第3話 007

「下手に触れるなよ」

「それは、どういう意味ですの?」

 問うのに振り返れば、クラヴィス王子は元の位置から一歩も動いたようすはなかった。……今もわたしの両腕で抱き留めている日記帳のことを思えば、それでいい。それでいいはずなのに、ちょっとだけ寂しい。

 クラヴィス王子は低く響く声音で答える。

 その片手の上に開かれた、なんらかの書類。王子の目線はまっすぐそちらへ落とされていて、リリステラのために持ち上げられたりはしないんだ。反対側の手を軽く腰に付いていて、肩に揺れるマントのドレープが炎のように綺麗に揺らめいて見えてた。

「マーロウの死後も、その椅子は時折この図書館を飛び回っていたらしい。当時の人間も大層気味悪がったそうだが、かと言って我が国に貢献してくれた大魔法使いの遺品だ。捨てるわけにもいかない。どうにか飛ばないよう、苦心した結果がそれだ。以来百年とこいつが飛んだ話は出ていないが、君はフェイゼルキアの人間だからな。なにが起こるかわからない」

「まあ……」

 精霊たちを「見える」ことと「見えない」ことの間には、なんだか深い溝があるみたい。

 だって、たぶん。

(椅子を飛ばしてたのは、精霊たちのお遊びだよね)

 もしかしたら、もういないマーロウを懐かしがっていたのかもしれない。

 フレちゃんはもちろん、あんなふうに辛辣だったマダムもおじいちゃんも、彼の大魔法使いについて語る時の表情はとても柔らかだった。

 きっと大好きだったはず。

(ううん)

 精霊はとても一途。ジークリードに聞いた話を思い出すなら、いまもずっと、大好きなままなんだ。

「もしこの椅子を解放していただけたら、わたしは本棚に乗らずに済みますわね」

「……では本当に、君は棚の上で寝ていたと言うんだな?」

「あら」

 ささやかに呟いてみた願いごとは、いまばっさり却下されましたわ。

 わたし自身はもちろん、精霊たちもみんな喜んでくれると思うのだけど……いや、いまはこの椅子のことは置いておこう。

 わたしは努めてやわらかな声音で、「ええ」と頷いて返す。

「そうなのです。いくつも本を読むうちに、すこし眠くなってしまいましたの。……はしたないお話ですけれど」

「……」

 クラヴィス王子の冷たく厳しい眼差しが、リリステラを検分するかのように上下する。まるで犯罪者を見るかのよう──いえ、確かに、王子の中ではリリステラは『聖女暗殺(未遂)者』そのもの。こちらの言葉は、始めから、頭から、一ミリたりとも信じていないって顔だった。

 王子は傍らの騎士へ目線を流して、無言のうちに「どう思う」と問う。

 問われた騎士は、眉間にぐっと皺を寄せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る