5・3③ サンタはもう来ないから

 早人は10時過ぎに帰ってきた。伸び切った前髪を掻き上げる虚ろな目だけで、今日も十数時間参考書と対峙していたのだと分かる。早人はそのまま椅子に座り、単語帳のようなものをパラパラとめくり始めた。


 本棚の参考書とノートの束。壁に貼られた大量の付箋。机上の赤シートや単語帳。そんな早人の机周り。


 自分の手元に視線を戻すと、汚れたワックスや仲間内で回し読みしているジャンプ、人から借りたEXILEのアルバム、絡まって解ける気がしないiPodのイヤホンが広がっていた。


「やっぱりキツい?」


 すぐに早人が「は?」とこちらを向いた。


「あ、いや、毎日大変そうだなって思って」

「……当たり前だろ。お前はレスラーに『やっぱり痛いですか?』って聞くのか?」

「あーはい、すんません」


 俺の投げやりな態度に、早人が困ったように笑う。久々に早人の表情筋が和らいでいるのを見た気がした。

 

「でもさ、どうやったらそんなに毎日何時間も勉強できるんだ? 遊びたいとかサボりたいとか思わないわけ?」


 珍しいものを見たかのように、早人の目が丸くなっていく。俺は机の上に放置してあったジャンプを、気付かれないように雑誌の下に隠した。早人は数秒「うーん」と唸った後、口を開いた。


「なんだろなあ。一回サボったら、次もサボるようになるからかなあ」

「へ?」

「だってまた楽したくなるだろ。そしたら段々サボることへの抵抗感も罪悪感もなくなって、自然と癖になるんだよ。それが怖いから、ずっと勉強してるのかも」

「……なんか、死にそうになるくらいの苦行にだな」

「お、今更気付いたか。最近なんて過去問開くだけで手が震えるようになったよ。正直今すぐ逃げ出したい。自分で浪人を決めたくせに勝手だよな」


 情けない早人の表情で、胸の端がじわりと傷んだ。


 早人は背伸びを始め、大きなあくびをした後、唐突に「なあ、紅白どっちが勝つと思う?」と言った。


「なんだよ急に」

「当てた方がえび天2本食えるってことで。どう? 賭けない?」

「あー、年越しそばか」


 別にえび天に重きを置いているわけではないが、「せーので言おうぜ」と目を輝かせながら言う早人に、思わず頷いていた。


 せーの。


「「白」」


 ……なんでこういう時だけは同じなんだろうか。

 早人が楽しそうに「おー」と笑う。俺は口角が上がらない口をなんとか動かし、声を出した。


「じゃあ……俺は紅にしとく」

「え、なんで?」

「だって二人一緒だとつまらないだろ。譲るよ」


 確かに一緒だと賭けにならないもんな。そう呟いて早人は参考書を開き、机に向き直った。すっかり習慣化されたペン先の摩擦音が、部屋の中でクスクスと笑う子どもの声ように響く。


 そういえば、今年の紅組はAKBがいるんだっけか。……やっぱり譲らなければよかっただろうか。







 このシーズン、どこもイルミネーションだらけになる。

 駅前から商店街やショッピングモールまで、木という木が電飾を纏い、まるで小さな火花でも生じているかのように光り輝いている。寒空の下がほんの少しだけ暖かく感じられるのは、過剰な明かりのせいかもしれない。


 そんな電飾塗れの道を多少行き来すれば、同じようなクリスマスソングばかりが流れていることに気が付く。

 早人が以前、「日本はクリスマスになるとそこらじゅうで『Last Christmas』ばっかり流すから無性に腹が立つ」と言っていたが、今ならその気持ちがちょっとだけ分かる気もする。


 毎年同じ曲を流して同じ装飾をして、同じ格好をして同じものを食う。人類がいくら進化してもこの習慣だけは固定されたままなんじゃないかと思えてくる。


 そんなこと言いながら、なんだかんだクリスマスにフライドチキンを食べてしまう俺は、やっぱり平凡な日本人なんだろうけど。


「何ぼーっとしてるの」


 トイレから戻ってきた夏が手をパッパッと振っていた。夏の手から複数の水滴が舞う。

 俺はポケットからハンカチを出し、手渡しながら「いや、もうクリスマスかあって思って」と答えた。夏は俺のハンカチを手に取りながら、「あんたそれ毎年言ってるよ」と笑った。


「で? 他に買いたいもんは?」


 わざわざ電車に乗ってやって来たアウトレット。冬服や友達の誕プレが欲しいとのことで付き合ってやったが、もう数時間連れまわされている。女子のショッピングが長いという話は本当なのだと身をもって感じている。


「んー、あと一軒だけ見たいかも」


 咄嗟に「マジかよ」と言ってしまいそうになったが、「あっちにあるお店」と遠くを指差す夏を見て、無理やり唾を飲み込んだ。


 俺の返事も待たずに進んでいく背中。慌てて追いかけながらも、他人を一切配慮せず猛進していく姿に、思わず笑みを浮かべてしまう。こうして振り回されるのも、ある意味いいものかもな、と思ったり。


「なあ、クリスマスどうする?」


 夏は俺をチラッと見ただけで、黙ったままだ。答えないということは、予定はないということだろう。


「じゃあ久々にホームアローンでも見るか? 昔はよく見てただろ」

「はあ? バカ言わないでよ」


 即座に低い声が飛んできた。トーンから、否定的かつ呆れているのだと分かった。


「な、なんだよ。俺じゃ不満か?」


 予想外の尖った反応に焦っている間にも、夏は溜息を吐きながら冷めた視線を送ってきた。


「あのさ、ちょっとは考えてくれない?」

「な、なにを」

「クリスマスはおろか毎日勉強に励む映画好きがいるってこと」


 いくつかテンポが遅れてから、脳が理解に追いついた。「あー……」と鳴く俺を、夏は細い目で見ていた。


「あの人映画が命なのにずーっと封印してるでしょ? だったら私たちも配慮しなきゃいけないでしょ。家族なら少しは気を使えこの空っぽ頭!」

「……はい」


 受験生は「クリスマス何する?」なんて考えることすらない。ましてや映画をワイワイ見ることなんてありえない。 


 当然と言えば当然だが、こういう時だけ気が回る夏の脳内構造が気になって仕方がない。



 そうこうしているうちに辿り着いた店は、アクセサリー雑貨屋だった。女子たちで溢れていて、男一人ではなかなか近寄り難い空間。夏の後を怯えるように着いて行くと、ある場所でその足が止まった。


「あのさ、ピアスってどういうのがおすすめ?」

「は?」


 目の前の棚に、さまざまなピアスが並んでいた。耳たぶが痛くなりそうなほどデカいものやワンポイントものなどメンズとは比べ物にならないほど種類豊富だ。でも女子もののおすすめなんて分かるわけがない。


「……ピアス欲しいの? なんで?」

「校則ガン無視のあんたとは違って私は真面目にしてたけど、高校卒業したらやってみたいなーとは思ってたの」


 知らなかった。それにてっきりそういうものには興味がないと思っていた。

 毎日一緒にいるが、知らないこともやっぱりまだまだあるようだ。


「じゃあサンタに頼めば? 私に似合うかわいいピアスが欲しいですって」

「冗談でしょ。もうサンタにお願いするような年じゃないよ」


 夏が強めに俺の肩を叩いた。いつも通りの痛みについ笑ってしまう。


「でも……純粋にサンタを楽しみにしていた頃のほうが、クリスマスが一段と輝いて見えた気がする」

「そうかもな」


 サンタを信じなくなったのはいつから。サンタはいないと確信したのはいつから。何がきっかけだったか。そんなもの分からない。


 ただ、サンタに心躍らせたあの楽しさだけは鮮明に覚えているのだ。


「そういえばお前、星が欲しいってお願いしてた時あったよな」

「あー、あったね。そんなこと」


 小学生だっただろうか。夏は夜に煌めく星空を指差して、「星をお願いする」と言ったのだ。おじさんたちが必死に「サンタさんでも星は無理だよ」と説得していたような。


「あれって結局はどうなったんだっけ」


 ぼんやりと尋ねたせいか、夏は頬を緩めるだけで何も答えなかった。



 結局、夏は何も買わないまま店を出た。駅に向かう帰り、とある壁に貼られた広告が目に入った。映画「アバター」のポスターだ。


 特に映画好きでもない俺でさえ、見てみたいと思う作品。絶対映画館で……3Dで見た方がいいだろう。きっと早人も見たくてうずうずしているんじゃないだろうか。


「あ! 公開日お兄ちゃんの誕生日だよ」

「マジで?」


 公開日。12月23日。天皇誕生日かつ早人の誕生日。

 運命の悪戯なのか、試練なのか、はたまた神が勉強妨害をしているのか。


「受験終わるまで私たちも我慢だね」

「でもその間に上映終わったらどうするんだ?」

「大丈夫だよ。人気作品ならしばらく上映してるし、もし近所の映画館がダメだったら上映してるところを探せばいいよ」

「……お前、よくそんなに早人に尽くしてられるな。そんなに早人が好きか。こんなに世話焼くぐらいなら、いっそあいつの嫁に行ったらどうだ」


 わざと大袈裟に言ったが、夏は「確かに。私も看護学校行けばよかったかな」と笑った。


 看護学校? 

 浅倉南ではなく、朝倉いずみが脳内に踊り出る。


「……なんで?」

「だって、医者の嫁なんて女子の憧れでしょ」

「だから?」

「医者の夫に看護師の妻。最強夫婦じゃない? 今からでも看護学校目指そうかなーなんて」

「やめろよ」

「え?」

「……お前が看護師になったら、いつか患者を殺しそうだ」

「はあ!?」


 勢いのまま俺を殴り、頬を膨らませる横顔を見ておぼろげに浮かんできたのは、一年前の言葉だった。


 早人が浪人することを告白してくれた直後だっただろうか。二人になった瞬間唐突に告げられた、「お兄ちゃんに余計なことしないでよね」という忠告ともとれるもの。


「特にメンタルを崩すようなことだけはしないでよね。受験生は精神的な面が一番大切なんだから。ただでさえ勉強で参ってるんだから、ストレスかけたり動揺させるようなことしないでよ? 分かった?」


 その時、脳を殴られたような錯覚をした。もしくは、不意に急所を突かれたような衝撃。さもなければ、前触れもなく首を強く締め付けられたような息苦しさ。


 今も息は苦しいままだ。それどころか息の仕方すら忘れそうなほど、リズムが荒い。


 無難な返答を平然と吐ける自分の口に感謝している。それと、悪意のない笑みで最悪の未来を語る瞳が少しだけ、憎らしい。

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