第11話 夢見る手帳1
夏の前に来る雨季は、人によっては憂うつかも知れない。
しとしと降る雨が身体にまとわりつき、じゅわりと足下から這い上がってくる服の濡れと冷気は、人からぼんやり考えることを奪っていく。
歩きながら考えるのが好きな人は、雨が嫌いなことだろう。
まあ、「隔壁」によって全く濡れない俺には、関係ない話である。
図書館に行くのに、公園のアーチ橋を渡る。水路には蓮の花が咲いていて、公園の来客数に貢献している。
図書館通いは相変わらず続けているが、週に三回くらいに減らしている。
今日は平日なので、授業が終わった午後からである。
「アーカム君」
本棚を回って数冊の本を取り、受付ブースに入っていくと、メアさんというお姉さんが話しかけてきた。
銀色の髪と青い瞳は、見る人に氷雪を連想させる。今日は、白い肌に合わせた、水色のワンピースがよく似合っていた。
メアさんは図書館の常連で、高等科(一六才〜一八才)の二年生だ。たしか、大きな商会の娘さんだった気がする。
上級魔法薬学を専攻していて、俺は、メアさんが要望の本を探すのをよく手伝っている。
メアさんの探している本は、専門書で題名ではなかなか見つけ難いものばかりだった。本の内容を記録している俺は、うってつけだったわけである。
最初は小さな子供が、専門的な魔法薬に詳しいことを驚かれたが、話が通じると分かると、とても楽しそうに魔法薬のことを話してくれる。本当に魔法薬が好きなんだと思った。
「お久しぶりです。今日は何をお探しですか?」
いつものように尋ねると、メアさんはにこにこと眉を下げた。
「今日は麻痺薬の生理反応のレポートを書くから、範囲も広いし……考えながら探すわ」
「分からないことがあったら、聞いてくださいね」
「お願いするね」
メアさんは頷いて、にっこりと微笑んだ。そして、綺麗な髪をなびかせて魔法薬の本棚に向かって行く。
俺は机に座ると、魔力操作の本を読みながら体内の魔力の動きに集中した。
魔力の操作と、成長による魔力量の増大は、イタチごっこになっている。制御を外れた魔力はダダ漏れて拡散するので暴走するわけではないが、外に出る魔力が多ければ、魔力に敏感な人に注目されてしまう。魔力の隠蔽を成功させるためにも、日々の鍛錬は必要だった。
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「あら……?これは……手帳?」
メアが、魔法薬関連の棚の間を彷徨い歩いていると、本と本の間に挟まっている手帳を見つけた。りっぱな黒い革の装丁で、背表紙のポケットに高そうな装飾のペンが差してあり、照明にきらりと輝いた。
なんとは無しに興味が湧いて、パラパラと捲ると、綺麗な女文字で文章が綴ってある。それは日々の日常を書いた日記のようだった。
「受付に届けないとね」
誰かの忘れ物だろうか。
メアは席に戻る次いでに、あとで受付に寄ればいいと考えて、手帳を小脇に挟んで自分の目的の本を探す。
手帳のことを意識の外に追いやると、レポートの構成を考えることで、すぐに頭がいっぱいになった。
受付に手帳を渡して、メアは閉館時間までレポートに没頭する。魔法薬のことだけを考えられるこの時間が、メアには何よりも充実していた。
調べものを終えて、メアが図書館を出ると、雨は止んでいた。
街灯に灯りが点くギリギリの時間に、メアは家路を急いでいた。年頃になったせいか、最近親は門限に厳しい。
夕焼けに赤く染まる、石畳を歩いていると、誰かが後ろを歩いているような気がした。人通りは寂しくなっているが、つき始めた家の明かりに照らされて、家路はぼんやりと明るい。
意を決して振り向くも、誰もいない。
メアは気のせいかと思い直して、踵を返す。その後は何もなく、家にたどり着いた。
「あら……?」
自室で鞄を開けると、借りてきた本に混じって、あの手帳が入っていた。
レポートに夢中で受付に出し損ねてたかしら?記憶が曖昧なメアは、明日持って行く算段とし、そのまま鞄に入れておく。急いで洋服を整え、リビングに向かった。
「遅いぞ」
テーブルに料理は揃えられ、既に上座に座っている父親が、顔を顰めている。
彼は、娘が魔法薬に夢中なのを、あまりよく思っていなかった。それよりも、商会の運営に必要な経営学か商業学を学んで、有能な男の嫁になり、一緒に商会を盛り立てて欲しかった。
だから、娘が魔法薬を学びたいと言い出したとき、経営学と両立出来る条件で、それを許した。
「時間が足りないなら、薬学は諦めたらどうだ」
メアはムッとしたが、表情には出さなかった。横柄な物言いはいつもの事だ。昔は反発もしたが、今は違う。養われている現状では、何を言っても聞いてくれないだろうし、卒業後、決裂するなら魔法薬で身を立てればいい。
やりたいことが決まっているメアには、そのためのいろんな努力をする覚悟があった。我慢もそのうちの一つだ。
「気をつけます」
殊勝な表情を作って謝ると、父親は頷いて満足する。大人は従順であればとりあえず何も言わない。メアは親に対するわだかまりにも似た気持ちを、いつものように抑え込んだ。
気疲れする夕食が終わり、メアは自室に戻る。
疲れた頭の中には、レポートをやらなければという気持ちだけがあり、中々作業を始める気分にならなかった。
机の上に積み上げた本の、一番上に置いてある手帳を、無意識にパラパラと捲る。文字を追っていると、なんとなく気分を変えたくなって、手帳を手にしてベッドに横になった。
それは、ある女吸血鬼の物語だった。
これが実話なのか、作り話なのかはよく分からなかったが、読みやすい文体や痛快な展開に、つい夢中になって読んでいた。
吸血鬼の能力を使って、人助けをする。どこか父親に似た、悪巧みをするギルド長をぎゃふんと言わせ、困っている小さな少年を助ける。目を潤ませて感謝する少年。
メアは何故か、あの図書館の、気の合う少年を思い出した。
…………いつの間にか眠っていたメアは、そのまま朝まで眠っていたことに気がついた。
急いで朝の支度を終わらせて、高等科に向かう。帰りに図書館に寄るつもりで、手帳を鞄に入れた。
よく寝たせいか、気分は妙にすっきりしていた。
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あれから数日経ったが、図書館には一度も行っていない。
あの日返す前にと、昼休みに手帳を読んでいたら、その後の授業で眠気が酷かった。我慢出来ずにうとうとしていたら、珍しいとみんなに笑われてしまう。
授業が終わっても眠気は覚めず、遠回りして図書館による気力も湧かず、そのまま帰った。
家に着くと不思議なことに、眠気はすっかり消えた。その後は普通に過ごしたが、図書館に行けなかったことは少し罪悪感を覚えた。
「明日行こう……」
そう思ったが、手帳の中身が気になって、やっぱり最後まで読みたくなる。あとちょっと、あとちょっとと思いながら、ずるずると図書館に行くのを伸ばした。
メアは手帳に書いた物語に、どっぷりとハマっていた。
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暗い夜道、石畳を黒いコートの集団が走っている。普段は荒事を専門とする彼らも、今日命運は、ついに尽きた。
走っているのは獲物を追っているわけではなく、彼らが獲物になったからだ。
暗闇から伸びる影が、彼らを一人ずつ消していく。ついに一人になった男は、膝をついて泣き叫んだ。
影から現れた女吸血鬼は、冷酷に男の首を刎ねると、追いついてきた少年に微笑みかける。
いつか助けた少年だ。それからずっと付き従ってくれている。
少年は荒い息を吐きながら、潤んだ目で女を見つめていた。
美しい。
その上気した頬も、赤く幼い唇から吐く息も、白い健康的な喉も。
女は今まで、一度も少年の血を吸ってはいなかった。興味もなかったからだ。
だが今、猛烈に少年に対して飢えを感じた。
女は少年を手招きして、喉にかぶりつく。少年は、抵抗しなかった。
女はねっとりと少年の喉に舌を這わせた後、牙を突き立てる瞬間に躊躇する。
このまま眷属にしてしまえば、少年は永遠に自分の下僕となる。だが、今までくれた思慕はどうなるだろうか。
気にしていなかった少年のその思いが、心地良かったことに女は初めて気が付いた。
女は牙を喉から離す。
離れる女の顔を、少年の細い手が留めた。熱に浮かされたような少年の顔が、間近で女を見つめる。
溶けて消えるような声で、少年は囁く。
「永遠に、ともに……」
見つめた少年の顔は、図書館のあの子だった。
「ああああああああ!」
自分のものか分からない、湧きあがった激しい感情の衝撃で、メアはベッドから飛び起きた。
「はあっ……はあっ……はっ……はっ……」
乱れた呼吸を整えて、落ち着こうとする。心臓は早鐘のように早かった。
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