第13話 サルビアの母は言った「ごめんなさいね」

 

 夕食を食べ終わり、優斗はサルビアの施設内を一人で歩いていた。


 日和とアイはというと、今頃は入浴しているはずだ。


――今日はゆっくり風呂に入れる。


 三人がいいと、アイにまたわがままを言われると思いきや、今日は素直に母親に従った。


 日和曰く、普段のアイは物分かりがいいらしい。

 昨日が特別わがままで手を焼いたとため息を吐いていた。


――またタオル投げられても困るしな。


 多くの生徒は羨む状況かもしれないが、実際は気疲れするだけだ。

 無邪気な子供そのものであるアイはともかく、まだ日和のパーソナルスペースを掴めていない。

 昨夜、優斗の肌を間近で見てしまい、顔を赤らめていたように。一緒に生活するにあたって、同居人の人となりをある程度把握しなければ、些細な事柄でも簡単に亀裂が走ってしまう。

  

 そもそもこの生活自体が急遽始まった。

 優斗にはアイを取り巻く知識が不足している。

 これから一か月間だけ、と考えるか、これから一か月も、と考えるか。

  

 優斗は後者の考えをする人間であり、さらにその先まで見据えていた。

 途中で放り出すのは、自分の過去が許さない。


 アイがお風呂に入っている間、とある一室を訪れる。多くの児童が共同生活を営んでいる施設内は広い構造をしているのだが、日和から場所を聞いていたので迷うことはなかった。

 ドアをノックして名前を伝えると、「どうぞ」と声が返ってくる。


「よく来てくださいました」


 待っていたのはサルビアの施設長、青木うめだ。

 事前に日和つてで来訪を伝えているので驚きはない。

 むしろ歓迎の準備はできているようで、テーブルに急須に茶菓子が並んでいる。


 施設長室と表札に書いてあったので、校長室のような雰囲気を想像していたのだが、内装は質素な作りをしていた。白塗りの壁にいくつかの写真が飾られていて、他には必要最低限の家具が置かれているだけ。ここで寝泊まりをするというよりは、執務室の役割を担っているようだ。そういう意味では校長室と変わらないのかもしれない。


「今日からお世話になります」

「そんなに畏まらず。頼りにしたのは私共ですから」


 年が一回りも二回りも離れているだろうに、うめは丁寧な口調を崩さない。


「それに、相良さんはお世話する側でしょうに」

 

 ソファに座ってと促され、優斗はその通りにした。

 差し出された湯呑に口を付けると、温かな緑茶が身に染みる。

 さらにはひざ掛けまで用意してもらい、至れり尽くせりといった状況だ。


「昨日ぶりですね。まさかこんなに早く了承してくださるとは思いませんでした」

「真摯にお願いされたので、先延ばしにするのは申し訳ないかなって」

「真面目で紳士的な考えです。改めて、私からお礼を言わせてください」


 うめは深々と頭を下げる。

 それからサルビアの生活はどうだとか、アイと日和とは上手くやれているかとか、遠慮なく頼ってくれだとか、色々と話しかけてくれた。

 優斗にはそれにあたる人と会う機会がなかったが、祖父母が孫を気にかける心理と似たものを感じた。

 

 しかし優斗は談笑する目的で訪れたわけではない。


「アイのことなんですけど」


 話を切り出すと、うめはお茶をひと啜りして息をつく。


「答えられる範囲であれば、なんでも答えましょう」


 含みのある言い方は、個人情報などプライバシーを指していると解釈した。

 優斗にしても、アイの過去をあれこれ聞きだすつもりはない。アイの現在だって、これから接していくうちに知れたらいいなと思っている。日和に関しても同様だ。


「一か月だけ、というのが気になって……その後って、どうなるんですか」


 この疑問だけはうめに答えてもらう必要があった。

 日和も訳知りのようだが、より確実なのはサルビアの施設長で間違いない。 


「前に話した通り、アイちゃんは記憶を失っています。本当の両親の顔も名前も……もうこの世に存在しないことも」


 既に聞いてはいるが、改めて耳にしてもその悲痛な過去は胸を刺す。


「相良さんと日和ちゃんは、いわば記憶を補完するためにパパとママに選ばれたわけです。その状態をいつまでも続けるわけにはいきません。それはアイちゃんにとってはもちろん、両親として過ごす二人の負担にもなります」


 うめは穏やかな声で喋っているが、いつしか真剣な表情になっている。


「だからアイちゃんは記憶喪失の治療、改善のため入院の予定があるんです。正確には六月二日、十五時三十二分。その時まで、アイちゃんをお任せしたい次第です」


 なぜ時間まで指定されているのか、優斗は気になったが口を挟まなかった。

 まだ話には続きがあり、じっとそれを聞くことにする。


「その後のことは、まだわかりません」


 答えはあってないようなものだった。


「もし記憶を取り戻したとき、相良さんと日和ちゃんをどう解釈するのか。それはアイちゃんにしかわかりませんし、記憶が戻らなかったときは……そのときに考えるつもりです。お二人にも相談するでしょう。ただ今は、この一か月を大切に過ごしてほしい」

 

 言葉の一つ一つに、祈りが込められている。

 中途半端に途中で投げ出す。そんな無常な意図は微塵も見えない。

 だから優斗はこれ以上を聞くことはせず、答えに満足してすらあった。


 優斗に求められているのは、アイの父親として一か月生活を共にすること。

 その先を真剣に考える人がいるのなら、自分の役割に集中できた。

 

「どんな結果になったとしても、共に過ごした繋がりは消えない。私はそう思いますし、そう願っていますよ」


 一礼してから席を立つ優斗に、うめは変わらない声音で語りかける。


「アイちゃんを……そして、日和ちゃんをよろしくお願いしますね」


 扉が閉まってからまた、祈るように、願うように、うめは言葉を紡ぐ。

 

 優斗に父親役を頼んだこと、日和に母親役を任せたことに後悔はない。

 しかしまだ若い二人に重役を担わせてしまった。その不甲斐なさと、申し訳ない気持ちは存在する。ただこればかりは、うめにはどうすることもできない。アイが望んだパパとママは、相良優斗と天瀬日和だからだ。

 だからこそできる限り力になりたいと、全力でサポートする準備はできている。今日だって優斗が知りたいことは、なんだって答えてあげたかった。


「ごめんなさいね。あの子の言い分もわかってしまうの」


 うめはひとり、冷めてしまったお茶を両手で温めながら懺悔する。


 それからしばらくして、施設長室の固定電話が鳴った。


「もしもし?」


 受話器を手に取って問いかけるも名乗る様子はない。

 かわりに用件だけが耳に届いた。

 

『あのことは言ってないよね』


 念押しするような言い方だった。


「ええ。心苦しいですが伏せました。でもね、いつかは言わなければならないですよ?」


 うめは電話越しの相手を優しく諭すように話した。


『……その時は、私から伝えるから』


 まるで母に怒られた子供のように、声のトーンがしゅんと落ち込む。

 それっきり電話は切れてしまい、ツーツーと寂しげな音だけが残された。


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