第9話 美少女は言った「ご飯にする? お風呂にする? それとも……」

 

「それじゃあ、行ってくるよ」


 男はそう言って、一眼レフのカメラを首から下げ、玄関の扉を閉めた。

 その背中を小さな子供が寂しそうに見送る。

 

「ねえ、ママ。今度はパパ、いつ帰ってくるかな」


 子供は隣に立つ母親に目を向けた。


「さあ、いつだろうね」


 感情のこもっていない声だった。

 母親はただ一点、先ほどまで夫がいたくうを見つめている。その目は遠く、表情は固い。


 それから数か月後、子供は家に一人だった。

 父親も母親もどこかへ行ってしまった。

 残されたのは、広々とした空間と埋まることがない心の穴。


 様々な感情が渦巻く中、深く刻まれた孤独が胸を締めつける。


 そして、なぜか腹部に得体のしれない重みを感じた。

 ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が広がっている。と、状況を理解するより先に、視界に人影が飛び込んできた。


「パパおきたー!」


 優斗のお腹にまたがり、やったーと両手を上げる女の子。

 これはまだ、夢を見ているのだろうか。


「おはよー!」


 朝から元気な挨拶に、だんだんと寝起きの頭が冴えてくる。

 昨日の出来事を思い出しながら、優斗は眠気まなこを擦った。


「……おはよう」

「うん!」


 朝日よりも眩しい笑顔が、ぱっと花開く。

 無邪気で純粋な、裏表のない笑顔だ。


「ママー? パパおきたよー」


 役目は果たしたと、アイが一目散に走り去る。

 残された寝室で優斗は額に手をあてた。


「久々にこの夢を見た……」

 

 悪夢というにはもう慣れてしまったが、目覚めとしては最悪だった。

 

 隣を見れば、二人分の布団が丁寧に畳まれている。

 日和がいつ起きたのか知らないが、夢に影響されて変な寝言を聞かれていないか心配だ。

 ただでさえ、昨夜のことで顔を合わせずらいので、これ以上気まずくなるのは避けたい。


 今思えば、こうして日和とアイと過ごした一日自体が夢のよう。誰に話したって信じてもらえないだろう。


 時計を見れば、まだ六時半。

 これから自宅に帰り、教科書とノートを準備して、制服に着替る。時間には十分余裕があった。とはいえ、ゆっくりしていられるわけでもない。

 

 まだ重い身体を無理やり起こして、ひとまず布団を畳む。

 さてどう帰ろうかと考えながら、優斗はリビングに向かう。

 その先でまた、夢のなかのような錯覚に陥った。

 

「おはよう、よく眠れた?」

「おはよ……まあ、それなりに」


 本当は軽く寝不足なのだが、悟られまいと言葉を返す。


 キッチンに立つ日和は、お弁当を作っていた。

 そのエプロン姿が、夢か現か優斗を惑わせる。


「朝ご飯、トーストでいい?」

「いや、このまま帰るつもり」

「あ、そうだったんだ。もう焼いちゃったんだけど……」

「それなら食べてく」


 親切を無下にはできない。

 いちごジャムを塗ったトーストを受け取り、優斗は席に着く。その対面には、アイが同じくトーストを両手に持ち、小さな口で齧りついていた。


「おいしいね!」

「そうだな」


 口いっぱいに広がる甘ったるい味を、牛乳で流し込む。


「パパ、このあとがっこう?」

「うん、よく知ってるな」

「そのあとはおしごとだよね」


 そんなことを言った覚えはない。

 考えるに、優斗が帰りやすい口実を日和が作ってくれたのだろう。

 今はまだ、そういう形を取る必要がある。


「つぎはいつ帰ってくる?」

「……まだ、決まってないんだ」

「じゃあおしごとおわったらあそぼ!」


 相も変わらず純朴に、まっすぐ言葉を伝えてくる。

 一切の曇りなく、父親と一緒にいたい一心で。

 ただそれだけの当たり前をアイは求めている。


「わかった、約束する」

「やったー! じゃあ、ゆびきりげんまんね!」


 差し出された小指に一瞬の迷いが生じる。

 しかし、すぐさま小指を絡めると、アイはおなじみの歌を口ずさんだ。


「ゆーびきりっげーんまーん――」


 嘘をついたら、針を千本のまされる。

 そんな物騒な歌詞とは似合わず、のんきで明るい声が響き渡った。


 それから食器をかたし、歯磨きをして、制服を着る。


 三人で過ごす朝は賑やかで忙しなく、あっという間に過ぎていく。


「またな、アイ」


 一言、そう告げてから優斗は玄関を出た。


 アイはいつも通り笑顔で手を振る。

 その光景に、日和は驚き半分嬉しさ半分の表情で見送った。


 

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