第25話 幼女は言った「もしもし」


 飯盒炊爨およびカレー作りを終えて、キャンプ場の敷地で自由時間が与えられた。

 広々とした原っぱは開放感があり、そよ風に吹かれて草木がざわめく。童心に帰って走り回る生徒もいれば、のびのびと日向ぼっこをする生徒、ウッドテーブルで談笑する生徒など時間の使い方は様々だった。

 そして他クラスと入れ替わるようにして、集合場所である高尾山の麓に戻り、課外活動は解散となった。


「……大丈夫かな」 


 電車に揺られながら、日和は思いつめた顔で呟く。乗降口前の手すりに背中を預けて、窓の外をただひすらに眺めていた。その視線は遠く遠くに向けられている。


 課外活動の途中、一件の連絡が届いてからはずっとこんな調子だった。

 

 宛名は青木うめ。

 要件をまとめると、アイが熱を出したらしい。


 クラスメイトの前ではなるべく平然を装っていたものの、不安げな表情が隠しきれていなかった。

 透と美羅も様子がおかしいと感づいたようだが、日和は気丈に振舞おうとしていた。


――そりゃ心配だよな。


 唯一、詳しい背景を知っている優斗だけが心の内を共有することができた。


 日和の対面で腕を組みながら、優斗もまた手すりに体重をかけて外を見る。


 今頃サルビアではうめを始め、大人たちが看病をしてくれているはずだ。すでに病院には連れていったようで、重病ではないと確認もとれている。

 ただの風邪なら水分と栄養をしっかりと補給し、十分な睡眠をとって安静にしていればいずれ治る。

 しかし病は気からというように、気持ち次第で病気は良くもなれば悪くもなるのだ。特に子供は身近な人が近くにいないと心細いに違いない。

 サルビアの面々が傍にいるからといって安心して任せられるわけではなかった。

 それはすなわち親心と呼ばれるものに分類される。珍しく焦りが顔に出ている日和はもちろん、いつしか優斗にも芽生えていた感情だった。


「家出るときは元気そうだったのにな」

「ほんと、急な発熱が一番怖い……」

「まあただの風邪でよかったよ」

「うん……よかった」


 それだけは幸いと、日和は安堵の息をつく。

 

「帰りにスポーツドリンクとか買っていくか?」

「そこらへんはうめさんが用意してくれるって」

「さすが、頼れる。俺らは直帰すればいいわけね」

「そういうこと」


 とはいえ電車は定刻通りに進む。

 じれったい時間がいたずらに過ぎ去り、行きと帰りで所要時間は同じはずなのに随分と長く感じた。


「早く帰らないと……アイが待ってる」


 最寄り駅についてすぐ日和は走り出そうとした。

 そのタイミングを見計らったかのようにスマホが振動する。


「……電話、うめさんからだ」


 日和と優斗は目を合わせて息を呑んだ。

 わざわざ電話をかけてくるということは急用なのかもしれない。つまりはアイの容態に結びつけられる。いい知らせとは思いにくく、おそるおそるスピーカーモードにして二人は言葉を待った。そうしながらも足は止めずに帰り道を急ぐ。


「……もしもし?」


 聞こえてきたのは鼻が詰まったぐずぐずの声だった。声量は弱々しく、発音もたどたどしい。それでも誰の声なのか聞き返さずともわかる。


「アイ、熱は大丈夫? 辛くない? ちゃんと安静にしてる?」

 

 心配の気持ちがはやって日和は早口にまくし立てた。


「うん……ねちゅ、ちょっとさがった」

「それならよかった。でもまだ寝てないとダメだよ? 元気になるまでは身体休めないとだからね」

「……あい、ねてる」


 体調が優れないせいか、単に寝起きなのか。アイはふにゃふにゃとおっとり話す。

 そんな病人を気遣う気持ちから日和の口調は数段と柔らかい。声が聞けて少しは安心できたようで、その表情はいくらか弛緩していた。

 

「……ママ、まだかえってこない?」


 電話越しに寂しげな声がする。


「実はいま駅から帰ってるところ」

「ほんと?」

「ほんとだよ」

「じゃあもうすぐあえる?」

「そうだね、五分後くらいかな。すぐ会えるよ」

「やった……アイ、まってるね?」


 可愛らしい言い方をされて日和の頬が緩む。

 それと同時に歩幅が大きくなり、わかりやすく足早になった。

 

「……パパはいる?」

「パパ? いるよ、電話かわるね」


 渡されたスマホを優斗は受け取る。


「もしもし?」

「あ、パパだぁ」


 優斗が喋ると嬉しそうな反応が返ってきた。


「パパもかえってくる?」

「うん。ママと一緒にいる」

「……はやくかえってきてね」


 そうお願いされて首を横に触れるはずがない。


「わかった。なるべく早く帰る」

「ありがとぉー」

「電話切るけどいいよな?」

「……かえってくるんだよね?」

「もちろん。絶対帰るよ」

「じゃあばいばいする」


 長話してまた体調を崩してはいけないので、手短に会話を終えて電話を切り上げた。アイは名残惜しそうにしていたが、直接会って話せば寂しさも埋められる。

 

「で、五分は嘘だろ。ここからまだ先だぞ」

「あの声聞いて歩いてられないでしょ」

「……それはそうだな」


 日和が助走をつけて徐々にスピードを上げ、優斗もその背中を追うようにして踵を浮かせる。

 全速力とは言えないがジョギングよりも速いペースで二人は娘の待つ家へと向かった。


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