オープニング 003

「南の棟に侍女が居室を用意しているはずだ。そちらへ連れて行き、引き合わせてやればいい」

「御意」

「ユイ。今夜はひとまず休め。明日また、詳しい話を……」

「どうか、お待ちになって?」

 待ってください、と発したはずの、わたしの声。

(え?)

 耳慣れた『自分』の声音とはぜんぜん違う。りりん、と鈴を強く振ったかのような涼やかな声。それが、わたしでは到底使い慣れないはずの上品な言葉遣いでもって、扉近くの人たちへ向けて台詞を放つ。

「わたくしの姿など、もはやその御目に掛けられるだけの価値はありませんのね。なんて残酷なこと」

「……!」

「聖女」のほかに人がいるとは思わなかった、とでも言うように、王子は肩を揺らしてこちらに振り返った。彼の引き連れている従者たちも同様だ。

 そうして次には、彼は歩み寄る『わたし』の姿そのものに目を瞠ったみたいだった。

「リリステラ……!?」

 リリステラ。

 クラヴィス王子の放つ、聞き慣れない響きの名前。それがどんと、わたしの胸にぶつかる。そう。たぶんそれが『わたし』の名前。

 わたしは片手で胸元を抑え、もう一方の手指はフードからこぼれる髪に添えながら、ふふ、と小さく笑む。

 ……だって、おかしいのだもの。

「どうしてそんなお顔をなさるの? クラヴィス殿下。まるで亡霊に出会したかのよう……」

「リリステラ……なぜ、君がここに居る」

 こちらに向き直ったクラヴィス王子は、ひどく厳しい声を出す。『わたし』は「まるで亡霊」と言ったけれど、彼の表情はむしろ仇敵に出会したかのようだ。

 たぶん何を言っても、彼は『わたし』に向けて笑んでくれることはない。その眉間の皺は一層深くなり、瞳の色は一つ瞬くごとにひらめく刃のような鋭さを増してゆく。

 ……わかっているから、『わたし』は微笑む。

 この手のひらのずっと下、胸の奥に巣くう絶望を、ただ独り、わらうんだ。

(愛される、はずがない)

(わたしは)

「なぜ? おかしなことを問われるのね。わたくしは確かに、あなたにお迎えいただきましたわ。春の頃に控えている、殿下とわたくしの婚礼のために」

「俺が問うのは、そういうことではない」

 そうだ。リリステラ。

 リリステラ・リーヴィエ。

 彼女は、クラヴィス王子の婚約者。

(でも)

 胸元に当てた手のひらの下で、わたしの鼓動がどんどんと高く、強くなる。……どういうこと? 確かに、そう。『リリステラ』はゲームの中にも居た。

 王子の婚約者。

 クラヴィスルートを選んだ時、彼女はあの手この手で主人公が進む道を妨害してくる。

 けれど最後には、「聖女」の清涼な祈りによって浄化されるんだ。

 リリステラは、正しくは王子の婚約者。ゲームがスタートする前に、不慮の事故で亡くなった──亡霊の令嬢。

「なぜ君が、今夜、この場所に居るのかと訊いている」

「わた、し……」

 わたしは。

 手のひらの下に、心臓を貫かれた痛みが蘇るよう。あれは夢なんかじゃなかった。ひとつ鼓動を打つたびにあふれる鮮血で衣服が濡れ、吐き出す呼気は血の色に染まってた。

 それでもわたし、わたしは。

 ……まっしろな光に包まれながら、小さくうずくまって、必死に、懸命に、祈るように呼吸を繋いだんだ。

 あの時、『リリステラ』は死んだ? 殺されたの?

(誰に)

 そしてわたしは、『彼女』の遺したこの体に、転生したんだ。

 そんな──そんな、ことって。

「リリステラ」

 ほとんど叱責するような声音の強さで、王子が『わたし』を呼ぶ。わたしはびくりと体を揺らして、知らぬ間に下がってしまっていた目線を持ち上げた。

 その足下に、…かしゃん、と何かが落ちる。

(え)

 見下ろすと、それはあの短剣だった。……コートの内ポケットが小さすぎたのか、剣が重すぎたのか。そのどちらもかもしれない。

 わたしが驚いた拍子に石の床に落ちてしまった剣は、わずかに鞘から外れ、その刃がきらりと光る。

 もしかして──ううん、きっとそう。

 この短剣が、リリステラの胸を刺したんだ。

(あれ? でも)

 そういえば、短剣はひどく綺麗。もし本当に心臓を突いたなら、返り血を浴びるはず……。

「ジークリード、物証を押さえろ」

「了解、王子様」

 王子の低い声音に命じられ、従者の一人がひょいとその長身を屈ませる。身に纏うローブが、ふわりとその裾を広げた。

 深い翠色の立派なローブは、この王国においては、最上位の魔術師のみが身に付けることを許される。

 ジークリード・ヴァインツ=ミューレン。

 ゆるく波打つ金色の髪を持つ彼は、無造作な麻紐でくくったそれが垂れるままにしながら、わたしの足元から短剣を拾い上げた。

 思わず二、三歩あとずさったわたしのようすに気付いてか、身を起こす間際、彼のローブとお揃いの翠色の瞳はすこしだけ微笑んだみたいだった。何気ないそんな表情にさえ、ジークリードが持つ愛嬌の良さは透けて見える。──けれど、彼は決して自身の本心を悟らせない曲者でもあった。

 驚くほど整った美貌をモノクルで隠して、いつでも飄々とした態度で笑っている……。

「ああ、とても綺麗な武器ですね」

 今でさえ、彼の唇はどこか楽しげに弧の形を描いていた。それでも、短剣を見定める目には厳しさがある。

 優美な指先はいったん鞘から剣を抜き、燭台の灯にかざして、刃こぼれひとつないようすを確認する。

「そして残念なことに、紛うことなく本物の剣です。……単なる飾り物であれば、どんなにか良かったことでしょう」

 どこか大げさに嘆息してみせた後、ジークリードは見せていた苦笑をふっと拭い去る。その容貌を特徴付けている金のモノクル。彼はそっと、丸いレンズに覆われた片側の瞳を眇めた。

「これはあなたのような可愛らしい方にはまるでふさわしくない代物です、リリィ姫」

「……」

 リリィというのも、姫というのも、おそらくは愛称なんだろうことは理解できる。

 でも。

 残念ながら、いまのわたしに、『リリステラ』としての記憶はなにひとつ遺されていない。

 そもそも、そう……リリステラとジークリードは、愛称で呼び合うほど親しかったんだっけ? それを探るのに、わたしが使えるものはわたしの記憶だけ。

 乙女ゲーム『白き聖女おとめの祈り』。

 アニメ化のタイミングでいろいろな雑誌に特集されたり、設定資料集が出たりした。そういうの、わたしはけっこう追ったし集めたはずだけれど……どうだったっけ。

(あ、そういえば)

(ジークリードルートで少しだけ、リリステラのエピソードを読めた気がする……)

 ようやくそれに思い至る頃には、信頼に足る魔術師からの報告を得たクロヴィス王子が、わたしへ向けて次の言を告げようとしている。

「リリステラ」

「!」

『リリステラ』へと放つクラヴィス王子の声音は、そこに分厚い氷壁を立てるかのような冷たさ。

 わたしはどうすることもできずにただ息を詰めて、彼を見つめ返した。

(嫌われている、なんて、生易しい)

(──憎まれてるんだ)

 リリステラは、婚約者である王子から。

 どうして。

「追って処分を伝える。それまでは、自分の部屋から出ようとはするな」

「……処分、なんて。物騒なことをおっしゃるのね?」

 リリステラの問いかけに、王子の瞳はぎらりと険を見せる。

「この期に及んでまだ隠し通せるとでも? 君が何をしようとしていたのかは、この状況からすでに明らかだ。そしてそれは、到底許されることではない」

「殿下が何をおっしゃられているのか、わたくしにはわかりかねます……」

「どの口が言う。君は聖女を刺し殺すつもりだったんだろう? さすが、悪名高き凶星のリリスと言ったところか」

「っ……」

 何を言われたのか理解するより先に、心臓が突き刺されたみたいに痛くなる。……この痛みは、幻。本当に心臓を刺されたわけじゃない。たとえ呼吸が細くなって、指先が震えても──この痛みは、こころの痛み。

(リリステラ……)

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