! 2! 1! 明けましておめでとうー‼」

 人々が一斉に祝いの言葉を口にした。

しかし、今年も俺は何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。

「あぁ、また一歩も進めないまま新しい年を迎えてしまったなぁ」

 まだ明けそうにない夜の闇に、俺はそんなことを呟いた。


           *


 俺には自慢の嫁がいる。

 彼女、永浦香澄ながうらかすみと出会ったのは高校生の時。同じクラスで、明るくて優しい彼女はみんなの人気者で完璧な人だった。しかも容姿が整っており、男どもは皆彼女のことを一度は好きになっていた。もちろん俺も例外ではなく、周りにつられるように香澄のことを好きになった。

 しかしそんな人気者の香澄と俺の間には“クラスメイト”という細い繋がりしかなかった為、はなから付き合いたいだとかそんな願望はなく、わざわざ関わりに行こうとする事もなかった。可愛くてみんなに平等で優しいから好き。その時はただそれだけだった。


 彼女の素顔をいるきっかけになったのは、たまたま帰り道が一緒になった時だ。

「駅までだよね? もしよければ一緒に帰らない?」

 香澄はそう俺に話しかけた。唐突に、だ。もちろん目が飛び出るほどに驚いたが、同時に嬉しくも思った。なにせあの人気者の香澄と帰れるのだから、嬉しくない訳がないのだ。

 俺は快くその提案を受け入れ、彼女の横へ寄った。そして、この間の体育の事やクラス担任の話など、他愛のないことを話していた。


 しばらく歩き高校の最寄り駅に到着した。俺はいつものICカードを使い改札を通ろうとしたが、前にいる香澄は一向に進まない。

「どうかした? もしかしてチャージし忘れたとか?」

 そう尋ねると、ふるふると震えながら「……カード家に置いてきたかも」と言った。

 そんな馬鹿な。朝ならともかく今は放課後、学校帰りだ。俺は「家に置いてきたのなら、朝はどうやって登校してきたんだ?」と少し笑いながら指摘した。すると香澄は「た、確かに。電車で来たから、カバンのどこかにはあるはずだよね!」とものすごく当たり前なことを言うものだから、もう堪えられずに噴き出してしまった。

「ひ、ひどい! 私は必死に探しているというのに」

「ごめんって。でも普段の永浦さんとは違いすぎて……」

「普段は気が付いたらああいうキャラが定着しちゃっただけですぅー!」

 ですぅー! って、小学生か! と内心ツッコミを入れていたが、俺は確実にこのことがきっかけで彼女の事が気になり始めたのだと思う。

 そりゃまあ完璧だと思っていた人が、実はこんなにも抜けているだとか。人はギャップに弱いとはよく言うがまさにこの事だろう。俺はそのギャップというやつに、まんまとやられてしまったのだ。

 結局カバンを探すと、可愛らしい猫柄の定期入れが出てきた。

「この猫ちゃん可愛いでしょーっ!」

 そう自慢してきたが、彼女の後ろを見ると俺たちが乗る予定の電車が行こうとしているではないか。

「そんなことしてる場合じゃないってー‼」

 俺は大急ぎで香澄を改札に通らせ、何とかその電車に乗ることができた。彼女は何が起きたのか理解しておらず、あわあわと戸惑っていたが。


 とまあこんな出来事があり、俺と香澄の距離は急激に縮まった。

 そして俺は香澄の事を、周りが好きだからとかいう理由ではなく本当に好きになり、卒業式の日に告白をした。彼女は知ってましたよ、と言わんばかりの表情で「もちろん」とグッドサインをし、俺は無事香澄と付き合うことが出来たという訳だ。


 そこからはそれぞれ大学へ行き、働き出してから同棲し、結婚した。とんとん拍子で喜んでいたのも束の間。仕事が忙しく、一緒に暮らしてるとはいえ中々二人の時間が取れなかった。

 そうして結婚一年目が慌ただしく過ぎてしまい、俺たちはあることを決めた。

 それは“お正月は何があっても必ず一緒に過ごすこと”というものだ。これを決めてからは二人そろって毎年、年越しをカウントダウンして初日の出を見るのが恒例になった。そして彼女を毎年頑張って起こし、安全に連れて行くのもまた、恒例化していた。

 結婚してから分かったのだが、香澄は一度寝たらなかなか起きない。というか起こすのが大変なのだ。その癖、大みそかは夕食に年越しそばを食べた後、しっかりと熟睡してしまうのでもう大変なのである。顔をペチペチと叩いてもビクともせず、目が覚めたと思ったら「もうおそばは食べられないよ~」と寝ぼけている。

 家の外に出たらでたで階段から落ちそうになるし、危なっかしいったらありゃしない。

 まあ色々と手間がかかり大変なのだが、なんだかんだ言って俺はそんな彼女の事が大好きで仕方がなかった。

 特に日の出を待っている間に、冷えてしまった俺の耳に手を当て「私は君専用の耳当てなのです!」とか言って温めてくれるのが、すごく嬉しかった。

 そう、俺はあの時間が、二人でいる時間が好きでたまらなかったんだ。


           *


 俺は騒がしい神社を去り、初日の出を見るべく近所にある海岸へと足を運んだ。日の出までかなり時間があるせいか、人気のスポットにも関わらず俺一人しかいなかった。

 寒い冬の海に男一人。今日じゃなければ自殺だと疑われそうだな、なんて思いながら波立つ海を眺めた。

 __そういえば昔、香澄とここでかき氷食べたっけなぁ。

確かスプーンで上から取ろうとしたら、全部落としたんだよね。あの青ざめた顔といったら。思い出しただけで笑ってしまう。

 そう昔のことを思い出していると、海の家からオーナーの人だろうか。白いひげを蓄えた小柄なおじいさんが出てきた。そして手招きをしながら「外は寒いだろう。こっちへおいで」と言ってくれたので、有難く入れさせてもらうことにした。


 中へ入るとストーブが付いていて暖かく、海の家らしからぬ光景だった。

「あの、今はシーズンオフ中ですよね? どうして開けているのですか?」

「開けているのは今日だけさ。毎年寒い中、早くから砂浜にいる人がいるって知り合いから聞いてねえ。風邪ひかれちゃ困るし、温めてやろうと思ってね」

 そう言いおじいさんはへへっと笑った。

「そういや年越しそば、あるんだけど食うかい? 冷たいのだけど」

 おっと。温めてやると言ったそばから、冷たいそばとは。なかなかにいいじゃないですか。

「頂きます。夕食とれていなくて、少し腹が減っていたところです」

 そういうと「そんなことだろうと思ったわ」と言いながら、水でそばをほぐしていた。そして1分ほどして俺の前に完成した冷たいおそばを置いた。

「知ってるかい? 最近は流水麵っちゅうのがあってな、ほぐしてツユを入れるだけで美味しいそばの完成じゃ。こんな老人でも簡単に作れるなんて、便利な世の中じゃのう……」

「へぇ、そんなものが」

 そう言いつつ、そばをズズっと勢いよくすすった。なるほど、これは旨い。俺はおじいさんの流水麺への思いを聞きながら、ぺろりと完食した。

「ごちそうさまでした。あの、色々すみません。私一人のためにここを開けてもらったり、そばまで頂いてしまって……」

「いやいや、わしが好きでしてるから気にしなくていい。ばあさんは死んでしもうて、どの道一人じゃからな。一緒にいてくれる人がいるだけで嬉しいもんじゃよ」

「それならよかった。確かに一人は……寂しいですよね」

 香澄がいた時は知りもしなかったが、二人で住んでいた部屋に一人というのはかなり辛いものだった。「ただいま」と言っても返事はなく、今はただ彼女の過ごした後だけが嫌に残っている部屋。現実と向き合わなければならないその空間は、俺にとって居心地の悪いものになっている。

「こんな料理もまともに出来ない老人じゃがな、あんたの話を聞くことくらいは出来ると思うとる。まあ聞いたからと言って大した助言は出来ないかもしれんが……でも一人で抱え込むよりは何倍も楽になるぞ」

 人生の先輩からのアドバイスじゃ! と笑いながら、おじいさんは言った。

「___じゃあ、少し聞いて頂けますか? 人に話したことがないので、うまく言えるかはわかりませんが……」


「私には香澄という、自分には勿体ないくらいに面白くて可愛い、妻がいたんです。でも三年前に、亡くなりました……末期ガンだったんです」


           *


 ある冬の寒い日のことだった。

「んー、なんだか最近食欲が出ないんだよねぇ。こんなに美味しそうなキムチ鍋が目の前にあるというのに! 体が拒否しちゃう」

「えぇ、香澄が食べないなんて珍しいね。一応病院で検査してもらおっか」

 香澄は初め「大げさだよ~」と言って病院に行くのを断ったが、俺も付き添うからと行くことを勧め、念のために検査をしたのだ。

 そして検査結果が出て、何故か俺だけが部屋へと案内された。この時点で少し嫌な予感はしていたんだ。でもあんなに元気な香澄がそんなことあるはずがない……そう信じて部屋に入った。

 しかし、現実とは残酷なもので、医師からはこう告げられた。

「胃がんでした。肝臓に転移していたので……余命は三か月です」

そして彼女本人に伝えるかは、ご家族の判断でお願いします、と。

 俺はもう気が動転してしまい、何も考えることが出来なかった。誰かに相談しようかとも思ったが、香澄の両親は既に亡くなっており、彼女の家族は俺一人だったのだ。

 何も理解できていなかったが、一先ず入院の手続きをしていた。すると待合室にいた香澄が「先生なんて言ってたー?」と尋ねてきた。そして俺はここで、彼女に最初で最後の嘘をついてしまったのだ。「胃が弱くなっちゃってるみたいだから、少し入院しておこうだって。でも直ぐに良くなるから心配はいらないよ」そう言ってしまったのだ。

 この選択が正しかったのか間違っていたのかなんて、今でも分からない。でも、少なくともその時の俺には“香澄を安心させる”ということが一番重要だったのだと思う。

 そしてもちろん、そんなその場限りの嘘が事実になるわけもなく、彼女は日に日に弱っていった。

 しかし、香澄は俺に、医者から本当は何と言われたのかを改めて尋ねてくることはなかった。恐らく自分でも、もう永くはないという事かわかっていたのだろう。


 そして月日は立ち、医者に言われた三か月目を迎えようとしていた頃、香澄は唐突にこう俺に言った。

「__誰かと幸せになってね。でも、私の事は忘れないでほしいな、だなんて。ちょっとずるいかな?」

「っなんでそんなこと言うんだよ。香澄と一緒に過ごした時間が、今あるこの時間が、とっても幸せなんだよ。」

 そう伝えると彼女はふふっと少し笑った。そして「ありがとうね。でも……」と彼女はその後に言葉を続けようとしたが、俺はどうしても香澄の口から聞きたくなかった。だから抱きしめた。香澄が痛くない力で精一杯抱きしめた。

 それでも「ちょっと強いよ」と彼女が言うのだから、もう嫌でも実感してしまうのだ。別れが近いという事を。


           *


「__そして香澄はその次の日の朝、息を引き取りました」

 全てを話終わり顔を上げると、そこには涙と鼻水でぐしょぐしょのおじいさんがいた。服の袖で涙をぬぐったのか、袖や手まで濡れてしまっていた。

「えっと……おじいさん大丈夫ですか?」

 俺はおじいさんに尋ねるが、うぐうぐと言って全く言葉になっていない。とりあえず持っていたポケットティッシュとペットボトルの水を渡すと、豪快に鼻をかみ、水を一気に飲み干した。

「いやぁ、わしが思うとった以上に大変な思いをしてるのぉ……よお頑張った」

 そう言って俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「どうしたんです急に。ちょっと嬉しいじゃないですか」

「本当によぉ頑張った。ほれ、このちり紙やるからあんたもその涙拭きな」

「……え?」

 自分の頬に触れ確認すると、確かに少し濡れていた。そのちり紙をあげたのは私ですけどね、と言おうとしたのに驚いて言葉が出なかった。


 ふと窓の外を見ると、真っ暗だった外は少し明るくなっていた。

「お、おじいさん! 泣いてる場合じゃありません! 日もう出ちゃいそうですよ⁉」

 俺は大急ぎで扉を開けた。

 一足遅かったのか、間に合ったのかはよく分からないが、辺り一面が橙黄色に色づいていた。あんなにも暗くて少し不気味だった砂浜が、明るくたくさんの人で賑わっていた。


 今年も見に来たよ、と今はもういない彼女に心の中でそう告げていると、トンっと俺の足に何かがぶつかった。下を見ると、三歳くらいの女の子が額を抑えていた。

「ご、ごめんね!」

 急いでしゃがみ、おでこケガしてない?と聞くと「うん! 志乃しのは強い子だからへーきだよ‼」と元気に答えてくれた。

 あまりにも可愛らしかったのでそっかそっかと撫でなていると、俺の顔を見て、急に不安そうな表情になった。

「あれ、おにーさん。泣いてるの? お目目真っ赤になってる」

「__あ、いや、大丈夫だよ。少し寒いだけ」

 そう言うと、うーんと志乃ちゃんは考えだし、あっ! と言った。何かを思いついたらしい。

 どうしたの? と尋ねると「こうするの!」と言って、俺の耳に手を当てて耳あてのように覆ってくれた。

「えへへ、あったかいでしょっ! ママの耳、いつも冷たいからよく温めてあげるの。おにーさんも冷たいね!」

 確かに志乃ちゃんの手はカイロや耳当てなんかよりも、温かかった。香澄の手と同じくらいに。


「志乃ー? どこにいるの?」と遠くで声がした。恐らく母親だろう。

「志乃ちゃん、お母さん探しているから行っておいで。あっためてくれてありがとね」

 そうお礼を言うと志乃ちゃんは、またね! と手を振ってお母さんのもとへ走っていった。

 でも途中で振り返って「もうあっためなくて大丈夫? もう一回してあげよっか」と楽しそうに笑顔で聞いてくるのだ。

 あぁ、どこまでも彼女にそっくりだな。そう思いながら「もう体も心もぽっかぽかだよ!」と俺も笑顔で手を振り、見送った。


「無事に明けられたかい?」

 そう尋ねてきたおじいさんに、俺は笑いながら言った。

「えぇ、とっても。こんなに清々しい気持ちになれたのは久しぶりです」

 そしてまた来年会いに来ます、と。

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