第31話 美少女は言った「ゆうくん」

 

 遊園地のアトラクションを遊び尽くした三人は最後のお楽しみに観覧車を選んだ。

 係員の指示に従ってゴンドラに乗り込み、ゆっくりと地上から離れていく。


「アイ、眠い?」

「……うん」

「寝ててもいいよ。頂上くらいで起こしてあげる」

 

 日和がポンポンと膝を叩き、その上にアイは頭を乗せる。

 今日一日を全力で楽しんでいた結果、早めにガス欠を迎えたらしい。観覧車の列に並んでいる間、アイはすでに半目で舟を漕いでいた。


「幸せそうに眠っちゃって……」

 

 日和が身体をさすってやると、アイはむにゃむにゃと口元を動かす。

 夢の世界でまたアトラクションに乗っているのだろうか。

 浅い眠りのなかでも可愛らしい微笑みが浮かぶ。


「ずっと笑顔ではしゃいでたな」

「そうだね……連れてきた甲斐あったよ」


 あどけない寝顔を見下ろす瞳は慈愛に満ちている。

 この一か月でもう何度も目にした母親としての日和の顔だ。


 西日に照らされて、蝶々の髪飾りがキラキラと反射する。


「楽しかったね」


 愛しそうに日和はアイの髪を撫でる。

 それから優しい眼差しのまま優斗に目を合わせた。

 

「相良さんは楽しかった?」

「俺?」


 優斗が聞き返すと、首肯が返ってくる。


「楽しかったよ。遊園地なんて久しぶりだったし」


 特に迷わず言葉にできるくらいには素直な感想だ。

 その答えに満足したのか、日和は頬を緩めて笑った。


――本当、楽しかった。


 優斗にとって遊園地は苦い過去を持つ因縁の場所だった。


 まだ優斗がアイくらいの年齢だった頃の話。

 かろうじて家族の体裁を保っていた相良家は、一人息子が珍しく外出を望んで仕方なく遊園地へと出向いた。しかし折り合いのつかない両親が長蛇の列に仲良く並べるはずもなく、優斗は広大な敷地内を一人でさまようことになった。

 

 優斗が遊園地に行きたいと言い出したのは、少しでも家族の距離を縮めたかったからだ。幼いながらも父親と母親に愛は存在しないと理解していた。

 その願いが叶うことはなく、程なくして相良家は崩壊。

 もとより小さなひびが積み重なった結果だ。些細な出来事を機に、いずれは同じ道を辿っていたに違いない。


 それでも優斗にとっては遊園地がきっかけだった。


 だから優斗は思い出さないよう、無意識のうちに忘れようと努めていた。


 それがこうして家族として遊園地を訪れ、記憶の蓋を開いているのだから大した皮肉だ。


――そういえば前も観覧車に乗ったな。


 父親と母親は園内のカフェで口論の真っ最中だったはずだ。

 それなのに誰かと同じゴンドラに乗っていた記憶がある。


 肩の下で切り揃えられた黒髪。

 幼くも整っている綺麗な顔立ち。

 蝶々の形をしたおもちゃの髪飾り。


――なんで女の子と乗ったんだっけ。


 窓の外を眺めながら、優斗は記憶を遡った。


――そうだ。迷子になって泣いてたから一緒に親を探そうって……。

 

 頂点はまだまだ先だというのに地上が遠い。

 園内を歩く人だかりは豆粒のようで、離れの街並みがよく見える。


――確か、その子は高いところが苦手で……。

 

 優斗はふと対面に座る日和を見た。

 彼女もまた窓の外を眺めながら、少し表情が固くなっている。

 課外活動の際、吊り橋を前に躊躇していたのは記憶に新しい。


――そう、こんなふうに怖がって……。


 記憶の欠片がハマる音がした。


『ゆうくん』


 懐かしい呼び名が蘇る。


――……どうして。


 濁流のように過去の記憶が流れ出す。


――どうして今まで忘れていたんだ?

 

 それからすべてを思い出すまで時間はかからなかった。


「天瀬」


 優斗と日和、二人の視線が重なる。


「もしかして俺たち、過去に一度会ったことがあるのか?」


 核心を突く問いかけに、一瞬の沈黙が訪れる。


「やっと思い出してくれた」


 やがて日和が浮かべたのは、心の底から嬉しそうな笑顔だった。

 十年前の幻影と目の前の現実が重なる。

 優斗は間違いなく過去に日和と出会っていた。


「なんでずっと黙ってたんだよ」


 優斗が少し寂しそうに聞くと、日和の表情が一転して暗くなった。


「相良さんが……ゆうくんが忘れているなら言わないでおこうと思ってたの」


 久しい呼ばれ方をされて、優斗の胸が静かに騒めく。

 一度は忘れてしまったその声を、その表情を。ひとつひとつ大切に受け止めた。


「私のことも、アイのことも。いつか消えてしまうくらいなら、知らないほうがマシだって思うから」


 日和は切なげにそう語った。


 この一か月の間。いや、同じ学校で再会を果たしてから。それよりも前にだって機会はあった。

 いったいいつから日和は優斗に気付いていたのだろう。果たしていつまで十年前の出会いを覚えていたのだろう。


 忘れるほうは楽かもしれない。

 忘れられたほうはどうしたって辛い。


「でも、大切な記憶は覚えていられる。たとえ忘れてしまったって思い出せる。そう信じていいのなら……」


 いつの間にか、日和の瞳には涙が浮かんでいた。


「これから話すこと、驚かないで聞いてほしい」


 語られたのは無防備に眠っている女の子の話。


「アイは一年しか記憶が保てないの」


 三人を乗せたゴンドラは刻々と夕暮の空に近づいていた。

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