5. 夜の森(4)



「ブオォォォウッッ!!」



 大猪の放つ雄叫びが、静寂を破った。若い個体とはいえ、人から見ればかなりの巨体を軽々動かし、アルヴボアはハルトに向かってまっすぐ突っ込んでくる。

 外敵ハルト目掛けて繰り出す突進の勢いは、さながら突風のようだった。



「……っ、速い!」



 代わり映えのしない直線方向の攻撃であり、見切るのは容易い……とはいえかなりの速さだ。そして威力は始めに頭突きを受けたあの木が、身体を張って証明してくれている。

 真正面から受けるのは当然、掠っただけでも無事では済まないだろうと考えて、ハルトは背筋がひやりとした。


 レンに昔やられた、「突進攻撃をギリギリのところで避けて、後ろの木に頭をぶつけさせる」なんていう立ち回りを思い出したが、同じことをやったとしても、この猪はここらの木ぐらいなら簡単に薙ぎ倒してしまうだろう。


 そこから連想して、ハルトが作ったタンコブを見てケラケラ笑う幼馴染の顔まで思い出してしまい、額にぴしっと青筋が浮かんだ。



「はあっ!」


「ブルァァ!!」



 今は不要な思い出を振り切り、ひらりと左に飛び退いて、すれ違いざまに斜めに剣を振り下ろす。ハルトの初撃は猪に見事命中したものの、表皮を浅く傷つけるに留まった。大猪は痛くも痒くも、といった様子でハルトへ向き直る。



「硬い……!」



 夜の魔物はやはり手強い。月明りの下に出てきただけでまるで別種じゃないか、とハルトは誰へでもなく文句を零した。


 日中であれば、背後から近づいたり巣穴からおびき出したりして、隙をついて急所である首元を一刺しして終わる相手だ。

 相手が硬かったというのもあるが、昼間とのギャップを警戒して余分に距離を取ってしまったため、さっきは気の抜けた一撃になってしまった。



「……まだまだ、来いっ!」



 いつもの、狩る側であるのが一転、狩られる側になったことで、無意識に慎重になっていたようだ。特に装飾もなされていない不愛想な柄を固く握って構え直し、萎縮した自分の無意識を鼓舞するようにハルトは叫んだ。


 さらに二度三度と、突進と剣閃による攻防が繰り返された。渾身の突進をひらひらと躱しては赤い表皮を裂く外敵に、大猪は苛立つように唸る。


 しかし、ハルトも息が上がり始めていた。猪から目を逸らさずに、じりじりと後退する。わかっていても恐怖はつきまとうもので、やはり紙一重で避けるというのは難しく、ハルトも攻めあぐねていた。

 とはいえ無闇矢鱈に斬りつけるだけでは勝てない。持久力では確実に、相手に分があるのだ。



 だが。ハルトにはまだ切れるカードがあった。突然帰ってきたミツキと過ごしたために、この日は日課である夕食前の「鍛錬」を行わなかったのだ。



「ブルァァッ!!」



 短い雄叫びと共に、再び疾駆する大猪。しかし今度は先程までのような、只の直線方向の突進ではない。大猪はハルトの周りを囲むように、高速で走りだした。


 地面が揺れ、土埃が舞い、ただでさえ悪い視界が更に塞がれた。

 魔物の知能がどれほどか、という事まではハルトの知識は及ばないが、相手が自分を「狩る」つもりで撹乱し隙を窺っている、ということは本能で理解した。



(落ち着け……集中……!)



 ハルトは警戒しつつも一度深く息を吐き、感覚を研ぎ澄ます。いくら上手く姿を隠そうとも、砂煙の中で鳴る足音までは隠せない。



(……来るッ!)



 ちょうどハルトの背後で軌道を変え、大猪は持てる最速で突進を仕掛けてきた。

 しかし、ハルトの耳は土を蹴る音を逃さなかった。


 突進のタイミングを察知し、背を向けたまま横ステップ。図らずも紙一重で回避したハルトは、すかさず左腕を猪の背中へ向ける。その掌には既に、身体の底から引っ張り出した気合い、もとい『魔力』が集められていた。



 人間もまた、魔物と化した生物と同様に、大気中を満たすエーテルを呼吸によって蓄積する。では何故、人間だけが魔物のように急激な進化を遂げなかったか。



 人間は知能に優れた種だ。言語を操り、自然の法則を解明し、文明を築いた。

 だから誰かがエーテルを体外へと放出する術を身に着ければ、それは瞬く間に世界中に広がり、僅かな期間で人間という種全体が持つ力へと昇華する。かくして、人は人として有り続けたのだという。


 体内に蓄積されたエーテルから『魔力』というエネルギーを生み出し、体外へと放出する際に引き起こされる、その性質に応じた多様な現象。


 人々は紡いだ歴史の中に埋もれた『魔法』という言葉を、これにあてがった。




「『光よ』ッ!!!」




 掌から放たれた魔力は白い光となって、視界を埋め尽くすように広がる。ハルトの放つ光は森に満たされた夜の闇を払い、辺りを白く染め上げた。



 光は次第に粒となって消えていき、やがて視界が回復した。現れた赤い影に、外傷は無かった────しかしその動きには、先程までの素早さはない。苦痛に耐えるような呻き声で、大猪はハルトを睨みつけている。



「……っ、今、だッ!」



 魔法を行使したことによる精神の疲労感がどっと押し寄せる。辛くもそれを振り切って、ハルトは剣を後ろに構えて走り出した。対する大猪も、ハルトへ向かって地面を蹴った。


 先程よりも格段に遅くなった、もう突進とも呼べないそれを、横へ跳んで回避。背後を取ったハルトは、逆手に持ち替えた長剣の先に全ての力を集中させ、喉元目掛けて力任せに振り降ろした。



「はぁッ!!」


「ブオォゥ……」



 鈍く光る剣の切っ先が猪の首元に深く突き刺さり、赤黒い液体が迸る。猪は力無く吠え、地に伏した。





 完全に動きが止まって事切れてから、ハルトはつい先程まで魔物だった肉から剣を引き抜いた。



「っはぁ、はぁ、危なかった……」



 剣に着いた血を振り払って鞘に収めてから、押し留めていた息を吐くと、張りつめていた緊張の糸がたちまち切れた。静かに吹いた夜風は汗の伝う肌を撫で、辺りの獣臭さを吹き飛ばした。



 疲労を感じ、ハルトはその場に座り込む。夜の森は相変わらず不気味ではあるが、少なくともアルヴボアはもう、ここには暫く出てこないだろう。どちらにせよ、すぐには動けそうにないが。


 仕方なかったとはいえ、食べるため以外の理由で殺してしまったのだから、この猪にも悪いことをした。ハルトは猪の亡骸に瞑目し、せめて死後安らかに眠れるようにと祈った。



「何とかなったはいいけど……参ったな、急がなきゃいけないのに」



 ハルトは独りごちて、荒くなった呼吸を落ちつけながら考えた。


 このまま探索を続ければ今のような目にまた合わないとも限らない。今は偶然魔力が残っていたからどうにかなったが、ハルトの『光』の魔法は日に何度も放てるものではない。あと二回も使えば、魔力の枯渇によって動けなくなるだろう。



「……とりあえず、進もう。座ってても仕方ない」



 未だ心臓の鼓動は早いが、あれこれ考えてるうちに呼吸はいくらか整ってきたので、ハルトは大樹の出入口へ続く道に戻ることにした。余力は無いが、それなら次に魔物の姿が見えたら引き返せばいい。そう決めて、地面に手をついて立ち上がる。



 そのとき不意に、背中から。



「おい、そこのお前」


「……えっ?」



 ハルトの日常に、終わりを告げる声がした。

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