第1話 002
「魔法王国と称されるフェイゼルキア王女の貴女に、私から何かを教授しようというつもりは微塵もないのですが」
ひどく静かな声音で、ノインはそう話し始めた。
その国の名を耳にした瞬間、『わたし』の胸がずきりと音を立てる。ひゅっと喉の奥に呼吸が詰まる感じがして、返す声音が少し遅れた。
「……は、い……」
(? なんだろう)
いまの痛みは、きっと『リリステラ』のものだ。
「この世界に生きるすべての命は、二つの生を得ています。肉体という器の生と、思念体、精神体と呼ばれる中身──つまり心ですね。心の生、と呼ぶことが多いでしょうか」
ノインの話し始めた『この世界』の説明は、わたしにとってはもうすっかり耳馴染んだものだった。ゲーム序盤で語られるそれをじっくり読み込んだのは、初プレイの時かな。それが二年くらい前。
プレイ時にも思ったけれど、使われる単語もずっと平易だし、語られる理屈そのものだって飲み込むのに苦労しない。……もちろん、そうなるように制作側が熟考したからだろうけれど。
「それら二つの生は、私たちの命にとっては両輪のようなものと喩えられます。ある者は肉体を鍛えて剣を持ち、ある者は精神体を鍛えることによって魔法や魔術を自在にしますが、だからと言ってそちらの輪だけが不格好に大きい、ということはまずありません。剣の道には強い精神力を必要とします。魔術も、極めるためには人並み以上の体力を要するでしょう。……私は、主に器の生。身体を看る医師ですが」
ふっと話を止めて、ノインはわたしの胸元に聴診器を当てた。しばらくそっと、その眼差しを伏せる。それから、慣れたようすで手元のカルテに何やら書き付けていった。
その次は、どうやら脈拍を取るみたい。「失礼します」とわたしの首筋に触れ、もう片方の手のひらに開いた懐中時計の秒針を見つめる。
首筋の次は、そっと片手を取られた。ノインの指は長く、男性的に節くれ立ってはいるものの、無骨と言うほどごつごつはしていない。ごく丁寧に触れてくる手つきのせいもあって、例えば元のわたし──日本の平凡な女子高生だったわたしの手を隣に並べたら、よほどノインの手の方が綺麗に見えるだろうな、なんて、なんでもないことを想像してしまう。
「失礼。お話が途中でした。……騎士が精神力を、魔術師が体力の向上を避けては通れないのと同じように、私の目も、患者の身体を通してその心の生を見てしまうことがあります」
「え……っと?」
それはつまり、どういう意味、でしょうか。
ちょうど元のわたしのことを思い浮かべていたせいで、やたらに大きく心臓が跳ねる。心の生。……『リリステラ』のそれは、もう。
「リリステラ様」
「は、はい」
「貴女はおそらく、この国で──いえ、この世界で初めて聖女の奇跡に触れられた方です」
「……はい?」
そういえば、それ昨夜も言ってましたね、先生……。
自分が「聖女」の立場でゲームを遊んだ時には気付かなかったけど、端から見るとノイン先生ってわりと聖女フリークなのかもしれない。
「これは私の憶測ですので、後日きちんとジークリード氏あたりに検証してもらう必要はあります。ですが、いま現在のリリステラ様は、昨日までの精神体とは異なるものをお持ちであるように見受けられるのです。この意味がわかりますか?」
「意味……と言われますと……?」
「貴女の心の生は、明らかにこれまでのものとは変容しています」
あっと目を瞠るわたしを知らず、ノイン先生は自身の思案に沈むかのようにレンズ越しの眼差しを伏せている。瞼をくっきりと縁取る長い睫毛が、白皙の面に繊細な影を落とした。
そうして彼は、昨夜の記憶を丁寧になぞり直す。
「聖女様ご召喚の際、まばゆい光柱が立ちました。その場に居合わせた貴女は、聖女様の清らかな力を一身に浴びたはず。だからこそ傷は塞がり、致死量の失血を経てなお、こうして朝を迎えることが出来ている。──それはひとえに、聖女様のご加護を得たからこそかと」
「聖女様の、ご加護……」
わたしが思わず呟くと、ノインはゆっくりとその瞼を持ち上げる。こちらと目を合わせ、偽りなく頷くために。
「現在、リリステラ様は精神体の内側につよい光を抱いておられます」
彼の紫瞳はやっぱり病の根源を射貫く矢のようにまっすぐだ。
光。
わたしが『この世界』で目覚めた時の──それは奇しくも、立塚さんが召喚された瞬間だったわけだけど──、つよいつよい白い光を思い返す。
あれが、聖女の力。
立塚さんの、力なんだ。
「そう……それが、わたくしが聖女様から戴いた奇跡なのですね」
なんだか不思議な気持ち。
でも、いまわたしが生きていることは事実だった。
「貴女は死の運命を乗り越え、聖女の奇跡を自らの現実としたのです。──その生きる力を、どうぞ誇ってください」
去り際、ノイン先生が残した言葉は、まるでお見舞いの花のよう。
それから三日間、満足に寝台から降りることも出来なかったわたしを、けれど確かに元気づけてくれたんだ。
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