第2話 一年前、高2のダオ

 西暦2045年の夏、首都マハナシテイにて


「今年の夏フェスどうする? またみんなで行く?」


 一学期の最後の授業が終わり、教師が教室を出て行くと、高月美和が、待ち構えていたように、前の席に座る江藤かおりに話しかけた。


 江藤は席についたまま、左腕を椅子の背もたれの上に乗せて上体を高月の方にひねった。


「えっ? うーん、どうしようかなー」


「何、その反応? かおり、どうしたの?」


「ううん、別にどうってことはないけど……」


「なんなの? 想わせぶりなそのセリフ、てっきり『絶対行こう!』とか、即答されると思ってたのに」


「ちがうのよ。勿論行きたいんだけど。でも美和、去年と違ってその話は全く出てこなかったじゃない? もう今年は行かないのかなって思ってた」


「えーっと、それにはいろいろと事情がありまして」


 盗み聞きするつもりはなかったが、高月の左隣りの席に座るダオの耳には、嫌でも二人の会話が耳に入ってきた。


「何、事情って?」


「えへへ、まあいいじゃないそんなことは。それより夏フェスだよ。かおりも行くでしょ?」


「今年はちょっと予定があって」


「予定? 何、予定って、あんた、まさかもしかして……彼氏?」


 一瞬、ビクッとしたように江藤の瞳が少しだけ大きくなった。慌てて周りを見ようとしたとき、ダオと目が合った。江藤は、急に目を伏せるようにうつむいて、くるりと前に向き直った。


 なかば冗談のつもりで言った高月は、江藤の予想外の反応に面食らったが、すぐに事情を察し、会話の途切れた状況をとりつくろうようにダオにつっかかった。


「ちょっと東条、何見てんのよ。あんた、塾とかあるんでしょ? さっさと行きなさいよ」


「あ、ああ」


 ダオはなおざりに頷き、机の上の教科書とノートを無造作に鞄にしまい込むと、急いで席を立った。高月は自席をすでに移動していて、江藤の右横に寄り添うように腰をかがめていた。


「じゃ、お先に」


 そう言ってダオが教室を出ようとしたとき、ちらりと江藤の方に視線を向けた。しかし、彼女は視線を机の上に落としたまま、高月の話をじっと聞いていた。


(そうか、江藤さん、彼氏ができたんだ……)


 彼女のことが頭から離れなかった。塾に向かう途中の地下鉄の中がいつもより込み合っているような気がして息苦しかった。塾講師のシャツの白さが妙にいらつき、そして授業が全て終わる頃には、なんだかもう疲れきっていた。


 明日から夏休みが始まる。夏フェスか、僕はほとんど塾の夏期講習。江藤さんとは一月近く会えない。


 よく分からない焦りのような感覚が、絶えずダオをとらえて放さなかった。


 東の空に丸い月が浮んでいる。時刻は、夜の八時を過ぎていた。


 電車の窓から見える西の空にはまだ日の光が佇んでいたが、辺りはすでに薄暗く、街頭の明かりが優しく見えた。


 駅の改札を出て、いつもの帰り道に向かった。駅の正面にあるコンビニの前を通り過ぎて、車一台がやっと通れるような細い路地に入る。普段なら、その時間帯にその道で人と会うことはまずない。しかし、その日は前の方に、小柄で細身の女性らしき人がふらふらと歩いているのが見えた。


(珍しいな)


 そう思いながら、ダオがその人物の横を足早に通り過ぎようとすると、


「ここは、どこかえ?」


 突如話しかけられた。街灯からちょっと離れていたのではっきりとは分からなかったが、おそらく70歳は超えているように思われる女性が、か細い笑顔でダオを見つめていた。


「どうかしましたか?」


 無視するわけにもいかず、ダオはその女性に話かけた。


「娘がね、家に居るんだけど、娘に言ってもらえればいいんやけどね」


「は?」


 かみ合わない会話にダオは戸惑ったが、その女性をよく見てみると、くたびれたTシャツを着ていて、下は黒のジャージ、そしてサイズに合わない大きめなサンダルを素足に履いていた。ついさっきまで家に居て、着の身着のまま外に出て来たという感じがした。


(この人、もしかして……)


 ダオは、その女性の名前を尋ねてみた。


「私? 私は鈴木ノリコ言うんですわ」


「鈴木さん、一人で帰れますか?」


「心配せんでもええよ、もうずっとこの辺に住んどるんやから、それにしても娘はどこかえ?」


(やっぱり……)


 認知症を患っているのでは? そう思ったダオは、その女性の首筋のあたりを見た。すると、女性の首の後ろの方に、小さな傷のようなものが見えた。


(おそらくあれは、バイオチップを埋め込んだ手術痕だ)


 認知症が重度に進行した患者には、徘徊してもすぐにその居場所を特定できるように身体にバイオチップが埋め込まれることが法律で義務付けられていた。バイオチップを使用するそのシステムでは、例えば、線路や国道沿いなどの危険区域に患者が近づくと、バイオチップが発する信号を、その区域に据え付けられている受信センサーが検知し、それらを管理するコントロールセンターを介して、患者の親族や、近くを巡回する警官などに即座に知らされる仕組みになっている。


 おそらくこの女性は、認知症による徘徊が起きて、家に帰れなくなってしまったのだろう。受信センサーに感知されれば、すぐに誰かが迎えにきてくれるはずなのだが。


(うーん、この場所は駅や大きな道路から少し距離があるし、電波が届き難いのかも)


 そう判断したダオは、とりあえず近くの交番までその女性は送り届けることにした。


「鈴木さん、大丈夫です。すぐに帰れますからね。僕と一緒に来て下さい」


「あんた、わしの家を知ってるのかえ?」


「え? ええ、まあ……」


「そうかい」


 ダオがその女性の住所を知るはずはないが、今はそう言っておいた方が、その女性を早く家に帰してやれると思った。


「それじゃ、行きましょうか」


 ダオがその女性の脇にそっと寄り添ったとき、女性のTシャツの袖口に電話番号らしき数字が並んでいることに気が付いた。


「あっ、これってもしかして」


 女性を街灯の下の方まで連れてゆき、Tシャツの袖口を確認すると、さっき本人から聞いた名前と自宅の電話番号が記してある白い生地が縫い付けてあった。


「鈴木さん、これはあなたのお家の電話番号ですよね? 今から私がこの番号に電話をかけて、あなたのご家族の方にここに迎えに来てもらうようにします」


 ダオは、ポケットから携帯電話を取り出すと、その電話番号を慎重に打ち込んだ。


(きっと心配してるんだろうな)


 プルルル、プルルル、プルルル、ガチャ!


「もしもし? 鈴木さんのお宅でしょうか?」


「……」


「あの、鈴木さんのお宅ではないでしょうか?」


「……誰だ?」


「えっ、あっ、すみません。私は東条という者です。今、鈴木典子さんと一緒にいるのですが……お迎えに来て頂けませんか?」


 てっきり娘さんが電話に出るものと思っていたダオは、明らかに男性と思われるその低い声に少しだけたじろいだ。


「どこにいる?」


「駅前のコンビニから北に続く細い路地を少しだけ行ったところです」


「分かった。すぐに行く。ガチャ!」


 いきなり電話を切られたダオは、一瞬だけムッとくるものを覚えた。


(なんなんだよ? 感じ悪いな。人がせっかく親切にしてやってるのに)


 電話に出た男は、お礼の一言もなく、まったくそっけない感じだった。


「ここでしばらく待ちましょう。ご家族の方が迎えに来てくれますから」


「娘が迎えに来るのかえ?」


「いいえ、電話に出たのは男性の方でしたよ」


「……」


 女性は、ポカンとした顔でダオの方を見ていた。


「あの、鈴木さん、電話に出たのはあなたの旦那さんか息子さんではないですか?」

「旦那はもう亡くなってるし、息子などおらん。私は娘と二人暮らしだよ」


「えっ、そうなんですか?」


 ブッ!


 突然、街灯の明かりが消えた。


 送電線のトラブル? しかし、明かりがないのはダオたちの周りだけで、元来たコンビニの辺りは煌々としていた。


 一瞬の静寂と不安が同時に訪れ、光を求めるダオの瞳が、薄暗い路地から、瞬きを増した星のある空へ向かう。


(いつの間にか、あんなに星が……あっ!)


 目の錯覚だろうか? 空に見える無数の光の全てが、同じテンポで瞬いていた。


(星たちの光が同期している。こんなことってあるのか?)


 ふと思い出したように、ダオが女性の方に顔を向けると、そこに女性の姿はなかった。


 ガサ!


 そのとき突然後ろの方から物音がした。びっくりして音の方向に顔を向けると、黒い人陰のようなものが見えた。


 異様な気配がすぐさまダオの心身を捕らえた。複数の陰が次々と現れ、いつの間にか周りを囲まれていた。


 激しく打つ心臓の鼓動が、耳に届くようだった。


(ヤ、ヤバイ……)


 身の危険を感じたダオは、公園の出入り口に向かって走ろうとした。

(なっ!?)


 身体が全く言うことを聞かず、ダオは指先一つ動かすことができなかった。


 一体の黒い影が俺の正面から近づいてきた。一瞬だけ月の明かりに晒されたその者の姿は、人間とは明らかに違っていた。


(!? 顔が、無い?)


 その者は、何か小さな黒い生き物が無数に寄せ集まってとりあえず人間の形を成している、そんな感じだった。


 得体の知れない実体を伴う影のような、その何者かがダオの右手に触れると、その者の体が一瞬バラけるような動きを見せて細長い帯のようなものに変わり、ダオの右腕から胴体に巻き付いてきた。そして、その他の影たちも同じように次々とダオの体に巻き付いてきた。


(う、うわああああ!)


 痛みは無かった。だがダオの意識は、囂々と鳴る暗闇の渦に飲み込まれ、いずれ訪れる消失の時にその全霊を震わせていた。


 そのとき、文字を読むときの内なる声のように、何かがダオの頭に響いてきた。


(オオイナル、オオイナルイシヲ……キミニ……タクス……タクス……)


 繰り返し響いてくるそれは、必死に理解しようとするダオの意識を否応無くそぎ落としていった。

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