オープニング 004

 凶星のリリス?

 聖女殺しを疑われていることよりも、その呼び名こそが彼女を傷つける。誰がそう呼んだとしても、クラヴィス王子にだけはそう呼ばれたくはなかった。

 そうして、だからこそ、『リリステラ』は笑むんだ。

 ──こんなに心が痛くて、痛くて、泣き喚いてしまいたいのに。

(そんなこと、許されない)

 震える指先を誰にも気付かれないように握り込み、『わたし』はすっと口角を引き上げる。まるで挑むような気持ちで心を奮い立たせて、王子の前に、憎むべき敵としての笑みを浮かべた。

「なんて浅はかなことをおっしゃるのかしら。わたくしが聖女様を殺めたとして、いったいどんなものを得られましょう? そこにはおそらく、深い失望にうなだれる殿下のお姿と多くの民の嘆きしかありませんわ」

「……ッ」

 ぎり、とクラヴィス王子が奥歯を噛み締めたのがわかる。緋色の瞳にはいっそうの怒りと憎しみが込められ、鈍い赤色の炎を灯したかのようにぎらりと光った。

「おまえはそれを、それこそをいちばんに望むのだろう」、と。

 声音を使わずに、彼はそう反論したんだった。

 王子の──ひいてはこの国の悲願を、くじくこと。

 そのためになら、『リリステラ』は罪もない少女を一人、簡単に刺し殺す。……そう、思われているんだ。

「どんなに疑われましても、わたくしの本心はひとつきり。クラヴィス殿下とこの国の民にひときわの幸福を。そればかりを日々、心よりお祈り申し上げております」

「君の祈りなど不要だ。──これからは、ユイが居てくれる」

 リリステラの、本当の気持ち。

 それを容赦なく切り捨て、クラヴィス王子は傍らに立つ立塚さんの背に腕を回す。

 あまりに険悪な二人のやり取りに驚いてか、所在なさげにきょときょとと視線を彷徨わせていた彼女は、そんなふうに急に戦場に引っ張り出されてしまって内心悲鳴を上げたことだろう。

「そう、ですわね」

 だからこそリリステラはあえて立塚さんへは目線を向けず、殊更にこやかに微笑んでみせる。……それすら白々しいと、忌々しいリリスめと、そう王子の胸中に毒づかれているのだろうことは、百も承知だった。

 けれど、もう。

 どうしても、これ以外の態度を取れない。

 ただ憎まれていることでしか、彼の前に立つ方法がない……。

『リリステラ』の冷たい心臓には、そんな絶望ばかりが静かに広がっているんだ。

「けれど、殿下……。お戯れでも構いませんわ、わたくしの言葉をもし御耳にお入れくださるのなら、ひとつだけお伝えしたいことがあります」

「……好きにしろ」

「ありがたく存じます。わたくしは今宵、そちらの短剣によって何者かに胸を刺されたのですわ。どういうわけか、こうして一命を取り留めておりますけれど……」

「──」

 馬鹿を言うな、と一笑に付されてもおかしくなかった。

 なのに、彼は息を呑んでそのまなじりを広げたんだ。

(あれ?)

 もしかして、信じてくれるの?

 リリステラとして言葉を放ったわたしこそが、つい戸惑う。だって、そのくらい二人は敵対していた……。

「ノイン」

「はい、殿下」

 ふっとリリステラから目線を外した王子は、従者の一人を呼び付ける。慇懃に一礼をしたのは、白銀の髪を持つ美丈夫。

 ノイン・フォン・レーメルシュタイン。

 魔術師のモノクルとは違い、彼は細い銀フレームの眼鏡を掛けていた。白皙の美貌を持つ医師。こちらに歩み寄った彼を見上げれば、レンズ越しのその容貌はより鋭利な美しさが際立つ。すこし、怖いくらい……。

 ほぼ無言の内に発されたクラヴィスからの命を彼は正確に読み取っていたようで、リリステラに向けてまず診察を申し出た。

「失礼いたします。刺された箇所をお教えくださいますか」

「心の臓の、すぐ脇かと思いますわ。あの……傷口は、どうしてか塞がってしまっていると思うのですけれど……痛みもありませんし」

「お見せ頂いても?」

「……」

 この美丈夫を前に、衣服をはだけてみせろと言うのは、とんだ無茶ぶりだ。

 わたしはちょっとだけ、ものすごく、とんでもない抵抗感を覚えたものの、自分から言い出してしまった以上、「見せたくない」なんて通用するはずがないことも理解できる。

 大丈夫。……だって、お医者様なんだもん。

 わたしは心を決めて、コートの合わせを結ぶリボンを解いた。……と、目前の医師がすっと控えめに息を呑む。

「一命を……取り留められたのは、聖女様の起こされた奇跡なのかもしれません」

「え?」

 どういうこと? と問い返そうとして、わたしはそれを止めた。ノイン先生はこちらの胸元をまっすぐに見つめている。凝視、と言っていいくらいの視線の強さ。もちろん、まだ服ははだけていない。

 その必要はもうないのだと、すぐにわたしにもわかった。

 ──繊細なレースを重ねた白いドレスは、半身をぐっしょりと血の色に濡らしている。白と臙脂のツートンだと思ったドレス。そうじゃなかった。

(そういえば、亡霊令嬢ってこんな立ち絵だったな……)

 二次元のイラストではなく、同じ次元の生身の出来事としてこれを見ると、けっこうグロテクスだ。

 すでに色を変え始めている鮮血の痕跡。立ち並ぶ燭台の灯りに照らされて、それはまるで濃い死の影のよう。 

「ひっ……」

 ノイン先生の向こうで、立塚さんが小さく悲鳴を上げた。ふらつくように後退った彼女の腕を、王子の傍らに控えていた騎士アレクシスが力強く掴む。それによってへたりこむことを免れたらしく、立塚さんは彼を見上げてかすかに唇を持ち上げる。たぶん、お礼を言っているんだろう。

 彼らからすこし離れた位置に立つ魔術師ジークリードの表情は、とても険しい。

 対して、クラヴィス王子の表情に変化はなかった。

 さきの言い合いの時に見せていた怒りも憎しみも、いまはその瞳には浮かんでいない。代わりに、リリステラへの興味などとうに失ったような無表情でいる。

「傷は、本当に……癒えて、いるのですね? 痛みは? ご気分の不調などは?」

「ありませんわ」

 ノインの問い掛けは、まるで壊れ物に触れようとするみたいに慎重だ。表情に乏しく見えてしまう彼の美貌は、けれどこの時ばかりは隠しきれない動揺に揺れているようにも見えた。

 剣と魔法の世界に生きる医師にとってさえ、これだけの出血をしておきながらけろりと立っているいまのわたしの姿は、にわかには信じ難いものなんだろう。

 聖女の奇跡、と、彼は言った。

 だとしたら、これは立塚さんのおかげなのかも。

 だって、わたしは聖女じゃない。

 どういうわけか生きながらえてしまったけれど、本来なら、もう死んでる。

(わたしは)

 クラヴィス王子への叶わぬ想いが、たったひつの未練。彼の心を奪ってゆく聖女の存在に腹を立て、恨んで、祟って、呪い殺そうとする。

 そしていずれは、憎んだ聖女の祈りによって浄化されゆく──亡霊の、令嬢なんだ。

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