第3話 家族
結婚するまでの名瀬は、家事というものをほとんどしたことがなかった。子供の頃にときおり母親の手伝いをしていたくらいで、一人で台所に立ったことは一度もない。学生のときも、炊事はもちろん、洗濯や掃除といった家事は全て、下宿先のおばちゃんがしてくれた。
名瀬は、家事のほとんどのことを妻の綾子から教わっていた。彼女のやり方は非常に丁寧で文句の付けようがなく、教わった通りにやりさえすれば、大抵のことは上手くできた。
一方の名瀬も意欲的だった。もし結婚したら自分も家事をしようと、そう心に決めていたからだ。家のことをほとんど顧みなかった父親と、そのことに絶えず愚痴をこぼす母親の姿を見て育った名瀬にとって、そうすることがある種の理想の家庭像となっていた。
名瀬は、妻の言うことを素直に聞いて、炊事、掃除、洗濯と、ほぼ全ての家事を覚えていった。
だが、結婚してしばらくすると、名瀬が抱いていた漫然としたその理想は、近所に住む妻の母親によってどこかへ押しやられてしまった。義母が何かにつけて毎日のように名瀬のマンションにやってきて、妻が担当するはずの家事をして帰ってゆくのだ。
「いいんですよー、義男さん、気にしなくて。私もこんな風に自分の母親にしてもらっていたんですから」
名瀬にはよく分からない理由だった。共稼ぎの夫婦なんて今時珍しいことじゃないし、それぞれみんな夫婦で力を合わせてやりくりをしている。手伝ってくれるのは勿論有難いことだけれど、やはり自分たちのことは自分たちでやらなくては。
「一体どういうこと? なぜお義母さんが君の家事をしなければならないの?」
「別にいいじゃない。手伝ってくれるって言うんだから」
綾子は聞く耳を全くもたなかった。どうやら彼女は、初めからそのつもりだったようだ。
そうして名瀬の家では、名瀬と、義母の富美子とで家事を分担して行うようになっていた。なぜ妻がこうした状況に何の違和感を持たず、むしろそうであることが当然のようにふるまえるのか、名瀬には理解することができなかった。わがままに育てられた一人娘が、今もなおその母親に甘えている。そんな風にしか思えなかった。
しかし、トキオが生まれて2年ほどすると、その疑問に対する答えが、徐々に姿を現し始めた。
「明日からこの子を学習塾に通わせるわ」
「塾!? ちょっと待って、トキオはまだ2歳だよ。勉強なんて無茶だよ」
「何を言っているのあなた。今どきの幼児教育じゃそんなこと普通よ」
「普通って、トキオは? トキオは行きたいって言ってるのかい?」
「行きたいかどうかなんて、そんな小さな子供に決められるわけないでしょ」
「そんな」
「子供にはね、大人がきちんと勉強の仕方を教えなくちゃいけないの。だったら、できるだけ早くから始めた方が良いのよ」
そうしてトキオの勉強人生は始まった。綾子は、自分のもてる時間のほとんどをトキオの勉強に当てるようになった。
「さあトキちゃん、この問題をやってみて。そう、そうよ、よくできたわね」
トキオは物覚えが良く、その理解力は周囲を驚かせるほどだった。そしてそのことは、妻と、そして義母とをとにかく喜ばせた。
幼児教育をしていなければ、トキオの才能に気付くのはもっと後になっていたかもしれないし、親が子供の勉強をみるという行為自体も、自分の子供時代に照らすと名瀬は反論することができなかった。名瀬の母親も、忙しい時間をぬうようにして名瀬の勉強をみてくれていたからだ。
しかし、そうしたことを勘案したとしても、妻と義母のやり方はほとんど病的というか、かなり異常なものだった。特にトキオが5歳を迎えた頃の彼女たちの態度と形相は凄まじく、心配する周りの声など容赦なくかき消して、その気持ちさえも、それこそ根こそぎなぎ倒すようなものになっていた。
当時の名瀬の家の様子は、大体次のような感じだった。
まず、綾子が朝の5時半に起床して朝食の用意をする。その後、6時ごろに名瀬が起きてトキオを起こし、そのまま3人で一緒に朝食を取る。
朝食が済むと、6時半ごろからトキオは妻と一緒に勉強を始める。そして、7時半になると義母がやってきて妻と交代し、トキオをマンションに残して、私と妻はそれぞれの仕事に向かう。
8時半になると、トキオは保育園に行く準備をして、義母に車で送ってもらう。そして午後4時半くらいになると、義母が迎えに来て、そのままトキオは一旦義母の家に連れられる。そこで服を着替えて一休みすると、今度は学習塾に送ってもらう。
学習塾では、トキオは国語と算数の2科目を習っていて、夜の7時くらいまで勉強をする。塾が終わると、迎えに来た義母と一緒に名瀬のマンションに帰ってくる。ちょうどそのころに妻が仕事から帰宅し、その後、名瀬が帰宅する。家族が全員そろうのは夜8時ごろになる。
夕食は必ず3人で一緒にとるようにしていた。ちなみに平日の夕食はすべて作り置きで、名瀬が週末にまとめて作っていた。
夕食が済むと、トキオは妻と英語の勉強をする。イギリスやアメリカの幼児教育で実際に使用されている教材を使用しながら、発音も妻によって細かくチェックされた。
英語の勉強が終わるのはいつも9時ごろだった。何もなければそれから3人で一緒にベッドで就寝する。しかし、トキオの宿題が終わっていなかったりすると、その後10時くらいまでトキオは妻と勉強をすることになる。
トキオが通っていた学習塾では、学習内容が生徒毎に異なる。学習進度が20段階くらいに分けられていて、進級試験に合格すれば次のクラスに進むことができる。つまり、各生徒の学習レベルに合った勉強をすることができるというシステムなのだが、進度の速さを競い合うような側面もあった。
妻と義母は、トキオにと言うよりも、そのシステム自体に傾注していた。彼女たちは、とにかく早く、トキオを上のクラスへ進ませることを優先していた。
トキオは週に3回、その学習塾に通っていた。塾のない日は宿題が用意されるため、保育園から帰るとすぐに勉強を始めなければならなかった。宿題は、B5サイズのプリントが各科目で10枚くらい出されていた。そしてこれらの宿題プリントには、妻と義母が塾の先生に頼んで特別にもらったものも含まれていた。
その頃のトキオには、自由に遊べる時間というものがほとんど与えられていなかった。とにかく時間さえあれば、妻と義母は、宿題プリントをトキオにほとんど強制的にやらせていた。それこそ毎日、土日などは朝の9時くらいから夕方の4時くらいまで延々と勉強させていた。
トキオはかなり勉強を嫌がるようになっていたが、それでもクラスはどんどん上がっていった。6歳になったとき、トキオは小学校で習う学習内容をすでに終えていた。
しかし、いくら勉強が得意だといっても、トキオはまだ幼児期の子供だった。さすがに中学生の学習内容にもなると、トキオの理解力が追いつかず、勉強は進み難くなった。しかし、それでもかわまず、妻と義母は二人してトキオに勉強をやらせつづけていた。
「早くこの問題を解いて! もうできるでしょ! まだやらないの? まだやらない、まだやらない、まだやらない・・・」
トキオが鉛筆を置こうとするたびに、トキオは妻と義母に怒られていた。土日になると、ほとんど一日中、妻と義母はまるで気が狂ったようにトキオを怒鳴っていた。トキオが泣き叫ぶと、妻はトキオを押し入れの中に閉じ込めたり、さらには、トキオを床に押し倒して、その上に馬乗りになって顔をひっぱたくこともあった。
一方の名瀬はどうしていたのか。もちろん、名瀬は彼女たちのやり方を何度も止めさせようとした。特に妻の綾子との口論は絶えなかった。だが、妻は、そして義母も、名瀬の言う事にほとんど耳を貸さなかった。名瀬がトキオの勉強を止めさせようとすると、義母がトキオを自宅に無理矢理つれて行ってしまうのである。
「ちゃんと勉強しないと、お父さんにみたいになっちゃうのよ」
その頃の名瀬は、昇進試験を受けていたのだが、なかなか合格することができないでいた。勿論、名瀬なりに試験勉強には真面目に取り組んでいたのだが、元々出世というものにほとんど興味がない上に、仕事と家事とをこなしながら勉強もするということが、あまり要領の良くない名瀬には難しかった。
義母はそんな名瀬のことを、トキオの前で容赦なくなじった。名瀬に対する義母の態度は、トキオや妻に対するものとは全く違う、悪意さえ含むものになっていた。そして妻も、何度も試験に落ちてしまう名瀬に対し、次第に高圧的な態度で接するようになっていた。
「あなたって、私に頼り過ぎているんじゃない? そんなことだから受からないのよ」
「君に頼ってなどいない。僕だってちゃんと働いてる」
「あなた、今の年収で満足してるの? 上に行けばもっともらえるのに。あなたはね、もらえるはずのお金をみすみす逃しているのよ」
「それはそうかもしれないけど・・・でも普通に暮らしていけているじゃないか」
「今暮らしていけているのは私も働いているからでしょ。あなたの収入だけではとてもやっていけないわ」
「やっていけないなんて、そんな大げさな」
「生活レベルを今よりも落とすことなんて私には我慢できないし、それにもし私が仕事を辞めたら、トキオを私立の学校に通わせることはかなり難しくなる。あなた、それでもいいの?」
「私立の学校? それはもちろん行かせたいよ。ただし、本人が望めばね。君は結局、自分のエゴでトキオを私立の学校に入れたいだけだろ、無理矢理に」
「違うわ。私はトキオをきちんとした方向に導こうとしているだけよ。あの子はまだ子供なんだから、自分がどんな学校に入りたいかなんて、まだ分かるわけないじゃない。子供のうちは、勉強のやり方や学校のことを親がきちんと教えなくちゃならないのよ」
「たとえそうでも、トキオの気持ちや考えを無視してもいいなんていう理由にはならないさ」
「あなたには分からないのよ。子供の頃に親からきちんと勉強を教わっていないんですもの。ご両親が手を抜かずに、もっとあなたに勉強させてくれていたのなら」
「なんだと?」
名瀬の両親はどちらも、子供に勉強を強制する人ではなかった。勉強しろと親から言われた記憶が名瀬にはほとんどない。勉強を子供自身に任せること。それは、母親の教育方針であり、父親もそれに従っていた。
だから名瀬は、子供の頃からほとんど自分で考えて勉強をしていた。もちろん、我流であるために、なかなか思うように勉強が進まず悩むときも多々あった。しかし、そういうときは母親に相談していた。母親は、勉強しろとは言わないけれども、教育に無関心というわけでは決してなく、名瀬が困っているときには、きちんと名瀬の話を聞いて、どうしたらいいかを一緒に考えてくれた。
名瀬のやり方は確かに時間がかかった。しかしそれでも、問題の解き方をなんとか自分で見つけ出したり、物の覚え方をいろいろと工夫することは、名瀬にとってとても楽しい作業だった。
勉強は楽しい。楽しくなければそれは勉強じゃない。いつの間にかそうした考えが名瀬の中に沁みついていた。だから、得点そのものが重視され、とにかくスピードと正確さが要求される、いわゆる「試験もしくは受験勉強」というものは、名瀬にとっては苦痛を伴う、ほとんど意味を見いだせないものだった。
一方、妻の綾子は、「元々勉強はつらいもの」という考えをもっていた。辛くて苦しいその困難を乗り越えていかなければ、競争に負けて、この世の中で思うように生きていけない。その考えは、義母の教育方針に根差したものだった。妻の綾子は、幼少のころからずっと、義母による厳しい指導のもとでの勉強を強いられてきたのである。
名瀬は、何度も離婚を考えた。勉強というものに対してこれほど違う考え方をもち、しかも、自分だけでなく両親のことまでも、その人生を真っ向から否定するような言い方を平気でしてくる妻と義母に対して、このままではいつか逆上して理性を失い、彼女らをその手にかけてしまうかもしれないと、本気で思うようになっていた。
(もしそんなことが起きたら、自分だけじゃなく、トキオの人生まで滅茶苦茶になってしまう。嫌だ。あの子の父親が犯罪者だなんて、そんなことは絶対に許されない)
妻と義母とを単なる敵とみなせれば、名瀬はどれほど楽だっただろうか。トキオがいなければそれもできたかもしれない。トキオにとっての彼女らは、まさしく愛すべき母親と祖母であり、それより卑下した存在では決してない。トキオに寄り添えば寄り添うほど、自身の想いが本心から乖離する。当時の名瀬は、精神的にかなり追い詰められていた。
◆
その日、トキオは義母と一緒にいつもより少し早く家を出ていた。保育園で遠足が催されていたためだ。
マンションで妻と二人きりになった名瀬は、おもむろに話を切り出した。
「離婚? 全くあなたって人は、二言目にはそれなんだから」
「いいや、僕はいつだって本気だよ。こんなのおかしい。君やお義母さんのやり方は、はっきり言って異常だ」
「だからって、そういって逃げ出すの? 本当に無責任ね」
「無責任? ああ、どう思ってもらってもかまわない。だけどこのままじゃ本当に僕は君たちを殺しかねない」
「私たちを殺すですって? あなた分かってるの? それって脅迫よ。通報されたいの?」
「脅迫? 僕は警告しているんだ。警察でもなんでも呼びたければ呼んだらいい」
「・・・この話はまた後にしましょう。仕事に遅れてしまうわ」
「ちょっと待ってよ、まだ話は終わってない」
「うるさいわね。トキオと離れて暮らすなんて、あなたにできっこないわ」
そう言われて名瀬ははっとした。次の言葉が出てこなかった。
離婚をすれば、トキオの親権はおそらく妻のものになる。大手の総合商社に勤める彼女はすでに管理職にも就いていて、社会的な地位と年収は名瀬よりも数ランク上だ。親権裁判のおよそ9割が母親に親権をもたせている社会的な情勢をみても、妻が有利であることは火を見るよりも明らかだった。
仮に裁判で争っても、自分にはほとんど勝ち目はないし、ましてや妻が親権を譲ることなど絶対にありえない。そうした現実は、もう何年もの間、名瀬の中に浸潤し、すぐには届かないほど深く沈殿していた。
だが、妻に言われるまで思ってもみなかったことに、名瀬は突然足元をすくわれたようだった。
名瀬はもう、トキオなしではまともに生きてなどいけない。
離れて暮らすようなことになれば、名瀬はおそらくこれまで以上にトキオのことに時間を費やすことになるだろう。もう勉強は終わっただろうか? まだやらされているのだろうか? 妻に怒られて泣いていないか? 叩かれていないか? 四六時中トキオのことが気になって、居ても立ってもいられなくなるに違いない。
結局、離婚しようとしまいと、トキオの存在は名瀬の中に常にある。妻や義母と離れることに意味があるとしても、トキオと離れて生きることに意味はない。いつもトキオのそばに居て、トキオの側に立つこと。それが、名瀬がトキオにしてやれる唯一のことだった。
名瀬はぼうっと立ちすくんだまま、力を失った目で、玄関に向かう妻の後ろ姿をみていた。妻は顔を上げようとはせず、吊り上がった厳しい目を伏せるようにして靴を履いていた。
「私、先に行くから、戸締りお願いね」
ああ、と名瀬は心のなかでか細く返事をした。そしてそれが、妻との最後の会話だった。
その日の午後一時半ごろ、妻は交通事故に巻き込まれて命を落とした。
タクシーの運転手が運転中に発作を起こして意識を失い、制御不能となったタクシーが急加速して歩道に侵入したのだ。タクシーは、歩道に居た人々を次々となぎ倒すと、コンビニの中に突っ込み、中のレジカウンターに激突してようやく止まった。
それは、あっという間の出来事だったが、犠牲者は十数人にも及んだ。
妻は、仕事で遅くなったランチを一人で食べに行く途中でその事故に会った。車道の近くを歩いていた妻は、左から来たタクシーにまともに追突された。駆け付けた救急隊員の話では、跳ね飛ばされた彼女は、その勢いでコンクリートの地面に頭部を強く打ち付けたとみられ、脳挫傷によってほとんど即死の状態だったという。
◆
妻の死から3年が経過した今でも、彼女のことを想うと、名瀬は胸が苦しくなる。
だがそれは、妻を失ったことの悲しみや喪失感などではなく、そこから派生するものでもない。むしろ名瀬は、彼女が死んでくれたことに安堵していた。
名瀬が苦しむ理由はトキオだった。
名瀬は、親として、いや、一人の人間としてでさえも、悲しみに沈むトキオの気持ちに寄り添うことができずにいた。
反駁し合う思いがジレンマを生み出し、それは日を追うごとに熾烈なものになっていった。名瀬は、予想もしなかったことにうろたえ、その愚かな弱さを自身に露呈してしまった。ジレンマの矛先を彼女の死そのものに向けようとしたのである。
あいつが・・・あいつが勝手に、勝手に死ぬから・・・
それが名瀬の過ちだった。どこにも収まりようのない苦しみは、ただただ鬱積してゆくだけで、いつしかそれは、彼女に対する理不尽ともいえる嫌悪、さらには憎悪と化して名瀬の中に居座るようになっていた。
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