第七章 初体験!

 男の通過儀礼を終えた俺は翌朝まで眠りこけていた。


 「力、起きや」

 「え!?和美!?あ!裸!?って急に名前で呼ぶ!?」

 「ごめんごめん。つい一緒に寝てしもた。シャワー先浴びてもええ?」

 「ど、どうぞ」


 とんだことになったぞ……念の為確認だが……ノート……確認しよう。


 「プレス」


 これは石山さんに教わった筋トレだな。


 「八百万の神」


 これはそうだ、ジョンさんと見たDVD!


 「童貞卒業」


 ……だよな。漏れなく書いてある。普通こう……何て言うか……襲われる感じで失うもんなの?童貞って。


 「文句あんの!?」

 「は!心の声!いや、大丈夫です!」

 「うちは、嬉しかったで」

 「よくもシャワー室から聞こえる声で言えるな!」

 「これはチーム公認のイベントやから、堂々としとき」

 「公認イベント?どういう世界線?」

 「でもこんなん初めてやわ」

 「俺もですけど!」

 「ちゃうちゃう。男の人、ちゃんと信頼したの。コーチとはまたちょっとちゃうっていうか」

 「どういうこと?」

 「もう、恥ずかしいから聞かんといて!偶には自分で考え!あほ!」

 「こういうのは恥ずかしがるんだ。女心は分かんねぇ……、え!ちょっと公認ってもしかして……」

 「そうやで、力は今日から、正式には昨日の夜から公認パートナー。女性戦闘員は必ず男性戦闘員サポートを受けるんや。これは男女差別やない。物理的に腕っぷしでは女が弱いからや。でもちょっと心配。あんた、名前の通りうち好みのホソミやけど、今のままじゃさすがに弱すぎやろな。もっと気合い入れて料理作らんとな」

 「あの、膳場さんは?」

 「コーチは今日からうちの公認パートナー代理っちゅうことになる」

 「なんかよく分からんが複雑な関係性だな」

 「もちろんお父ちゃん役のコーチと私に身体の関係はあらへんよ。またコーチから直接話があるはずや。ま、とりあえず今日は晴れて戦闘機の初搭乗やろ?ちゃんと頼むで、うちのダーリン」

 「うっ、分かったよ」


 唐突なモテ期は意外な形で一旦の終着点を迎えた。これで俺は麗しい別所さんや巨乳の司令をエロい目で見ることもできなくなるのか。まぁ見るがな。これは男のサガだ。


 「あかんで!」

 「ひぃ!」

 「もう、なんでもええけけど今日はいつもよりちょっと多めに朝ごはん食べときや!」

 「え、何で?」

 「戦闘機、あれはかなりエネルギーを使う。特に糖質や。糖質言うたら米や米。力、あんたいつもおかわりせぇへんやろ?あんな量じゃ絶対ちゃんと動かせへんで。今日は焼き魚も準備しといたから、三杯は米を食べること!」

 「三杯も!?」

 「おかず増やしてるんやからいける!食べや!」

 「ったく……分かったよ」

 「あら、朝から痴話げんかかしら?」

 「司令!」

 「いいわね、若くて。若いのでは物足りなくなったらいつでも総本部へいらっしゃい」

 「かしこまりました!シュートを抜けていの一番に参ります!」

 「サイテー。司令、もうあんまりいじめんとってください」

 「冗談よ。こんなおばさん興味ないでしょ」

 「いえ、どっちかって言うと興味あります。いえ、興味しかないです」

 「力、あんた本当、大学生って感じやな」

 「あぁ、むしろノーマルだと思ってる」

 「うふふ、じゃあ志賀さん、何が何でも今日は細見くんにちゃんとご飯をたべさせておいて頂戴。愛の力でね」

 「任しとってください!」

 「ちゃんと食うから、大丈夫だって!ほら見てろよ!」

 「もう、無理にかき込んだらあかんよ。よぉ噛んで食べるんや」

 「よく噛んで?」

 「これやから男子は。ええか?消化吸収のプロセスその一は咀嚼や。これは絶対覚えとき」

 「咀嚼……」

 「噛むことや。咀嚼する回数が多くなれば食物は小さくなる。特にでんぷん。要は米やな。米は唾液に含まれるアミラーゼっちゅう物質で消化されるんや。だからよく噛んで米をちゃんと消化して吸収しやすい形に噛み砕きつつ、アミラーゼを分泌させることが大事ちゅううわけや」

 「唾液……ねぇ」

 「なんや、夜のこと想い出したんか?」

 「ばか!違うよ!」

 「ふーん?うちは思い出したけど?」

 「からかうなって」

 「ふふ、まぁええわ。つまりちゃんと噛まへんかったら消化不良を起こすっちゅうわけ。この食堂にテレビがないのもその為や」

 「テレビ、確かに……何の関係が?」

 「テレビとかケータイ見ながら食うとったら、そっちに気が取られるやろ?そうすると噛むことを忘れてまうんや。肥満の人はそういうながら食いをする傾向にあるとも言われとる。食べることに集中すること。それは食べ物に感謝することにも繋がるんや。何も悪いことはあらへん」

 「そういえば前の食事の時も、そんなこと言ってたっけ」

 「せや、覚えててくれたんやな。今日は魚もあるからちゃんと骨と身を綺麗に分けて、食べるんやで」

 「魚……アニサキス……」

 「あほ!内臓はちゃんと洗ってるし火も通ってるわ!」

 「アニミズム……」

 「なんや、自然信仰のことかいな。そっか、いまDVDで勉強中やもんな」

 「あぁ。いや、この魚も、さっきの寄生虫も、もともと生きてたんだよなって……」

 「なによ急に……。まぁ科学的な言い方やと、食物連鎖っちゅうことやな。でも、強いから食べてるんとちゃう。こうやって殺生せんと生きていかれへん弱さを、この生き物たちが助けてくれてるんや。だからその命を粗末にしたらアカン。そういうこっちゃ」

 「殺生……」

 「無益な殺生だけはしたらアカンよ。」

 「でも今日から俺……戦闘機に……あれは殺戮の兵器じゃ?」

 「あれは殺生の為の道具やない。それだけは覚えとき」

 「殺生の道具じゃない戦闘機?なんだよそれ?」

 「そうや。まぁその辺も含めて説明があるやろから。うちはちょっとトレーニング行ってくるわ。ほな頑張ってや、力!」

 「お、おう」

 「男のあんたならできる!」


 そうだ、俺は男になったんだ。総本部へ向かう足取りも心なしかどっしりとしている。今日は苦手なシュートも上手く滑れる気がする。行くぞ!


 「来たわね、細見くん」

 「ええ、麗しき別所さんに来いと言われたので迷わずシュートを抜けて参りました。おかげ様で滑るのが上手くなりました。ちゃんと左に寄らずに清らかに真ん中を進んでだ次第であります」

 「公認パートナーが出来たくせに……相変わらずね。まぁいいわ。ほら、あれがあなた専用の人型戦闘機よ」

 「あれが……」

 「どう?」

 「柄にもなくピンクなんですね。俺用のヤツ」

 「あら、可愛くていいじゃない。まぁ石山くんが赤、長浜くんが青、ジョンは緑、和美ちゃんが黄、マネージャーは紫だから、細見くんにはピンクぐらいしかなかったのよ」 

 「サクラ大戦……」

 「こら!近年も新作が公開された大ヒットゲームの話なんて言わさないわよ!日本刀とか使わないし、ピンクが桜色とか言わないんだから!あれは大正の話!」

 「別所さん、ゲームとかアニメに詳しいんですね。黒髪ロング美女が実はオタクだったというのは萌え展開ではありますが意外です。ちなみに作中では“大正”ではなく“太正”ですね」

 「本当にやめておきなさい。原作側から叱られるわよ」

 「それはまずいですね。で、どこにあるんですか?戦闘機……?画面上?」

 「気が付いた?あそこは仮想空間よ」

 「仮想空間?」

 「私たちが闘っている空間はVRの世界の中。この前見た戦闘も現実世界じゃなかったのよ」

 「毎度のことながら何かのパロディみたいな設定ですね」

 「何事もパクるところからはじまるのよ」

 「別所さんもえらく潔いですね」

 「何はともあれ、ここからさらに地下へ進んだところに戦闘機は格納されているわ。それに乗って、あなたはあの仮想空間の中で闘うのよ」

 「肉体は現実世界にあるのに、魂は仮想空間へ……ってことか」

 「そう、察しがいいわね」

 「ええ、ありがちな設定ですから、さすがに分かります」

 「あなたは思い知るでしょうね。私たちの肉体がどれだけ魂の影響を受けているか」

 「ええ、うまく扱えない様な気がします」

 「潔いわね。まぁ最初はみんなそんなもんよ。遅かれ早かれいずれ同調してくるわ。ところで細見くん念の為……」

 「はい?」

 「昨晩はちゃんとイった?」

 「ひぇ!あ、その……ちゃんと……はい」

 「良かったわ、和美ちゃんがいてくれて。和美ちゃんがいなかったら私にお鉢が回ってくるところだったわよ」

 「別所さんに昨日の和美の役回りが!?え!?それを俺が逃したってのか!?なんてことだ!!時よ戻れぇ!!!」

 「戻らないわよ。ファンタジーじゃないんだから」

 「いや、仮想空間で人型戦闘機で闘うとかファンタジー以外の何物でもないでしょう」

 「細かいことは気にしないの」

 「伝家の宝刀!細かいことは気にしない!」

 「時が戻ってもきっと同じことよ。歴史にタラレバなんてないわ。」

 「タラレバ……」

 「あるとしたら、無理矢理上から墨を塗って事実を亡き者にすることだわ。本当に許せない」

 「クソ!本当に許せぬ!この怒りの矛先をどこへ向ければ良いのだ!!」

 「感情の方向が違う気がするし、あなたそんな口調だったけ?まぁ卒業済みなら取り敢えずコネクトできるから、一回乗ってみて」

 「やっぱり戦闘機搭乗用のシュートから乗る展開ですか?」

 「違うわ。見て」

 「あれは……」

 「昔ながらの木製はしごよ」

 「庭師とかが使うヤツ!!」

 「シュートから行くと勢いが強すぎて戦闘機が壊れるの。優しく乗る為にはしごの耐久性をわざと下げているわ」

 「不安!」

 「細かいことは気にしないの!はやくあのはしご、細見くんのはあの一番ぼろくて細いはしごよ!」

 「しばらく納屋にしまってあった感が半端ない!不安!」


 とは言ったもののもう引き下がれないしな……。乗るか。おぉなるほどな。あの戦闘機の心臓部みたいなところがコックピットか。うむ、やはり有名なアニメとかで見たことある感じだな。あの中でなんか魂込めながら、動けぇ!みたいなことを言ったら動くんだよな。多分その、逃げちゃダメ、なヤツ。しかしもう二十二歳の男が「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ……」とかちょっと痛くない?あれは久しぶりに父親と対峙した思春期の男の子が言うからこそ価値があるのであって……


 「こら!それ以上その作品のことを言うと色々ややこしいからやめてよね。お金払えるの?」

 「制作側から怒られる!心の声が漏れていて良かった!」

 「さ、乗ったわね」

 「お、なんか思ったより心地よい感じ。なんかいい匂いがするぞ。なんか嗅いだこと匂い……」

 「もう、ごちゃごちゃ言ってないで安全ベルトを締めて」

 「安全ベルト……?」

 「廃車になった軽自動車から移設したシートベルトよ!右肩から左腰に掛けて掛けるタイプね。」

 「なぜ!」

 「ちょっと発注が間に合わなくてね。しばらくしたらレーシングカーと同じレベルのやつが届くから。しばらくは軽自動車のやつで踏ん張ってね」

 「踏ん張れない時のシートベルトでは!!」

 「大丈夫よ。最初はどうせそんなに激しくは動けない。昨晩もそうだったでしょ」

 「見てたの!?」

 「馬鹿ね。そんな悪趣味なことしないわよ。初体験なんてそんなもんよ。さ、今からこの戦闘機と初体験よ。じゃあちょっと練習モードの仮想空間にデータを飛ばしてるから、ちょっと動かしてみて」

 「動かすって……」

 「そうね、簡単なのは利き手の右手、とか」

 「なんで俺の利き手を」

 「受付でペン持った時から把握してるわよ」

 「なんたる洞察力!あ、動いた!」

 「右手を真っすぐ上にあげてみて」

 「こ、こうですか」

 「そうそう、そのまま左ひじを曲げて、コブシを腰の横へ」

 「こうですね!できました!……これは……」

 「ダサいポーズ。いやー予想以上にダサいわね」

 「げ!!え、これどうやって戻すの!?」

 「焦ると動かないわ。自分でやってごらんなさい」

 「あ!え?ちょ!なんで!動かない!動いた!いや、こうじゃない!ダサい!ぬぉ!」

 「それは“シェー”かな?そういう微妙なネタ、辞めてくれる?お金……」

 「は!払えません!あ、動いた」

 「お金のことになると冷静なのね。覚えておきなさい」

 「ふぅ。著作権料……やべぇ」

 「ま、そんな感じで、次は歩いてみようか」

 「いや、無理でしょ」

 「ふーん。そのレベルってことね。失望したわ」

 「いや歩けます!歩けますとも!……あ!ちょっと危な……」


 俺は尻餅をついた。現実世界では転んでいないはずなのに、ちゃんと尻が痛い。そして、立てない。訳分らん。なんで?歩くだけ……なのに……


 「OK!練習モードを終了するわ」

 「は、現実!うわーケツが痛てぇ……」

 「ま、こんな感じよ。どう?簡単でしょう?」

 「何を見てそのコメントを!簡単なワケないでしょう!」

 「ふふ。じゃあここからは長浜くん、よろしくね」

 「はい、承知しました」

 「長浜さん!」

 「一部始終、見させてもらいました。やはり私の指導が必要でしたね。思った通りです」

 「いや、あんなの、動かせるようになるんですか?」

 「動かし方、手順通りやれば問題ありません」

 「手順通り?」

 「なんてことはありません。もう一度練習モードにして、私もそちらの空間へ行きます」

 「ふえ!またやるの!?……あ、あれ、立ってる?」

 「練習モードですからね、リセットされたのです」

 「はっ!長浜さんの戦闘機!……めっちゃ軽やかに走り回ってるし」

 「いやー走るのは気持ちいいですね!ほらあなたもご一緒に!」

 「だから無理!って痛っ!また尻餅!」

 「ほら、立ちなさい。手は動かせるでしょう。私の手につかまって」

 「あ、ありがとうございます。イケメンキャラはせこいなぁ……」

 「ふふ、何故尻餅をついたか分かりますか?」

 「いや、何が何だかさっぱりです」

 「ではもう一度歩いてみて」

 「でもどうせまた……痛っ!!尻餅ばっかだぁ……」

 「なぜ後ろに倒れると思います?」

 「だから分からないですって」

 「後ろに倒れるということは物体の重心はどうなっている?」

 「重心?後ろに倒れるってことは……後ろ?」

 「そう。あなたは歩き出す時、重心が後ろに残っているのです」

 「重心が後ろに?どういうことですか?」

 「歩くとしたら、細見さんはどちらへ進みたいのです?」

 「え、前……ですけど」

 「では重心はどちらへ進むべきでしょうか?」

 「前……でしょうね」

 「そういうこと。細見さんは歩く時、どうやって歩き出すのです?もう一度どうぞ」

 「え?こう脚を前に……うわっ!また尻餅……」

 「細見さん、なぜ脚を前に出すのです?」

 「いや、前に進む為に……」

 「前に進む為に、重心はどうするべきでしょうか?」

 「前に……はっ!そうか!」

 「分かってきましたね?」

 「重心は脚じゃないってことか!」

 「そう。重心はもっと上にあります」

 「もっと……上……」

 「怖がることはありません。練習モードです。思い切って重心を前に進めてみなさい!」

 「上ってことは……上半身か!お!進んだ!おっとっと……ってコケ……コケない……歩けた!」

 「そう。身体が先に進めば脚は勝手にそれに付随するのです。よいですか?ここから極めて重要なことを話します」

 「お願いします」

 「歩行というのはつまるところ物体の移動です。この戦闘機を自分が望んだ方へ移動させることが大切。脚から進もうとすると重心の移動は適切に起こらない。石山さんほどの力があれば力づくで前に進めることもできるが、今の細見さんには到底無理です。名前は力なのに情けないですね」

「名前の件、今になってめっちゃ気にしてるんですが」

「何はともあれ、進みたい方向へバランスを崩していくのです。そうすれば勝手にその方向へ脚が付いてきます。戦闘の時はゆっくり歩くなんて悠長なことはしてられませんが、走ることも基本は一緒。望んだ場所へ速く移動するだけですから、重心を速く運ぶことを考えればいいのです。つまり……こんな風にね」

 「……凄い。まるで無駄がない」

 「ジャンプだって一緒。ジャンプは重心が上に行くんです。行きたいところへ効率よく辿り着くにはどうするか。これが上手くなればなるほど疲労度も軽減されるし、相手を翻弄することもできる。その為の基本は立ち姿勢と歩き方です。細見さんはそもそも重心が後ろにありすぎるんです。要は姿勢が悪い。現代っ子代表、猫背で頭頚部が前方に出ているダサい姿勢です」

 「ちょくちょくストレートに罵倒するのやめてもらっていいですか?」

 「お世辞を言っても仕方ないでしょう。そして最初だから仕方ありませんが、緊張しすぎていて浮足立っているし、ガチガチに関節が固まっている。全てを緩め、地に足を着けるのです」

 「地に足を着ける……」

 「そうだ。身体を足裏全体でキャッチしてみなさい。今のままじゃ膝で身体を支えています。すこし足首を緩めて……」

 「石山さんに教えてもらったスクワット!」

 「ほぉ」

 「そうか。膝は伸び切ってはいけないのはここでも同じか」

 「呑み込みが早いようですね。この共通点に気付けたのはさすが……」

 「待望の足りなかったピース!」

 「まだ細見さんには何もかもが足りていないですが」

 「でも、見て下さい長浜さん!ちょっと走れるように!」

 「ほぉ……なかなかやりますね。では、着いてこられますか?」

 「は、速っ!」

 「戦闘で求められるのはこのスプリント!」

 「む、無理だ……速すぎる……」

 「ふっ、精進してください。いいですか?誰しも問題を抱えている。私だって修正しないといけないところがあります。細見さんはまだまだこれからですからね」

 「やっぱり、たくさん練習するしかないですね」

 「しかしひとまずここまで」

 「え?何故?」

 「一つメーターが赤くなってますよね?」

 「あ、本当だ。ATP……これはATフィールドと何か関係がありますか?」

 「こら、やめておきなさい。」

 「は!著作権!」

 「ATPというのは身体を動かすエネルギー源のことです。アデノシン三リン酸の略称。それが枯渇すれば身体は一時的に動かなくなります。細見さんは今、無理なスプリントをしたことでATPが枯渇寸前なのです。慣れてくればある程度早く回復しますが、今の細見さんには回復に時間が掛かる。ここで無理に動こうとするとただ疲れるだけですよ」

 「そんな……」

 「追い込み練習というものがありますが、あんなものにほとんど価値はありません。ATPが枯渇している中で無理矢理身体を動かして疲れを溜めるばかりか、まともな手順で動けないのだから変なクセが身に付いてしまう。トレーニングの肝は翌日へ疲労を持ち越さないことと、良い動きを繰り返してそれを頭と体に覚え込ませること。いいですか?がむしゃらに練習したっていい結果には繋がりません。というわけで一旦現実世界へ帰りましょう」

 「はぁはぁ……現実世界……うっ、なんか身体が重い……」

 「現実世界の肉体もATPが枯渇してしまったんですね。今は回復フェーズに入っていますが、力んでいる細見さんの身体は疲労物質の除去がうまく出来ていない。呼吸だって止まっていたはずです。今細見さんの身体は動きを鈍らせる酸化物質に侵食されているのです」

 「どうすれば……」

 「回復フェーズに入っていると言ったでしょう?時が解決しますからご安心を。息が上がっているのはこれは細見さんの身体を回復させる為の自然な反応ですよ。詳しくは……そうですね、ジョンさんから聞いてください。彼の方が詳しいですから」

 「今日の練習は……」

 「ここまでにしておきましょう。大丈夫、初日にしては上出来です。今日は回復に努めるのが賢明な判断です。この後、志賀さんには豚の生姜焼きでも作ってもらいなさい」

 「生姜焼き?」

 「また胃袋を掴まれることでしょうね。それに玉袋も。ふふふ」

 「頼むからそのクールなキャラで玉袋とは言わないで!」

 「なんだ、女性ファンへのサービスだったのですが」

 「くそ、本じゃ伝わらんがきっとイケボなんだろうな」

 「ええ、低音ボイスも魅力です。主役を張れそうなのにこの役回りとは、世界は残酷です」

 「ええ、主役を譲りたいぐらいです」

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