オープニング 005
聖堂のある北側の敷地から、東の棟へと続く大扉。
夜番の近衛兵が、二人がかりでそれを押し開ける。蝶番が高く耳障りに響いて、これが映画だったらジャンルはホラーだなあ、とわたしは思う。
だって、ほら。
扉の奥にずっとずーっと延びる広い廊下に、ひとつの光だってない。頼るべき灯りは、わたしが手にした燭台の火がひとつ。それだけだ。
こうなると、やたら天井が高いのだって、ただただ不気味なだけだった。
「アレクシス様、お疲れ様です!」
近衛兵たちは、わたしの斜め後ろを歩く騎士アレクシスへときっちり敬礼をしているみたい。……最初にわたしの顔を見た時は、本当に幽霊にでも出会したかのように飛び上がっていたし、今だって大扉を閉めながらこそこそと「凶星のリリス」の噂話に興じているのが聞こえてくる。
王城勤めの騎士様はもちろん近衛兵たちからすれば憧れの存在だろうけど、一応わたし──リリステラは、それよりも地位が高いはずなんだけど。
……まあ、無理もないか。
王子の婚約者とはいえ、当のクラヴィス王子があれだけ嫌っている厄介者なんだもん。王城の人間に好かれる理由なんてこれっぽっちもない。
「リリステラ様」
「え?」
月影から零れ落ちる蒼い光のような静かな声に呼び止められて、わたしは背後を振り返る。
アレクシス・ファーレンルスト。
騎士団の制服である青い隊服に身を包んだ彼は、月明かりの下に広がる湖面にも似た深い青の髪を持つ。今夜の空には月もなくて、さらにはすでにすべての火を落とされて久しいんだろう東棟の廊下は真っ暗だから、その髪色を正確に見て取ることは出来ないけれど。
「こちらの扉です。──貴女の居室は」
「まあ、なんてこと」
寡黙な騎士が指し示す扉は、わたしがとっくに行き過ぎた位置にある。
当然、わたしにはリリステラの部屋がどこだったかなんて記憶はない。……だから、クラヴィス王子が「リリステラを部屋まで送れ」とアレクシスに命じてくれたのは、期せずして親切だったと言えるのかもしれなかった。
ここまでの道筋のすべてが真っ暗闇にあったことを思えば、護衛の意味からしても当然だとも思うし、王子の本意は「容疑者を逃がすな」ってところにある気も、まあする。
『リリステラが刺されたことは確かでも、君の手に短剣があったことも、また動かぬ事実だろう』
つまり、わたしは密かに聖女暗殺を狙って聖堂に潜んでいたところを、何者かに刺された、と。
クラヴィス王子の中では、そういう疑惑のままだ。
わたしが扉の前まで戻るのを待って、アレクシスはドアノブに手を掛けた。それを音もなく引いて、開く。
部屋の中ももちろん、暗がり。
そして当たり前だけど、戸口のそばに照明のスイッチがあるわけでもない。ど、どうすればいいんだろう。このまま燭台持って、とりあえず入ればいいのかな。
わずかに思い悩んだ分、わたしの歩は鈍る。
それをどう見たのか、アレクシスはふいに「失礼」と断ると、わたしの手から燭台を引き受けた。そうして室内へ踏み込んで、壁際や棚の上に置かれたいくつかの燭台に手際よく火を灯す。
カーテンの引かれた窓辺には一人掛けのソファが据えられていた。その傍らに小さなテーブルと、白い花瓶。そこに挿された一輪の花。飾り棚の中にはティーセットがひとつ。小ぶりなマントルピースの上を覆う、白いレースの布。
それから、次の間へと続く扉も見えた。あの奥が寝室かな。
やわらかな蝋燭の光に照らされた部屋は、どこか寂しげで、でも暖かい。……わたしの部屋だ。そう思えた。
「ご親切、痛み入りますわ」
「……貴女の侍女は、もう休んでいるようだが」
侍女?
うっかりそう問い返しかけて、わたしは危ういところで声を飲む。……どれだけ嫌われ者でも令嬢は令嬢。まして王子の婚約者なのだから、そういう人間の一人や二人従えているのは当たり前だ。
アレクシスの青い瞳は、そっと左隣の壁を見遣った。たぶん、そっち側に侍女の部屋があるんだろう。
「もし眠るまでの間に困ることがあれば、声を掛けて起こせばいい」
そう告げる声音もひどく淡々としていて、含むものはなにもない。それはすこし意外な気がした。──『凶星のリリス』。その言葉が意味する本当のところはわからないまでも、かなりけっこう良くない意味なんだろうなってことは充分に察せられる。
現代日本で得られる知識としては、「リリス」は悪魔のような女性を指す言葉……だった、はず。
(神話かなにかに出てくる、悪い存在? だよね……)
この世界は日本ではないけど、この世界を創造した開発陣はわたしと同じ時代を生きる日本人だ。だからきっと、似たような意味合いではあるんだと思う。
仮にも婚約者であるクラヴィス王子までもがそんな名で呼ぶのに、騎士アレクシスはごくフラットな態度を貫き通してくれている。
それってたぶん、ちょっとすごい。
……空気を読まない変わり者、には、とても見えないのにな。まあ、敬語は苦手みたいだけど。
「ご心配ありがたく存じますわ。ですけれど……着替えて眠るくらいのことは、わたくしにも出来ますの。いたずらに侍女の手を煩わせるのは好みません」
「手を煩わされてこそ、仕える甲斐がある」
「あら」
変わらず左の部屋へ目を向けたまま、アレクシスの唇から零れ落ちた一言。それはきっと、彼の本心からの言葉。もしかすると、呟いた自覚すらないほどの。
わたしの声にはっと肩を揺らしたアレクシスは、慌てたようにこちらを見下ろす。
「いや……、申し訳ない。貴女の言葉を否定する意図はなかった」
「構いませんわ。アレクシス様は、クラヴィス殿下のことをとても大切に思っていますのね」
わたしは胸に湧いた微笑ましさのままに、頬をゆるめた。……そういえば、クラヴィスとアレクシスは幼なじみでもあったはず。幼い頃からともに切磋琢磨してきた二人の友情は、まぶしいくらいに本物だ。形だけの婚約者はもちろん、「聖女様」にだって割り込むことは出来ない。
だから、そう。
アレクシスがわたしへの態度を変えないのは、ひとえにクラヴィス王子への友情と忠義のため。
わたしの「クラヴィス殿下の婚約者」という立場を尊重してくれているんだ。──もしかせずとも、当の王子自身以上に。
わたしはアレクシスを見上げる。
「どうぞ、もうお戻りになって。クラヴィス殿下もそろそろお休みになられるでしょう? 今頃、あなたの手を探しているかもしれませんもの」
「……着替えて部屋の灯を落とすくらいのことは、あいつにも出来る」
「ふふっ」
ささやかなからかいが通じたことに、可笑しさが込み上げる。わたしは口元を覆って、小さく笑った。
生真面目な騎士は、わずかに困り顔をしていた。でも、気に障ったようすではないみたい。気難しいタイプではないんだろうな。
わたしは楽しい気持ちのまま、扉の取っ手に手を載せる。そうして、アレクシスへと夜のあいさつを告げた。
「おやすみなさいませ、アレクシス様。わたくしの部屋まで送っていただけたこと、とても感謝しております」
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