戦中
イスキとスサム
狗奴国の険しい山を
ミソゴイの鋭い鳴き声が高い位置で、峨々たる山々に
午後の剣術の稽古中、
イスキの横には愛犬のノイが伏せの姿勢のまま静かに前を見つめる。
ノイが無駄に吠えることは決してない。
狗奴国では人の数より犬の数の方が多いと言われ人は必ず犬を飼うことが文化としてというより国衆の義務として深く根付いている。
アドアはイスキの真横でドカっと大きくあぐらをかき、焚き火の準備に余念がない。
「兄者、今日は緊急の大集会だから酒は出んのかのお?」
アドアが屈託のない笑顔でイスキに言った。
イスキが黙っていると、
「ほら、これ」
アドアが懐から革袋をそっとイスキに見せニヤっと小さく笑った。
こっそり酒を持ち込んでいるらしい。
どうしたら、この男のように屈託なく悩まず生きれるのかイスキには全く理解できなかった。
犬は飼い主に似るというが、アドアの飼い犬ハフは伏せたままトロンとした目つきで大あくびをしている。
「兄者が先に、」
とアドアはイスキに形ばかり酒を勧めた。
イスキは首を小さく振り拒絶した。
<国主>の息子<国太子>であるイスキが父である<国主>スサムの前で全世帯主が集まる大集会で酔った姿を見せれるはずがない。
「じゃあ」
軽く言うと、アドアは栓を器用に口で咥え開け大きく革袋の酒を煽った。
そしてはーっと大きく酒臭い息を吐いた。
イスキとアドアの前ではスサムの家の家令
「若君、ちょっと失礼を」
と言いながら大きな焚き火の用意をしている。
クロノは焚き火の前に収穫されたヒエの実で太ももの高さほども在る大きな山をきれいな円錐形で築いた。
そして、そのヒエの山の上に冬でも緑の葉が生い茂るシイの木の枝を刺した。
スサムの指示のようだがイスキはこのヒエの山にどういった意味があるのかわからなかった。
<国主>のスサムはまだ現れていない。
狗奴国の全世帯主はちらほら三々五々集まってきた。
世帯主とは概ねその家の家長か兵士を指す。
<黒の兄弟>と呼ばれるタカムにヒカムの兄弟、狗奴国最強の兵士だと考えられている。
<
ドネアは子を六人も生み育て、そぼやま戦役では兄や弟が討ち死にしたにも関わらず猿頭国の<
体が一番大きいのはロッタ。
狗奴国国内では収まらずおそらく倭国全域でも指折りの戦士である。二つ名は<
狗奴国の国衆より毛皮を多く使った衣装を着た<
<
彼らは田や畑を耕さない。
その<
<ジンガイ>は髪の毛すら結わず、頬骨が大きく、鼻も大きく、ほぼ無表情。
もう外見、人相すら倭人と異なる。
言葉もどうにか倭人の喋ることぐらいは理解できているようだが口につくのは概ね単語だけか、主語と動詞のたった二語で赤子のように二語文でしか話さない。
邪馬台国建国前の五国の乱のころから、この<ジンガイ>と倭国人が交わることは文化的に禁じられていたが狗奴国では公然の秘密で領地に堂々と住ませている。
これも領地が山がちなことに起因する。
大集会がいつも行わるのは絶壁に在る
もう晩秋ということも山あってか山間部の日暮れは早い。
夕暮れから暗闇に変わろうとしていた。
イスキとアドアは
冷えたら肩の鈍痛は冷やされマシになるかとイスキは思っていたが逆だった。
アドアに気づかれぬように痛む肩を入念に
イスキは物心がついたころからアドアに剣術で勝ってたことがほぼなかった。
背丈はイスキの方が若干高かったがアドアはどこから見ても真四角のクマやシシのような体をしていた。
動きも早く、剣の振りも早い。
いつもイスキが半歩動く間にアドアはニ歩動き、剣のそのものは完全に先回りをしていた。
5回打ち合って、よくて1回イスキが勝てるかどうか。
それもアドアがイスキの体面を保つために負けてくれているのではないか?とイスキは
イスキはアドアが盛りを過ぎた武芸者である剣術指南役の剣を思っきり振り打ち落とす場面も何度も見ていた。
おそらく、アドアは狗奴国でも五指に入る両刃の長剣を扱う剣士だろう。
だからこそ、乳母子として<国太子>のイスキの護衛が務まるのだが。
イスキは昔は自分は何でもできると思っていたが、そうでないことが大人に近づくにつれ理解しだした。
悲しく辛いことだったし、それを変えられないことがもっと辛かった。
まず剣術では
一度か二度の
<国主>の父のようにもおそらくなれない。
父のように汚名を着てまで
たぶん、出来ない。
武芸が駄目なことも父はもう知っているだろう。
父のスサムがどうしてイスキを廃嫡にしないのかすらわからなかった。
父はそんなイスキによく言っていた。
『
ただイスキにも優れているものがひとつあった。
アドアも含めて倭国そのものが文字を持たず全員がほぼ文盲だが、イスキは漢籍が自由に読めた。
北の海から伝わる漢籍や漢詩を読むのが大好きだった。
美しいが建前ばかりの儒教や老荘思想は面白くなかった。
今は謀略で七国を翻弄した「鬼谷子」や「墨子」「縦横家」を好んで読んでいた。
自分は武芸は一切ダメだが、策や計略でならこの力が支配する倭国でも活躍できるはずだ。
イスキは邪馬台国の人質になっているマルヌが羨ましかった。
マルヌも漢語をほぼ自由に操る。イスキとマルヌは竹簡と木簡で文通をしていた。邪馬台国には狗奴国とは比べ物にならない量の書物が在るという。
「兄者っ」
アドアが小さく鋭い声でイスキを
松明の明かりのなか、父のスサムが国老を数人従て現れた。
イスキとアドアは跳ね上がるように立ち上がる。
アドアは懐に手を入れ直し革袋をごそごそ。
スサムの背丈は
背丈ではイスキの方がもう高いのだ。
スサムの背後には最近良く見る、黒い犬のような耳の付いた覆いがある外套を着た少女が居る。
イスキですら名を知らない。
父、スサムがイスキの知らぬ
最近、富に目にする。
絶壁の
スサムは腰辺りまで炎が
「皆の衆、ご苦労」
大集会場に集まった全世帯主一同が軽く頭を下げる。
狗奴国では邪馬台国のように中国式だったりきちっとした儀礼が行き渡っていない。山間部に位置する完全な後進国である。
後進国というのにも理由がある、国土がほぼ山間部であるため狩猟や採集を行う<
そして、耕作地が限られ人口が少ないこともあるが、世帯主は全員が集まり国政を議論し採を取る。
もちろん<
倭国の中でも数少ない完全民主性をとっている国である。
言い換えれば、まだ農耕文化になりきれていない国と呼んでも良い。
山々に響く鳥の声はミソゴイからフクロウに変わりつつあった。
「楽に。皆に急に集まってもらったのは、この倭国の事態、状況が大きく変わったからだ」
スサムの低い声が淡々と響く。
イスキとアドアや国老たちはスサムの後ろに控える。
急に大集会を開いたのにもスサムには狙いがあった。
予告なしに会を開いたほうが根回しなどなしに参加することになり、参加者の生の声が聞けるからだ。
民衆を誘導もしやすい。
スサムやイスキの背後は断崖絶壁の砥石山である。
イスキの頭の上には大庇岩が半丁ほど張り出している。
民衆が国政を議論していた場所は変わっていないが、前の<国主>ヴァルナはこの
大庇岩の上に豪奢な屋敷を構え、幾人もの美女を妾にして抱え平民を見下ろし暮らしていた。
スサムがヴァルナを殺した後にその豪奢な屋敷は大庇岩の上に負の遺産として朽ちるままにヴァルナの
イスキは幼い頃、一度アドアや幼馴染の仲間と大庇岩の上を見に行ったことがあった。
まずヴァルナの館が思ったほど大きくなかったことに驚いた。
これも狗奴国の貧しさを表している。
朽ち果てた館の張り出したボロボロの縁側の上に長い髪の毛がへばりついた髑髏と襤褸の如きボロボロの布に覆われた人骨が散乱していた。
人骨は一体分とは思えなかった。
イスキはその時始めて人の死体を見た。
それと大量の割れた酒瓶と杯も。
人骨も杯も瓶も全てが異様に白かった。
イスキがもう一つ酒が苦手なのはこの時のせいかもしれない。
イスキは後にここにイスキの母の骨も散乱していることを一人の
噂は完全に二通りに分かれていた、イスキの母、スサムの妻はヴァルナに無理やり寝取られた。
もしくはイスキの母は身持ちが良い方でなく、ヴァルナと公然と密通していた。
イスキは確かめようともしなかった。
人は好きなことを言う。
それに知りたくなかった。
スサムは立ち上がり飾らぬ言葉で邪馬台国での<宣旨会>での様子を語る。
イスキもその場に居た。
黒雲が天を
邪馬台国の群衆は何に怒っているのかイスキにはよくわからなかったが猛り狂い暴徒と化して倭国の支配者階級の人間全てに襲いかかった。
狭い会場の中、命があったのが不思議なくらいの大騒動だった。
「神岩は動かなかった」
スサムはここだけは強調した。
それはイスキも見た。
季節ごとに宣旨会は行われていたが神岩が動かなかったことは邪馬台国建国史上始めての事である。
「姫巫女の<先読み>がここ数年当たっておらんことは知っておろう。姫巫女の力は地に落ちた」
スサムは言い切った。
狗奴国の国衆や<古人>からは、
イスキの耳には、アドアが革袋の封を切った音だけが聞こえた。
「邪馬台国は地に落ちた」
イスキはスサムの後ろに座っていたのでスサムの表情までは伺えなかったがスサムはこの言葉を大きくはっきりと言い切った。
そのあとは狗奴国の貧しさについての話に進む。
狗奴国が山がちであるがゆえの耕作地の少なさ、上流に位置しながらのうねり川の水利権の問題。
スサム自身が新田開発の件を姫巫女に幾度も謁見を求め陳情、懇願したにも関わらず認められなかったことに至った。
全国衆の中にとぐろを巻くように怒りが渦巻くのがイスキにも感じられた。
「見よ。あが国衆どもよ。ここにあがや、なれらが
スサムは立ち上がったまま焚き火の前のシイの木の枝が立ったヒエの山を大げさに指し示した。
「これが、なれらが一年かけて耕し得られるヒエとする。邪馬台国が建国する前の五国の乱もひどい時代であったが、これらのヒエはすべてなれらのものとなっていたはずだ。しかし」
スサムは一拍置いた。
「今、邪馬台国はあがらからこれだけ持っていく」
主語に自分を指すあが入りだした。
スサムはしゃがみ込むと大げさにヒエの山を抱きかかえるように腕をぐるっと回しガバっとヒエの山そのものからほぼ全てを奪うとそれを蹴り散らかした。
食べ物であるヒエを足蹴にする事自体が貧しい狗奴国では禁忌だ。
イスキには聴衆が生きの呑む音が聞こえる気がした。
そして、ヒエの山に刺してあったシイの枝はパタンと倒れた。
「この枝はなれらだぁ」
この声が一番大きかった。
国衆は先よりも水を打ったように静かになった。
「邪馬台国さえなければ、シイの枝は立っていられる。だが邪馬台国があるとどうだ、、、、、」
突然国衆の間から声が上がった。
国衆が<国主>の声を遮ったのだ。
声は血気盛んな若者の声でなく、初老の年老いた声だった。
「若いなれらは知らんだろうが五国の乱の時代の方が良かった。そりゃあ
年老いた声はつまり、その男の言葉は続かなかった。
が、次々と違うものが年老いたものの声に続いた。
「ここんところ、飢饉続きじゃ姫巫女様の<先読み>はどうなっとる」
「そうじゃ、食っても奪われて腹いっぱいにならんのに、なぜ耕さなければならん」
「新田開発を禁ずるとはどういうことじゃあ」
「うねり川を堰き止めてしまえ、あの川の周りに田をいくらでも広げられる」
「邪馬台国などいらぬわぁ」
「そうじゃ」
さっきまで聞こえたフクロウの鳴き声が聞こえなかった。
愚痴が怒りが怒号が大集会にうねりをなって現れた。
ただならぬ勢いがこの場を支配していた。
熱いものが
それを<国主>のスサムが一喝した。
「静まれっ」
大集会場に静寂が戻った。
「ならば、なれら全員に問う。邪馬台国を滅さんと思うものはその場に立てぇい」
スサムのすごい大音声だった。
これは、単なる<国主>の国衆に対する煽りではなかった。スサムは重大な決を国衆に求めたのである。
邪馬台国を滅ぼすとは蜂起、
完全な謀反である。
そこらあたりは国衆、<古人>、<ジンガイ>みなが理解していた。
全体の1/4は立っていない、座ったままである。
戦に出たら生きて帰れる保証はない。
手や足を失いもっと過酷な生が待っているかもしれない。
それよりは、ヒエの水粥をすすりひもじく貧しくとも生きていたいと思うのも人の常である。
狗奴国人はほぼ全員が常時長剣を腰にはいている。
「立った者に重ねて問う。座っている者を切れるか?」
この問いかけの声は先程と逆に小さかった。
が、これ以上重大な問いかけはなかった。
イスキは自分が座ったままであることに、今この瞬間気付いた。
隣を見ると乳母子のアドアは立っていた。
イスキは死の恐怖というより得体の知れない謎の気持ちに動かされ跳ね上がるように飛び上がり立った。
座ったままだった1/4に動揺が走る。
幾人かは立った。
しかし敢えて座ったままのものも居た。
実は問われてから立ったものこそ
全体のどれだけが座ったままか数えることがイスキには出来なかった。
もうなにもかも見たくはなかった。
どこかで声が上がった。
「切れるぞぉ」
それと同時だった。
断末魔の悲鳴がどこかであがった。
立ったものが、それほど多くはない座ったままのものを斬り殺し始めた。
<黒の兄弟>や<熊御前>も刃物を振い隣人や同胞を襲っていた。
座ったまま刃を振い戦うものも居たが、座ったままでは不利だった。
いたるところから、うめき声と最後の声が上がった。
座っていたものの犬まで殺された。
狗奴国人が狗奴国人を殺していた。
信じられない。
イスキは言葉がない。
イスキはこれほどの数の同国人が同国人の手によって殺されるのを見たことがなかった。
自分も座ったままだったならばアドアや父のスサムに斬り殺されていただろうか?。
「ぬぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
始めて人を切った、突いた、殺したものも多くいただろう。
途端、至る所で犬が半狂乱で吠えだした。
噛み合う犬も居た。
人が犬のように吠えているのである。
どうして犬が吠えずにいられるのか。
今、ここに狗奴国史上最強の軍隊が誕生した。
攻めるに難く守るに易い深い谷や高い山々に守られた守備兵の集団でなく、邪馬台国を打ち倒さんがため立ち上がり蜂起した最強の軍勢である。
<国主>のスサムがイスキの方にさっと振り向くとささやくように言った。
「イスキ、少し話しがある」
スサムの背後にはちょうど肩のあたりに赤い小さな月がぼーっと上がっていた。
その満月は血の色というよりスサムの潤んだ目の色のように赤かった。
だが、今までイスキが人生で見た満月の中で一番小さく弱々しげな月だった。
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