5. 夜の森(3)

 

 昼間レンと二人でくぐった門を一人で抜け、土の道を鳴らす。


 夜に包まれた森からは、昼とは全く違う雰囲気が漂っていた。

 草むらの陰から、茂みの中から、木陰の裏から、何かに窺われているような、そんな気がしてならない。いやな静けさが、ハルトに一層そう感じさせた。


 刻限を破って夜の森を歩いた経験があるとはいえ、ハルトも慣れているわけでは無かった。


 駆け足のペースを保ちながらも周囲を見渡しつつ、継続して注意を払いながらハルトは森の中を進む。『秘密の場所』へ通じる隠れ道も置き去って、更に先へ。


 この辺りまで来るのはそれこそミツキくらいなので、草は伸びきっており、足元もあまり良くない。出口まではもう少しだが、森にはこれといって変わった様子はなかった。

 それよりも、この辺りまで来ると『奴ら』も現れるので、そちらにも注意を払わなければならない。



「……っ!」



 微かに、鼻につく獣の臭いを嗅ぎ取り、ハルトは足を止めた。


 音を立てないようゆっくりと歩みを進める。澄ませた耳が低い唸り声を拾った所で停止し、丁度いい大きさの木陰に隠れた。顔半分だけ出して、道脇の木々の向こう側を覗き見る。



「ブルルル……」



 赤みがかった毛皮の大猪が一頭、そこには居た。並び立つ幹の向こうの開けた空間は、奴の……大樹の内側に生息する数少ない『魔物』であり、中でも最も数の多い『アルヴボア』の縄張りだった。


 ハルトもここまで出張ってきたのは久々だったので、ここに縄張りがあるのは把握していなかった。人間の通る道のすぐ傍に縄張りを構えており、全長も二メートルほど。経験の浅い、比較的若い個体だろうとハルトは見積もった。



(こんなところに巣が……明日、村長に言っておかなきゃ)



 普段であれば真っ先に駆除しなければならないところだが、今は先を急がなければならない。その場を後にしようと、ハルトはそっと歩き出した。


 ハルトは好奇心のしもべではあったが、状況判断は冷静にできる方だし、周りもちゃんと見れる方だ。そんな彼が乾いた枝を踏みつけてしまい、その音で大猪に気付かれる、などといった間抜けをしでかす筈はなかった。



「あっ」



 ここが、薄暗い夜の森でさえなければ。



「ブルォ!?」



 しまった、と思った時には既に遅く。ぱきっ、という乾いた音は、静かな森では無慈悲なほどによく通った。



「うおっ!?」


「ブルルァゥ!!」



 脊髄反射に従い、ハルトを見るや否や猛烈な勢いで突っ込んでくる大猪。ハルトがすかさず地面を蹴って回避すると、背後から大砲が着弾したかのような轟音が響いた。

 すぐにそちらを見やると、その鼻頭が捉えた常緑樹は根元付近で折れ曲がっている。全身の皮膚と言う皮膚が鳥のそれになった。


 外敵へと向き直った猪は休む間もなく突進を再開し、顔を真っ青にしたハルトを執拗に追い回した。恐ろしい破壊力に加えて、真っ赤な体毛が一層嫌な想像をかき立てる。

 ハルトはうおぉ、うわぁ、なんて情けなく叫びながら、必死になって避け続けた。



 魔物。目の前のアルヴボアなら猪、ミツキが話してくれたトレントなら大木というように、動物や植物が大気中の微小物質『エーテル』を吸収し、その力で急速に進化・変態した生物の総称である。


 ミツキから聞いた話では、魔物の多くは夜行性だという。

 見境なく突進を仕掛けてくるこの猪も例外ではなく、落ち着きのない挙動からは想像もつかないが、陽の高いうちはそれはもう大人しいのである。ゆっくりと近づけば、すぐ隣を歩いても気付かないほどだ。

 時にはレンと二人で狩りに出て、村へ肉を取って帰ることもある。無論、味はビーフに劣るが。


 そんな朝に弱い猪だが、それを代償として得たものなのか、強い力と大きくて頑丈な身体が特徴的だ。力が溢れる夜中になれば、今まさにそうしているように、有り余る力を好き放題に振り回す、文字通りのモンスターとなる。


 加えて、アルヴボアは縄張り意識が非常に強い。ゆえに村に入って来ることは無いのだが、自分たちの領域を侵す外敵には一切容赦しない。

 突進から逃げ回るのに夢中になって、気づくと縄張りの中心に居たハルトは、当然その外敵だとみなされていることだろう。暗闇で力強く光る赤い眼は、既に「その気」で満ちていた。



「……あぁもうっ、やるしかない!」



 己への叱責は後回しにして、ハルトは背中の剣を抜く。しゃらん、という音と共に、鈍く光る刀身が露わになった。

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