第10話 美少女は言った「なにそれ、気持ち悪い」


 サルビアを後にして、一度自宅に帰り、優斗は無事学校に間に合った。

 いつも通り授業を受け、休み時間は美羅と透と話す。

 そうしてあっという間に昼休みになった。


「次の授業、抜き打ちテストあるっぽい。あの先生、マジかったるいわ」

「おーいっ、カバディ部いるかー? 今日の昼、ミーティングだぞー」

「ねえ聞いた!? 地堂ちどうはるか、また映画の主演やるんだって!」


 四時間目を乗り越えた生徒たちはエネルギーに溢れていて、持参したお弁当を食べるだけでは消化しきれない。


 教室に残った生徒は雑談に興じたり、スマホを弄ったり。読書に音楽、勉強をしている人だってちらほらと。

 一方で教室を離れる生徒も少なくない。学食や購買で昼ご飯を食べる人もいれば、部活動の集まりや、校庭で遊んでいる場合もある。


 優斗はというと、いつだって教室残り組。

 そして今日は、机に突っ伏して過ごしていた。


――寝れねえ。


 教室の騒がしさが優斗の睡眠を阻害する。

 美羅と透が部活仲間に呼ばれて教室におらず、ゆっくりできると思いきやこれだ。

 静かな場所へ行こうにも図書室は居眠り禁止。他の安眠スポットなど見当がつかなかった。


 ただでさえ疲れているというのに、このままでは脳も身体も休まらない。


――あの夢さえ見なければ……。


 とにかく少しでもいいから眠っておきたい。

 疲弊した脳では正常な判断をくだせず、勢い任せの決断しかできない。

 大きな選択を前に、睡眠はとてつもなく重要だ。


 今度はイヤホンして、優斗は入眠を試みる。

 音楽が鳴っていると寝れないたちなので、気休めの耳栓代わりだ。


 しかし、思わぬところに優斗の眠りを妨げる伏兵がいた。


「ねえ」


 トントン、と机を叩かれ、わずかな振動が睡魔を吹き飛ばす。

 寝たふりをしてもよかったが、鈴を転がすような声が優斗を起き上がらせた。


「どうした天瀬」

「用あって。ちょっと話したい」

「いいけど、ここじゃ目立つぞ」


 痛いほど周囲の視線を感じる。

 それもそのはず、こうして日和がクラスメイトに話しかけるのは珍しい。

 相手が優斗でなくとも、同じような反応だっただろう。


 この場に美羅がいなかったのは幸いといえる。

 もし同席していれば、あることないこと騒ぎ出すに決まっているからだ。


「まだ時間あるよね。付いてきて」

 

 ざわついているクラスメイトはよそに、日和は澄ました表情で廊下へと歩き出す。

 ここから二度寝というわけにもいかず、優斗もその後を追いかけた。


「最近やたらと天瀬の背中を見るな」

「なにそれ、気持ち悪い」

「連れまわされてるって意味だよ」

「……それは否めないかも」


 怪訝な顔が、しゅんと落ち込む。

 意地悪を言うつもりはなかったのだが、日和を相手にするとなぜか角が立つ。

 教室の後ろから観察していた身としては、気持ち悪いという罵倒こそ否めない。


 うめは息が合うなどと言っていたものの、むしろ相性が悪いのではないか。

 優斗も日和も歯に衣着せぬ物言いをするので、自然と衝突が多くなった。


「でも、よく断らないよね」

「まあ、暇だから」

「なにそれ」


 背中越しに、日和が笑った。

 もっとも、後ろからだと表情は伺えないのだが。

 アイの前以外では、初めて口角が上がったといえる。

 

 こうして感情に素直な日和こそ、素の姿なのかもしれない。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。


 子供相手だと、日和は驚くほど感情豊かなのだ。

 一方で、学校ではなぜ無愛想に振舞っているのか。


 本人に聞いてみようかと考えたが、その前に日和の足が止まる。

 

「ここなら人目もないでしょ」


 着いたのは、屋上前の踊り場だった。

 扉は施錠されており、生徒は入れないようになっている。万が一にも危険がないように考慮した措置だ。漫画や小説のように、自由に解放された屋上スペースのほうが珍しい。

 わざわざ近づく者はおらず、ひとりになるにはうってつけの場所だ。


「はい、これ」

 

 手渡されたのは鍵だった。

 それがどの扉を開ける鍵なのか、想像に容易い。


「うめさんが渡せって。いつ返してもらっても構わない。けど、いつだって歓迎してる。そう言ってた」


 手のひらに乗せられた合鍵を、優斗はじっと見る。

 それは体感よりもずっと重く、強い意味が込められている。


「一つ聞いておきたい」

「なに?」

「天瀬は、俺と一緒に暮らすことに抵抗はないのか?」


 日和の大きな目が、丸く見開かれた。

 予想外の質問に動揺したようだが、すぐに息をついて平常心を取り戻す。


「私は構わない。アイには父親が必要だから」


 一切の迷いなく、毅然とした回答だった。


 他人の異性と暮らす。

 それを許容してまで、アイを重んじているわけだ。

 驚きを通り越して、もはや尊敬すら抱く。


「それに、なら信頼できる」


 一周回り、驚きが返ってきた。


 脳裏に今朝の夢が浮かび、すぐに取り払う。

 

「随分と俺を買ってるな」

「……勘違いしないで。アイが信頼してるから。私もそうせざるを得ないだけ」


 どこまでいってもアイが中心らしい。

 若干の間に、本音を隠したようにも思えたが、なんにせよ信用してもらえるならそれに越したことはない。


「あっ、そうだ」


 思い出したように、口を開く。


「しばらくはアイも我慢できると思う。だけどあの子のことだから、また相良さんに会いたがる。急かすつもりはないけど、よかったら顔出してくれないかな」

「いや、その必要はない」

  

 優斗は食い気味に否定する。           


 正常な判断ではないかもしれない。

 勢い任せの決断かもしれない。


 それでも、こうして改めて日和と話し、決意が固まった。


「これから毎日、アイのもとに帰ればいい話だ」

「それって……」


 日和の表情が、だんだんと明るくなる。

 

「ありがとう、相良さん」


 屈託のない笑顔が、そこにはあった。

 正真正銘、優斗に対して向けられた日和の笑みは、これまで見たどの表情とも違う。年相応に幼くて、心から嬉しそうで。優斗の選択を後押しするのに十分だった。


「……でも、ちゃんと考えた? 答えを出すの早かったけど」

「考えに考えたよ。それに、こういうのは先延ばしするだけ尾を引く」

「同感。アイも喜ぶよ。あと、うめさんも」


 優斗が家族を受け入れた理由は二つある。


 一つは、アイを放っておけない。

 見て見ぬふりをするには、背景が暗く重すぎた。

 優斗自身、思うところもある。

 少しでも辛い過去を背負えるなら、力になろうと手を差し伸ばせた。


 もう一つは、日和に興味があった。

 恋愛感情ではなく、やましい気持ちも一切ない。

 人として、日和が気になっている。


 アイを親身に思いやり、子供に対して誠実に向き合う姿。一方で、学校における他人と距離を置くような態度。

 偶然、相反する二つの顔を見てしまった優斗は、不思議と日和に惹きつけられていた。

 

「それに、約束守らないと針千本のまされるからな」


 日和はまた、小さく笑った。

 今度はその、可愛らしい横顔を視界に収める。

  

 静かに胸が騒めく音に、まだ気づく気配はない。


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