第1話 001

 昨夜はやっぱりどこか強い緊張状態にあったんだろうなと、一晩明けて、わたしはそんなふうに自分自身を分析する。

 実際、アレクシスと別れ、部屋で一人になったとたん、どっと身も心も重たくなった。どうにか着替えだけは済ませ、その後は部屋の灯りを落とすこともままならずに寝台へ倒れ込んで、泥のように眠ったんだ。

 そうして翌朝、侍女に起こされてみると、世界はゆらゆらくらくら、まるで大きな船に乗っているかのよう。

「リリステラ様。ノイン先生がお見えになられています。お通ししてもよろしいでしょうか?」

 メイドの一人にそう問われた時、わたしはずいぶん遅れさせてしまった目覚めの紅茶をようやく飲んでいるところだった。

 王国内で最も優秀と言っても過言なんてないだろう王城勤務の医師ノイン・フォン・レーメルシュタインと顔を合わせるのは、もちろん昨夜ぶり。その用件がなんなのかは、わざわざ尋ね返さなくてもわかった。

 わたしは「お通しして」と答え、ティーカップを傍らの侍女の手へ戻す。そこへ、メイドがすっと手鏡を差し出した。身なりを整えろと、そういうことだろう。

 いまのわたしが身に纏うのは、部屋着よりももっとラフなドレス。ひらひらふわふわとした布地はとてもさわり心地が良いのだけれど、体の一部を締め付けたり支えたりして見目良くする機能はほぼない。現代日本の感覚で言うなら、たぶん着古したジャージの上下か、パジャマ。

 おまけにここは寝台の上……、なの、だけど。

 それとなく周りを見回してみても、侍女もメイドもどうやらそのままここに医師を迎え入れようとしているみたい。

 わたしにとってはほとんど初対面のノインも、もしかしたら『リリステラ』や侍女たちにとってはお馴染みの相手なのかもしれなかった。

(だって、あんまり丈夫そうには見えないもん……)

 窓から差す早い午前の陽差しにふっと溶け消えてしまいそうな白銀色の髪。おなじほど白い肌に、赤色がかった瞳。

 咲き初めたばかりの白薔薇が魅せる儚さと気品。それらをそのまま写し取ったかのような美貌。

 それがいま、わたしの持った手鏡の中にある『リリステラ』の容貌だった。

 ……亡霊令嬢って、こんなに美人だったんだ。

 ゲーム内の彼女はただただ恐ろしい幽霊だったし、亡霊としてのスチルや立ち絵はあっても顔立ちなんて描かれていなかった。だから当然、こんなふうにちょっと風が吹いただけでふらりと倒れてしまいそうな佳人だとは想像だにしない。

 もちろんまったくもって一ミリも自分の顔だとは思えないのだけど、わたしがまばたきをすれば鏡の中の美人もぱたぱたと睫毛を上下させる。

「朝早くに失礼いたします、リリステラ様。ご機嫌はいかかですか」

「あら。おはようございます、ノイン先生。気分……はさほどわるくありませんわ。ただ、寝台を立つのはすこし難しくて……こんな格好のまま先生をお迎えしてしまうのは、とても気恥ずかしいのですけれど」

「ああ、もちろん無理をせずに。……心身ともに楽になさっておいてください」

 寝室の戸口に姿を見せたノインは、そう言いながらわたしの傍まで歩み寄った。侍女がスツールを薦めるまでもなく、彼は慣れたようすでベッドサイドに用意されたそれに腰を落とす。足元へ置いた黒い鞄には、たぶん診察用の器具が入っているんだろう。

「顔色は、……昨夜のことを思えば、よほど良いですね……」

 どこか神妙なようすで、ノインはじっとわたしの顔色を見つめる。

 平たい言葉に直せば、「死にかけたわりには元気だ」と、つまりそういうことなんだろうな。

 そしてそれは、わたしが自覚する自分の状況とほぼおなじだった。

(うん。わりと元気)

 とはいえ、さすがに寝台から立ち上がることは出来ない。軽い貧血のような目まいがくらりと視界を回して、わたしはいくらも歩けずにへたりこんでしまう。

 けれどこうして安静にしている分には、普通に元気。

 ……あれだけ失血していたことを思い返すと、体に力が入らないのは当然だという気がする。だって、まだ数時間しか経っていない。

(そう。たった片手分の時間)

 聖女様の召喚成功から──『わたし』が胸を、刺されてから。

「では、リリステラ様。改めて、胸部を診察させていただけますか」

「はい」

 なんでもないご機嫌伺いのような会話を交わすうちに、二人のメイドは寝室から立ち去っている。残ったのは、医師とは反対側、窓がある方のベッドサイドに立つ侍女だけ。『わたし』の身の回りを細々と世話してくれる彼女は、今もわたしが襟元から引き抜いたリボンをその手に受け取ってくれている。

 リリステラは、仮にも王子の婚約者。いかに医師とはいえ、異性と寝室に二人きりにするわけにはいかない。たぶん、そんな意味もあるはず。

 そうしてわたしが胸元を寛げると、ノインは世間話の時とは眼差しの色を変えた。まるで、それ自体が病理を射貫く鋭い矢のよう。

 真摯な瞳はやっぱりどこにも傷口のない胸元を確かめると、瞬きを一つ。「次は心音をお聞かせくださいますか」とわたしに断りながら、彼は足元の鞄を開いて聴診器を取り出す。

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