第2話 ぼくかわたしか -Identity formation strategies-
“わたしたちは、しばしば敵対するこの世界で、個人の境界線を再確立する必要に直面している。“ Erik Homburger Erikson
ぼくは穴の中をずっと一人で進んでいた。
確かにまっ暗なダイヤモンド採掘場にいたはずなのに。
ラジオとスコップだけを持って何の希望もない穴掘りをしていた。
そのはずだった。
ところが、突然、光に照らされて。
花だらけの場所に出たんだ。
あたり一面に咲いている花。
晴れているのに、どこにも太陽がない。
洞窟の中なのに、まったくおかしい。
こんな景色は見たことがなかった。
一本の道がそのまん中をまっすぐに伸びている。
ぼくはただそこを歩く。
ラジオに聞いてみようかと思ったが、あいにく電波が届かないようで、肩からかけたラジオはもう、うんともすんとも言わない。
まっ白な道はただの土で、足下には草が無造作に生えていた。
ただただ明るい。
しばらく歩くと、大きな門のようなものが見えて来た。
どうやらそれは巨大な鳥の形のようで、あたり一面に無数の装飾がされている。
街の入り口だろうか。
その下に、女の子が一人いた。
帽子をかぶっている。
「きみはだれ?」
ぼくは静かに聞いてみた。すっかりこの不思議な世界の雰囲気にのまれて、何から何まで混乱している。
一体、どうしてこんな場所にいるのだろう。
女の子は下を向いたままじっとしていた。ひょっとしたら話せないのか、そう思ったらあっさりと口を開いた。
「わたしは、オト。存在以外は何もない」
麦わら帽子の女の子はこちらを向いた。
ハッとぼくの呼吸が止まる。
なぜなら女の子には顔がなかったからだ。
「なんだって? 変な名前だな。嘘の名前でしょう? 変なの」
ぼくは女の子の何もない顔に問いかける。表情がないので、嬉しいのかどうかさっぱり理解できない。
「いいえ、変じゃないわ」
「ふうん。変な名前」
「そうかしら」
「そうだよ。なんか言いにくい」
女の子はまっ白なワンピースを着て、足の先まですっぽりと隠していた。こんなに晴れているのに、なぜか傘を持っていた。
「ふーん。きみは何のために存在しているの?」
女の子はつんでいた花を取る手を止めて、しばらく考えているようだった。
「さあ。ある時からわたしは存在していた。どうして存在しているのか、なんて考えたこともないわ」
「へえ。どうして自分が存在するのか、わからないんだ」
ぼくは吹き出してしまった。笑ってから、悪いことをしたようで、ばつが悪くて下を向く。
オトは麦わら帽子の下でうなずいた。笑っているのかもしれない。花畑では、風も吹かず、暑くも寒くもない。道ばたには光があふれ、目がくらむほどに明るい。
「あなたはどうして存在しているの?」
質問を返される。よく考えると、口がないのに声が聞こえる。どこから音が出ているのだろう。
「ぼくはぼくだからだよ」
「“ぼくはぼく”というのは、どういう意味なの?」
「ぼくがきみではない、という証明さ」
ぼくは、さも当たり前のように答える。
「そのような証明書は、どこでもらえるの?」
女の子は強い口調でそう言った。
「なんだか質問責めだね。証明書なんてないのさ。ぼくがぼくのことをよくわかっていれば充分だ」
「仮に、ぼくがわたしだとしたら?」
「何を言っているの? ぼくはわたしではない、からね。それだけは間違いのない話だ」
「どうしてそう言い切れるの?」
その時、ふっとオトの顔にモヤがかかった。肌の色に、灰色のような、青色のような、濁った色が混ざり合う。
「ぼくは、わたしじゃないよ。絶対に違う!」
「それを証明してごらんなさい」
女の子の顔の濁ったモヤが、やがて粘土のように盛り上がり、ぐにゃぐにゃとうごめきだす。そして、段々と形が定まり、やがて顔の形になっていく。
まっさらだった肌に、目と鼻と口と、顔の部分が現れ、そうしてついに顔になった。
その顔はなんと、ぼくだった。
女の子はぼくの顔になってしまった。
「これでもまだ、ぼくかわたしかわかるの?」
女の子はすっかりぼくの顔になって、こちらを見つめてくる。格好が違うだけで、自分と同じ顔のぼくがぼくを見ている。非対称な目と、焼けた肌、目が小さく、口は丸っこい。
「なんてことを!」
ぼくはオトが怖くなったので、後ろに退いた。
「ほら、すっかりわたしがぼくになってしまった」
「顔を変えた方がいいよ!」
ぼくはどうすれば良いのかわからず、あわてて大きな声を出す。
「ぼくが二人もいたら、ママが困ってしまう」
「そうね。でも、ここにはいないわ」
ぼくは、ぼくの顔が微笑むのを見た。笑えない。
「きみは、きみの顔を見つけた方がいいよ!」
ぼくは思いつきでしゃべってしまう。汗が出て、手足をばたつかせる。
「ぼくかわたしか。あなたには結局、わからないのね」
女の子はつんだ花を、麦わら帽子の上にのせる。頭から花が生えているようでおかしかった。どこからともなく、青い小鳥がやってきて、自分の寝床のように帽子にとまる。
「ぼくはぼくだよ! だって、ぼくにはぼくにしか、わからないことがあるから」
ぼくはひと通り自分しか知らないようなことをペラペラと話し続けた。
例えば、右の脇の下にホクロがあること、足の親指の爪が紫色をしていること。朝起きたらいつも髪の毛がボサボサで、目やにが取れづらいことを。
「こんなことは知らないだろう! ぼくしか知らないんだから、きみはぼくじゃないよ」
「今、知ってしまったわ」
女の子はぼくの顔で得意げに言う。
「でも、それはぼくのママには通じないよ」
「だから、ここにあなたのママはいないのよ」
「じゃあ、ママのところへ一緒に行こう! そうしたら、ぼくときみのどちらがぼくかを言い当ててくれるさ」
「お断りするわ」
「どうして?」
「あなたったら、ママの力を借りないと、ぼくかわたしか証明できないの?」
「だって! 逆の立場だったときを考えてみてよ!」
ぼくは思いつく限りの不満をぶちまけて、怒りのままに手足をばたつかせた。
「信じられない。もう、見なかったことにして、ぼくは前に進んできみのことをすっかり忘れることにするよ」
「じゃあ、このままぼくが二人いてもいいのね?」
「関わり合わなければいいだろう」
ぼくはそっぽを向く。
「二度と会うこともないんだから」
すると女の子は急にぼくの腕をつかんだ。その手は、まるで氷のように冷え切っていた。人間のものとは思えない。
「何? どうしたの」
「一緒に証明書を探しにいきましょう」
女の子はぼくの顔をしたまま、じっとこちらを見つめてきた。なぜか、見透かされるような気がして怖かった。後ろめたいことはないのだけれど、なぜか目を合わせたくなかった。
手をほどこうとしたら、凄まじい力で腕を握られる。
「嫌だよ。証明書なんて。ぼくにはちっとも必要じゃない。ぼくは、世界で一番ぼくを知っているんだから」
「それは、あなたの中だけの話でしょう。ぼくがぼくであることを、世界中に知らしめないといけないのよ」
腕を握る力をさらに強くして、ほとんどにらみつけるようにぼくを見た。
「どうしてそんなことをしなくちゃいけないの?」
「あなただけの世界じゃないから」
握っていない方の手を自分自身の胸に当てて、ゆっくりと言った。
「さあ、行きましょう」
「いやだ」
「行かないと、ずっとわたしがあなたのままになってしまうわよ」
「そんなのってないよ!」
「それでもいいの? わたしがあなたのフリをして、勝手なことをしてしまうわよ」
「犯罪者だ! きみはまったくの最悪」
「ねえ、そういえば、あなたはなんて名前なの?」
「えっ」
急に、ぼくは自信がなくなってしまう。また、目の前のぼくの顔がグニャグニャと変形し始める。雲がうごめくように目のあった場所と口のあった場所がグルグル回転している。ぼくの顔はついに灰色になってしまった。
「えっ」
「あなたの名前は、何?」
「ぼくの名前は」
その時、ぼくは言葉を失った。
「ぼくの名前は、ああ、なんなんだろう!」
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