僕らがそれに気付くのはいつもずっと先のことで
綺瀬圭
プロローグ
2019年7月23日
吐きそうだ。
口から心臓だけでなく、臓器すべてが飛び出そうなほど。いっそ吐き出してしまったほうが楽になるんじゃないだろうか。
法定速度を守らない心臓の動きは、
西洋をモチーフとしたチョコレート色の重厚な扉。それが余計に鼓動を加速させる。
もしこれにくまさんのイラストでも描かれていたら、少しはマシだっただろうに。
「大丈夫? 顔真っ青だけど」
彼女の心配そうな声。
真っ白な装いに身を包んだその姿は息を飲むほど綺麗で、まともに目が合わせられない。
そんなに伸ばして大丈夫なのかとつい最近まで心配していた長い髪は、丁寧に編み込まれてそこに収まっていた。
「大丈夫じゃない。全然良くない。倒れそう」
貧血を起こしたようにふらつく足元。不安定で頼りなく、いっそ地面に這いつくばって入場してしまいたい。
今の俺では神父のもとまで無事に辿り着くかどうか危うい。それほど上がってしまっている。
それに白いタキシードに染みる汗はどこまで侵攻しているのだろう。
汗はそこまで掻かないタイプだが、時期が時期だし、状況が状況だし、もしかしたら俺の脇は想像を絶するほどの湿地帯になっているのではないだろうか。だから白は嫌だって言ったのに。
なんか頭も痛くなってきた。このままではブライダルカーではなく、救急車で退場する羽目になりそうだ。
「頼むから四つん這いになったりしないでよね。そんなことをしたら離婚だから」
吐き出すように彼女が囁く。聞き間違いだろうか。今、離婚って言わなかったか。
「は、はぁ!? これから神父に誓うのにそんな縁起でもないこと言うなよ!」
動揺のあまり、声のボリュームが通常の1.5倍増しになってしまった。瞬時にホールにいたスタッフが一斉にこちらを向く。皆、目を丸くしている。
「バカ、声がデカい」
虫を殺す勢いでバシッと肩を叩かれ、そこから鋭い痛みが走る。この人はこのタキシードが借りものであることを忘れているのだろうか。
「いや、お前が変なこと言うからだろ……」
「緊張をほぐそうと冗談言ってみただけ。本気にすることないでしょ」
なんという荒治療。
参列者全員が言葉選びに慎重になっているというのに、主役から忌み言葉を発してどうするんだ。しかも、よりによってド直球なワード。一番言っちゃいけないやつだろうに。
でも、自然と先ほどまでの眩暈は治まっていた。
「そろそろですよ。ご準備を」
苦笑しつつそう言ったのは、無線でやり取りしていた女性スタッフ。俺は慌てて曲がっていた背筋を、ピンと伸ばした。
遂にこの日が来たのだ。
彼女と出会って、恋をして、今ここに至るまで、随分と長い時間を要した。でも、こうして彼女は俺の隣にいる。これは紛れもない事実だ。
彼女の顔を見るだけでさまざまな記憶が蘇ってくる。
何にも全力で、がむしゃらで、迷いに迷って、それでも不器用ながらに自分の信じる道を模索した青かった日々。
俺たちの青春は平成のど真ん中。人々がまだガラパゴス携帯を使用し、アナログ放送でテレビを楽しんでいた頃だ。
しかし世の中は常に効率よく動き、利便性に富んだものにアップデートされていく。青春の終わりと重なるように、ガラケーはスマホに、アナログ放送は地デジに変わった。
でもあの頃の日々が、どうしようもなく輝いて見えるのはどうしてだろう。
LINEなんてなく、友だちと無料で何時間も電話することなんてできなかったし、メールか赤外線送信ぐらいしか情報や写真を共有できなかった。
ネトフリのようにスマホ一つで映画を見ることなんてできるわけもなく、レンタルビデオ屋に行かなければ気になっていた映画を見ることはできなかった。
なんとかペイのような電子決済も今ほど充実していたわけではなく、現金支払いのみの店なんてくさるほどあった。
それなのに、今になってそれがとてつもなく充実していたように思える。
振り返るだけで鼻を刺激し、一気に駆け抜けていく青い匂い。
青春は、長い人生のうちのほんの一瞬に過ぎない。それでも僅かな時間で一生忘れることができないほどの特別な光を放つ、奇跡のような時間だ。そんな時間を彼女と過ごした。
彼女は俺の青春だった。
『皆様、大変長らくお待たせいたしました。新郎新婦のご入場です』
目の前の分厚い扉が、長い旅の終焉を知らせるようにゆっくりと開かれる。眩しいほどの光が、俺たちを包んだ。
出会いから23年。
長い間「幼馴染」だった俺たちは今日、結婚式を挙げる。
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