第11話 幼女は言った「おかえり!」
天瀬日和が相良優斗に告白した。
天瀬日和が相良優斗をかつあげした。
天瀬日和が相良優斗とカバディ部に入部する。
かなり大きな尾ひれがついた噂話が教室を駆け巡り、優斗は一昼にして時の人になった。
クラスメイトから質問攻めにされ、その筆頭に美羅が立ち、透がなだめる。
事の中心に日和もいるはずが、誰も近づこうとしないので不公平だ。
放課後になっても包囲網は解かれず、優斗は逃げるようにして帰路に着いた。
これから荷造りをして、サルビアへと向かう必要がある。
「ただいま」
返事は帰ってこない。
ただ空虚に冷える玄関は薄暗く、明かりを付けないと前に進めなかった。
高校入学を機に一人暮らしを始め、何事もなく一年が経った、
何事もなかったからこそ、この生活に慣れてしまった自分が時々無性に虚しくなる。
家に帰る、という行為はいつだって優斗の足取りを重くした。玄関の扉が近づくにつれ、心が沈んで表情が固くなる。幼少期は部屋中に響き渡る元気な「ただいま」だったのが、いつしか自身の耳にも届かない囁きに変わっていった。それでも必ず帰りを伝えてしまうのは、淡い期待か切なる幻想か。
玄関で靴を脱ぎながら、思い出すのは過去の記憶。
優斗が中学生の頃、両親が離婚した。
仕事第一の父親と恋多き母親。
それぞれの都合で築いた家庭に愛はない。
ただいま、は求められていなかった。
親権は父親に委ねられたが、なかなか家に帰らない人だ。
親戚に引き取られることになり、そこでも心休まる居場所は手に入らなかった。
多額の金銭的な援助と引き換えに、優斗を迎え入れた形に過ぎない。決して歓迎されたわけではなく、居心地の悪い生活が続いた。
おかえり、は機械的なやり取りだった。
幼いながらも歪な環境に身を置かれ、優斗は自然と一人を好むようになった。正確には一人にならざるを得なかった。一番身近であるはずの二人から愛を受けられず、愛を求める方法を見失ってしまった。
感情表現が苦手になったのも、その影響だった。
幸い友人関係に恵まれたが、色恋沙汰に興味は持てない。
相良優斗はそうやって形成された。
回想を終える頃には、数泊分の荷造りもあと少し。
日用品はサルビアで支給されるらしく、着替えと教材を中心に用意をした。荷物が多くなっても置き場に困る。もとより必要最低限に留めるつもりだったので、キャリーケース一つで事足りた。
「……これも持っていくか」
目に入ったのは古びたカメラだった。
優斗の父親が、唯一残していったもの。必然的にあまりいい記憶はなかった。思い出を残す物だというのに、思い出したくない過去ばかりがよみがえる。
それでもこうして手元に残してあるのは、捨てるきっかけがなかったから。ただそれだけのこと。
荷造りを終えて、優斗はサルビアへと向かうべく外へ出た。
キャスターを転がしながら、雲一つない晴天の下を歩く。
「荷物それだけ?」
道の途中で声がかかった。
振り向くと日和が片足に体重をかけ、腕組みしながら立っている。
「先に帰ってもよかったのに」
「私なりの誠意。頼んでおいてひとりで来い、ってあまりいい気はしないでしょ」
優斗としては全く気にならないのだが、日和の気が済まないらしい。
わざわざ公園で待っていて、さらにはキャリーケースに手を伸ばす。
「そこまでしなくていい」
「そこまでさせて」
「男が女に荷物持たせるとかダサいだろ」
「時代錯誤。今の時代、ジェンダーレスだよ」
なぜか説教をされる羽目になるが、本心は別にあるらしい。
「少しでもお礼がしたいの」
隠れている主語は、サルビアの一件に違いない。
「だったら後で肩でも叩いてくれ。最近、筋肉痛が凄いんだ」
「……そんなことでいいなら」
変なところで義理堅いというか、頑固な一面を日和は持っている。
代替え案を出せばあっさり引くあたり、借りを返したい気持ちが強く表れていた。それほどまでに感謝しているとも受け取れる。その証拠に日和は感謝の言葉を惜しまなかった。
「アイのこと、ありがとうね」
「なんだよ改まって」
「あの子の前だとあまり話せないし、今のうちにって」
普段はぶっきらぼうな物言いをするくせに、こういうときは物腰柔らかい。
飾り気のない素直な気持ちが伝わり、むずがゆかった。
距離を開けて隣を歩きながら、足取りがぎこちなくなる。
「うめさんも電話したらやっぱり喜んでた」
「アイにも話したのか?」
「ううん。サプライズのつもり」
言いながら日和はほくそ笑む。
確かに突然二人で帰宅すれば、アイは大いに喜ぶだろう。
あの無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。パパ、ママ、と呼ぶ声が今にも聞こえてきそうだ。
そんな想像を優斗は無意識にしていた。
道中は無言の時間が続くと思いきや、今日は日和が話題を振ってきた。
好きな食べ物とか、趣味の有無とか、抜き打ちテストの結果とか。
他愛のない話をしているうちに、サルビアが見えてきた。
今日から一か月と少しの間、ここが優斗の家となる。
ましてや父親として、疑似的な家庭を築かなければならない。
一歩、また一歩、近づいていく。
そのたびに、あの感覚が優斗を襲った。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
急に足を止めた優斗を気にして、日和も立ち止まる。
大丈夫と返して平静を装うが、久々に吐き気がした。
ここに至るまで一番考えたのは、実のところアイのことでも日和のことでもなかった。他でもない優斗自身のこと。
どうしても頭をよぎってしまう。
居場所はあるのだろうか、と。
優斗が日和の頼みを受け入れた理由に偽りはない。
ただもう一つ、心に秘めた不純な動機があるとすれば。
――受け入れてもらいたい。
相手から求められているのにもかかわらず、確たる自信がない。
それは優斗の過去がもたらす弊害だった。
血縁関係でさえ上手くいかなかった家族という関係性。
優斗は過去を乗り越えるため、今ここにいる。
庭と呼ばれている外の遊び場では、相変わらず子供たちが元気に走り回っていた。
そこにアイの姿はない。うめが機転を利かせ、部屋で待機させているらしい。
インターホンを鳴らし、貰ったばかりの合鍵を差し込む。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
ドアノブに触れる手が震える。力なく後ろに引くと、室内から光が漏れた。
「ただいま」
その声はとても弱々しかった。
傍から見れば、事務的に呟いただけに思われるかもしれない。
しかし、実際は様々な意味が込められている。
そして、返事はなかった。
かわりに、とてとてと足音がする。
「パパ、おしごとは!?」
「……辞めてきた」
「りすとらされたの?」
「違う、普通に辞めただけ」
どこで覚えたのか怪しい言葉とともに、アイは小走りで迎えに来た。
それから優斗に抱き着くと、満面の笑みで口を開く。
「おかえり!」
それは数年間に及ぶ長くて辛い沈黙を破る救いだった。
優斗にとってかつての家は、帰りたい場所ではなかった。
今この瞬間、アイの言葉によって。
優斗は初めて帰りたいと思える場所を見つけた気がした。
「……パパ、泣いてる?」
「うそ、どうしたの」
アイが心配そうにのぞき込む。
後ろから見守っていた日和もそれに続いた。
「目にゴミが入った」
適当な嘘でごまかして、静かに流れる涙を拭う。
出会ってまだ三日しか経っていない。
それなのにどうしてここまで充足感を覚えるのか。
日和とアイを交互に見て、また涙が溢れそうになる。
ぽっかりと空いた心の穴を埋めるよう、じんわりと温かい熱が込み上げていた。
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