第26話 幼女は言った「げんき」


 サルビアに着いた頃には優斗も日和もすっかり息が上がっていた。

 玄関で一度膝に手を突き、呼吸を整える。

 体力がついてきたといっても微々たる成長に過ぎない。山登りをした足で長距離を平然と走れるほど身体は仕上がっていなかった。


 しかしいつまでも休んではいられない。


「……ふぅ、はぁ……行こう」

「……おっけ」

 

 日和は呼吸が早いまま歩き出し、優斗もそれに続く。

 向かったのは三人が住む部屋ではなく、施設長室の近くにある一室だった。

 ここで生活するにあたって、優斗はサルビアを一通り案内されている。その記憶が正しければ、目の前の扉は保健室に繋がっていた。とはいっても保険の先生がいるわけではなく、病人を安静に寝かせるためのベッドがいくつかと、傷薬や飲み薬、包帯に絆創膏など応急セットが用意されている部屋だ。


「日和です」


 ノックしてから名乗るも返事はない。

 入るか待つか迷っていると、音を立てずに扉が開いた。


「うめさ――」

「しぃーっ」


 日和が名前を呼ぼうとするのを、うめは唇に人差し指を当てる。


「アイちゃん寝てるから起こさないよう小声でね」

「わかった……アイの体調はどう?」

「熱はもう下がっているわ。だけど、疲れちゃっておねむみたい」

「そっか。熱下がったならよかった」

 

 忍び足で入室すると、等間隔に並べられたベッドの端っこでアイは寝ていた。

 小さなひたいには冷却シートが貼られていて、氷嚢ひょうのうをタオルで巻いた特性の氷枕と合わせて頭を冷やしている。枕元には病人にも飲みやすいスポーツ飲料も用意されていて、至れり尽くせりといった様子だ。


「うめさん、看病ありがとうね」

「いえいえ。私だけじゃなくて、サルビアのみんなも手伝ってくれましたから」

「そうなんだ……あとでお礼言わなきゃ」

 

 日和はベッドの近くのパイプ椅子に座ってアイを覗き込む。

 スヤスヤと気持ちよさそうに眠る姿からも、すでに熱が引いて快調に近づいているとうかがえた。

 

「ごめんね、辛いときに傍にいてあげられなくて」


 その表情は慈愛に満ちた母親の顔だった。

 悲しげに微笑みながらも我が子をおもんばかり声をかける。

 日和の手が優しくアイの髪を撫で、しばらくは規則正しい寝息が時計の針を進めていた。


「……笑ってるな」

「ほんとだ。いい夢見てるのかも」


 優斗は隣のベッドに腰掛けて、日和と同じく柔らかい眼差しでアイを見守った。

 そんな三人をさらに後ろから眺めていたうめには穏やかな笑みが浮かぶ。それから一言かけようか迷う素振りを見せ、結局は何も言わずに部屋を後にした。


「今日のご飯どうしよっか」

「アイが食べやすいもの……うどんとか、雑炊とか」

「相良さんの分は別で作ろうか? いっぱい動いたしお腹すいてるでしょ」

「同じのでいいよ。そんながっつり食べないし。てか天瀬こそ疲れてるだろ」


 優斗が言っているのは、身体の疲れはもちろん気疲れも含まれている。

 しかし日和は頼もしく首を横に振った。


「大丈夫。一番辛いのはアイだもん。これくらい平気」

「……俺もまだ動けるし、今日の夕飯は俺が作る」

「え、大丈夫って言ったのになんで」

「アイの傍で看病したい、って天瀬の顔に書いてある」

「……バレた?」

「うん、バレバレ」

 

 静寂な空間に小さな笑い声が響く。


「じゃあお言葉に甘えようかな」

「そうしとけ。そのほうがアイも喜ぶ」

「うん、ありがと」


 もう一度、日和は優斗を見て微笑む。


「……んぅ」


 天使が目を覚ましたのはちょうどその時だった。


「起こしちゃった?」


 申し訳なさそうに日和が聞くと、アイは朧げにぱちぱちと瞬きをする。


「…………ママだぁ」


 たっぷりと時間をかけて、アイは日和を呼んだ。


「……パパもいりゅ」


 まだあやふやな呂律ろれつだが、その目ははっきりと親の顔を捉えていた。


「ただいまアイ」

「……おかえり、なさい」

「体調はどう?」

「……げんき」

「ならよかった……一回、熱計っておこう。脇動かせる?」

「……うん」


 テキパキと容態を確認する日和と、寝起きで曖昧な意識ながらも受け答えをするアイ。

 体温計が鳴るまでじっとしていられないのか、アイは優斗へと身体の向きを変えた。


「……パパ、山登り楽しかった?」

「楽しかったよ。景色が綺麗だった」

「……こんど、アイも連れてってくれる?」

「山行きたいのか」

「……うん。やっほーしたい」

「そりゃいいな。いつか三人で行こう」


 優斗が約束すると、アイは嬉しそうに口角を上げる。

 

「子供でも登りやすい山ってあるかな」

「それこそ高尾山じゃね。途中までリフトで行けば楽できるし」

「……また同じのはちょっと」

「飽きるタイプか」

「特別な場所ならいいんだけどね」


 早くも登山の計画を立てているうちに小刻みな電子音が鳴った。


「三十六度七分……平熱よりちょっと高いくらい」

 

 実際に数値を見てようやく心の底から安堵できたのか、日和は表情を和らげて大きく息をつく。


「アイは身体動かせそう?」

「うーん……うん、ちょっと」

「それならとりあえず部屋戻ろっか」

「……おんぶ?」

「パパ、出番だよ」

「りょーかい」


 アイにおねだりされて、優斗はベッドの手前でしゃがむ。

 背中越しにもぞもぞと動きがあって、やがて首元に両腕が巻かれた。布越しに伝わる体温が熱く、呼吸も少し荒く感じる。


――まだ辛そうだな。


 ゆっくりと立ち上がりながら、壊れ物を扱うよう慎重に進む。


「アイ」

「……ん」

「なにか食べたいものあるか?」

「……アイス」

「何味がいい」

「……いちご」

「わかった。あとで買っておくよ」


 そう言うと、耳元で小さなお礼が聞こえた。

 また抗えない眠気に襲われているらしく、アイはうとうとと船をこぐ。

 

「随分と甘いなぁ」

「ブーメランだぞ」

「私はずっとこれだから」

「……病人特権だよ」

「ふふっ、優しいね」


 日和から褒められて、照れ隠しに優斗は目を逸らした。

 部屋の鍵を開けてもらい、アイを背負いながら玄関に入る。


「アイは寝かせとく?」

「うん。無理させたくないし。ご飯できたら起こしにいこう」

「そうするか……このまま寝室に寝かせるわ」

「あー、待って。まだ布団敷いてない」

「……頼んだ」

「任せて」


 日和がすぐに布団の準備を始め、その間も優斗はアイをおんぶしていた。


「……おうちついた?」

「ついたよ。まだ寝てていいけどな」

「……おきる」

「でも眠たいだろ」

「……ねむい」

「なら寝てろ。ご飯のとき起こすから」


 その言葉に安心したのか、アイは優斗の肩に頭を預ける。程なくして寝息が聞こえてきた。同時に日和が寝室の扉を開けて、手招きをする。


「準備できたよ」

「サンキュ。ちょうど寝たとこ」

「一応、冷却シート用意しよっか。あと、氷枕も」

 

 それからはあっという間だった。

 日和はアイが快適に眠れるように環境を整え、優斗は三人分の玉子雑炊を作る。

 

「ご飯できたぞ」


 しばらくして優斗が寝室に訪れると、微笑ましい光景が広がっていた。


「……やっぱり疲れてるよな」

 

 優斗は苦笑交じりに呟く。

 その先には、アイに寄り添うようにして日和も寝息をたてていた。

 アイの看病をしているうちに、自身の体力を使い果たしてしまったのだろう。日和は自らの意思で眠ったというより、抗えない睡魔に襲われたようだった。その証拠に、自分の腕を枕代わりに掛け布団さえ羽織っていない。それでもしっかりとアイに身体は向いているので、意識が途絶えるまでその愛らしい顔を見守っていたのだと窺える。


「いつもお疲れ様」


 そっと毛布をかけてやると、日和の身体がもぞっと動いた。

 しかし目覚める様子は見せずに、ほんの少しだけ緩む。


 日和の寝顔をこうしてまじまじと見るのは初めてだった。

 毎晩、一緒の寝室で寝ているとはいえ、朝起きるのは日和のほうが早い。寝るときは優斗のほうが遅いが、二人の布団の間にはアイがいて、消灯後の暗がりでははっきりと遠くを認識できない。


 そういうわけで、優斗は改めて日和の寝顔を目にする。


――可愛い顔してるな。


 言葉には出さないが、素直な感想だった。

 普段は美しい、綺麗といったイメージが強いが、目を閉じて眠っている姿からは可愛らしい印象を受ける。年相応の幼さが露になっており、長いまつげ、玉の肌、艶やかな唇と魅力的な素顔につい見惚れてしまった。

 隣で寝ているアイと比べても負けず劣らず天使のような寝顔だ。


「おやすみ」


 それだけ声をかけて、優斗は寝室を後にした。

 二人分の夕食は冷蔵庫に仕舞って、ひとりで湯気立つ雑炊を口にする。

 喉元を過ぎても熱さは残り、身体の内側をじんわりと温かくした。



 

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