第5話 007
ああ、声を出せば良かった。
そう思った瞬間に、がうん、と飛行艇が大きく揺れた。床が傾ぐ。待って。
襲ってきた『穢れ』にまともに呑まれた白象の精霊が一体、まるごと消え失せる。後に散るのは、ほのかな鱗粉のような光。心臓を握り潰されたみたいに呼吸が詰まって、気付けば涙が溢れてきていた。
瞼を持ち上げて、わたしを見つめてくれた。優しい色の瞳をしてたのに。
四つの柱のうち、一本が完全に消失している。──そこに居た、精霊ごと……。それはもちろん重大な損失だけれど、わたし以外の人の目には映らない。みんなに見えているのは、飛行艇を成す舞台のうち、片側が大きく三分の一ほど崩れ落ちた、という事実だけ。
動力源を担っていた四体の象のバランスが失われたからか、飛行艇はどんどん傾いでゆこうとする。
わたしは涙を拭って、着き掛けた膝を立て直して、祭壇へと急ぐ。
立塚さんの背中はそこにあるままだ。白銀の杖を手に、いまだ結界の修復を続けている。騎士アレクシスが傍近くに寄り添っているのを見るに、最初の衝撃は彼女の足元をも危うくしたんだろうとわかる。
だけど、諦めない。──絶対に。
(聖女様)
みんなが貴女に『奇跡』を期待する。……それがどうしてなのか、今ならわかるよ。
助祭さんの一団は、もはやその整然とした並びを崩してしまっている。彼らの足元に描かれていたはずの、簡単には消えない光の陣。守護壁を構築するのに必要な条件だったその魔力の陣は、すでに失われていた。無論、守護壁もとうにない。
聖女様の杖が打つ魔力の湖こそ、司教様の決死の尽力によって保たれているようだけれど……──それももう、時間の問題。
だって二波が来る。
がぉん、と再び、
飛行艇の舞台上は騒然としていて、わたし一人が上げる声なんてなんの役にも立たなかった。今度はどこが崩れたか、なんて、こんな状況では何もわからない。床はまるで跳ねるように揺れて、誰も立っていられずに膝を落とす。……聖女様の凜とした背中だけが、女神クロウディアの像のもとにあった。
お願い。
わたしは自分を叱咤して、立ち上がる。騎士アレクシス、そしてクラヴィス王子が、おなじように体勢を立て直していた。…どう、とまるで大きな衝撃波みたいに、風が押し寄せる。騎士と王子は背後へ目を向けたけれど、わたしはこれが『穢れ』ではないとわかっていた。
そう。
ただ、消えただけ。
白い象の精霊が築いていてくれていた、不可視のドーム。それが消えて、本来あるとおりの風が、冷気が、あたりまえに肌を刺すだけだ。
「立塚さん、……っ」
わたしの声に気付いたかどうか。
長い黒髪も、白い儀式用のドレスも、ぐちゃぐちゃな強風に煽られ、立塚さんはまっすぐ立っていることさえ叶わない。そして何よりも彼女を打ちのめすのは、「結界修復の失敗」──頼りない指の力で、ようやく白銀の杖だけを掴んでいる。
そんな彼女が、いま縋るのは。
(騎士アレクシス)
大丈夫。死なない。
(クラヴィス王子)
もちろん、死にはしない。
(祭壇の柱……)
あからさまに、選んじゃいけない選択肢。
わたしは走り着いた勢いのまま、唐突な死亡フラグこと祭壇に立つ細い柱と立塚さんとの間に滑り込んだ。もし立塚さんがこちらに来てしまったら、力尽くで押し返すつもりだった。その結果、立塚さんがアレクシスの胸にぶつかることになろうと、王子の腕を掴むことになろうと、どちらでもなんでもいい。──死んでしまうよりは。
そうして、立塚さんの無事ばかり考えていたから、忘れてた。
どうして「祭壇の柱」に縋ってしまった
(祭壇が、まるごと崩落するから……)
がくん、と視界が下に落ちる。
足下の感覚が急に心許なくなったと思うと、ふわり、わたしの白銀の髪先が浮いた。背中が引っ張られる。ゆっくり、ゆっくりと、飛行艇が──その真っ白な舞台が、遠くなる。自然、空を仰いでゆこうとする視界の中に、騎士アレクシスの青い隊服と、その腕が黒髪の少女を抱き留めるようすが映った。良かった……。
耳元に、風の音がする。
(王子)
驚きに瞠られた赤い炎の瞳が、『わたし』の姿を確かに捉えてた。リリステラ。そう、唇が動いていたかもしれない。
でも、──クラヴィス王子は、わたしに向けて腕を伸ばしたりはしなかった。
たすけようとは、しなかったんだ。
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