第7話 幼女は言った「ママ、おっぱいおおきくなったー?」
優斗にとって誰かと食卓を囲んで食べる夜ご飯は久しぶりだった。
つい癖で黙々と食事を進めたが、沈黙が訪れることはない。
アイは何度も「おいしい」「おいしい」「おいしい!」と感想を口にするし、日和は何度も「こぼさない」「顔についてる」「服に飛ばさない!」と注意していた。
なんの変哲もないカレーが、いつもより美味しく感じる。
隠し味の甘い蜂蜜が、ほどよく溶けて口当たりがいい。
まろみを増したマイルドな味わいは、人を笑顔にする力があった。
カレーを食べ終わり、片づけは優斗が申し出た。
日和に一度は断られたが、引かないと察したのかしぶしぶ任せてくれた。
そうして食器を真っ白な状態に戻してから、優斗は頭を抱えることになる。
「パパ、いっしょにお風呂!」
またしても子供特有の純粋無垢な瞳で、アイは両手を広げた。
風呂場まで運んで、と目で訴えかけてくる。
こればっかりは、優斗も選択肢が決まっていた。
「無理」
「……なんでぇ?」
「そんな顔しても無理だぞ。なあ、天瀬」
「いいんじゃない。アイが頼んでるんだし」
「ママもいっしょ!」
「ぜーったい、ダメ」
「なんで!」
他人の五歳児と一緒に入浴など手に余る。
一緒に遊んだり、ご飯を食べるのとは勝手が違う。
ましてやそこに、クラスメイトが介入するなど言語道断だ。
「ほら、私と一緒にお風呂行くよ」
「パパは?」
「三人だと狭いでしょ。だから別々ね」
「やだ、パパとお風呂いく」
アイは頑なにその場を動こうとしない。
五歳児のわがままは、大人の都合でどうにかなるものではないのだ。
もっとも世間一般からすれば優斗と日和は子供だが、それでも思春期真っ盛りの高校生。お互いに許容できる物事のラインが設定されている。
一緒にお風呂に入る。
これは考えるまでもなくライン越えだった。
しかし、時には例外も存在する。
「お風呂、三人で入るしかないみたい」
「冗談だろ」
「アイはああなると言うこと聞かないの」
「だからってそれはさすがに頷けねえよ」
「大丈夫、考えはあるから。耳、貸して」
答えるより先に、艶やかな唇が近づく。
吐息が耳元にかかってくすぐったい。
「――わかった?」
「それなら、まあ」
甘美な誘いというよりは、現実的な妥協案だった。
日和の提案に優斗は頷き、さっそく二人は準備に移る。
「それじゃ、また後で」
「本当にいいんだな?」
「何度も確認しないで。揺らいじゃうから」
淡々と事を進めていたが、薄紅色に染まった頬が恥じらいを隠しきれていない。
それは優斗も同じことで、決まった現実にまだ脳が追い付いていなかった。
年頃の男女がお風呂を共にするなど、恋人以外では考えられない。
半ば追い出されるように部屋を後にした優斗は、熱くなった顔を夜風で冷やした。
※
要件を済ませて帰ると、風呂場から水音と笑い声が聞こえてきた。
「ママ、おっぱいおおきくなったー?」
「そ、そういうこと聞かないの!」
「だってへんな格好してるんだもーん」
理性が乱される会話に、聞き耳を立てたことを後悔する。
果たしてこの先に進んでいいのか、ドアの前でしり込みしてしまう。
とはいえ、背は腹に変えられない。
ノックして、脱衣所に入る。
まだ風呂場とは扉で隔たれているが、すりガラス越しにうっすらと肌色が見え隠れした。
「パパはやくー!」
のんきに急かすアイとは裏腹に、平常心ではいられない。
「服、空いてる籠に入れといて」
日和の心情はいざ知らず。
若干くぐもった声を聞いて、優斗は観念して服を脱いだ。
「入るぞ」
ガラガラと音を立て、横開きの扉を開く。
外に逃げようとする熱気が全身を包み込み、瞬きの間に視界が晴れた。
「あーっ、パパもタオル巻いてる!」
浴槽から身を乗り出し、アイが指をさす。
その指摘通り、優斗は腰から膝をタオルで覆っていた。
「……遅かったね」
「俺に合うサイズがなかなか見つからなくてな」
「そう」
素っ気ない返事が壁に反射する。
バスタオルを全身に巻いた日和は、全く目を合わせようとしなかった。
ここ二日でほんの少しは距離が近くなったと思ったが、これでは逆戻りどころか悪化している。それなのに物理的には今まで以上に近いのだから、どう接していいのか非常に難しい。
「ママ、どこみてるの?」
「壁」
「なにもないのに?」
「壁見たい気分なの」
「首いたくなっちゃうよ」
「大丈夫。私、寝違えたことないから」
不思議な会話を聞きながら、優斗はシャワーで頭を濡らす。
内心は隣が気になって仕方ない。
うなじまで結い上げられた髪からは水が滴り、火照った身体が色っぽく映る。
タオルのおかげで露出は少ないが、肌にぴったりと布が張り付き身体のラインが浮き彫りだ。
状況が状況なので直視できそうにない。
「パパ、はやくお風呂はいろー」
無邪気に裸で手招くアイもまた、あまり視界に収めてはいけない気がする。
無心で身体を洗い終えて、優斗は湯銭に浸かることにした。
それでアイが満足すれば、この気まずい空間を抜け出せるはずだ。
同じようなことを、日和も考えていた。
「私、先上がるね」
「百数えなきゃだめってママいってた」
「そうだった……」
うかつにも自分が課したルールが枷になった日和。
逃げ場を失くし、ブクブクと湯船に沈んでいく。
「……狭い」
明らかに三人用ではない浴槽は、お湯が押し出されて表面張力ギリギリを保っていた。
必然的に優斗と日和は体育座りを強いられ、時々つま先が触れ合う。そのたびにピクッ、と日和が肩を跳ね上げるので、妙な罪悪感が込み上げてきた。
「二人とも変なのー」
優斗と日和の間でぷかぷかと浮かぶアイはご機嫌だ。
仮にも親の気も知らず、アヒルおもちゃを泳がせている。
遊んでほしかったり、話し相手になってほしいわけではなく、一緒にいることが重要らしい。
「九十八、九十九、百……!」
日和が勢いよく立ち上がり、お湯が溢れ返る。
その瞬間、勢い余って別のものも流されてしまった。
「あっ」
日和から逃げるようにしてすり落ちたバスタオルが、優斗の前に漂着する。
思わず目を正面に向け、やってしまったと後悔した。
日和は今、全身を覆っていた防護服を失った状態なのだ。
無防備な身体があらわになり、魅惑的な肢体が艶めかしく映る。
「…………っ‼」
咄嗟に両腕で胸を抱き、膝を交差させるが遅い。
出るところは出てしまってるし、ばっちり優斗に見られてしまっている。
裏を返せば、出ていないところは出ていなかった。
「それ、着といてよかったな」
視線を逸らした優斗が示したのは、水玉模様の可愛らしい水着だ。
これこそが日和の妥協案。優斗もタオルの下に、海水パンツを着用している。これもまた、うめがニコニコと対応してくれたおかげだ。
しかし、いくら隠れているとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「アイ、もう上がるよ」
「えーっ、パパきたばっかだよ?」
「のぼせちゃったらどうするの」
せかせかとバスタオルを巻きなおし、日和はアイの手を引いて風呂を出る。
すでにのぼせているのではないかと勘違いしてしまうほど、その顔は赤くなっていた。
「パパも上がるときは百数えなきゃだよ?」
「わかった」
「……絶対、こっち見ちゃダメだからね」
「わかってる」
それぞれ注意をされ、優斗はひとり浴槽に残った。
ようやく足を伸ばして楽な体勢を取れる。目を閉じて、身体の力を抜いた。リラックスした状況で湯船にたゆたう。
そうして研ぎ澄まされた五感が、扉を隔てた先の布が擦れる音を捉えた。
「ほら、ちゃんと身体拭かないと」
「ドライヤーすればだいじょーぶ!」
「あれは髪専用なの。肌にあてたら火傷しちゃうよ」
「あついのきらーい」
「ならタオルでゴシゴシしな」
いくらすりガラス越しとはいえ、異性の着替えを覗くのはいただけない。
日和にも念押しされたので、優斗はひたすらに壁を見ていた。
しばらくするとドライヤーの轟音が聞こえてきて、やっと気が楽になる。
身体は十分温まり、心も多少は休まった頃だ。
言いつけ通り百を数える。意外と長いカウントダウンが終わるのと、脱衣所のドアが開くのはほぼ同時だった。
「ちょうどいいな」
湯船を立つと、水着が肌に張り付いて気持ち悪い。
季節を先取りした不快感が、風呂場の扉をスライドする速度を早めた。
「なっ……!」
予想が外れ、まだ脱衣所に残っていた日和が声にならない声を上げる。
見る見るうちに顔が真っ赤になっていき、漆黒の瞳が途端に潤んだ。
「どうした、のぼせたのか」
「違うわよ、バカァ!」
投げつけられたタオルが顔面に直撃する。これを渡しに来てくれたらしい。
そのまま重力に逆らえず落下していき、視界が開けると日和の姿はなかった。
「なんだったんだ……」
もしかすると、優斗が意識せざるを得なかったように、日和も異性の肌に耐性がなかったのかもしれない。珍しく荒ぶった口ぶりからもよほどの恥じらいが感じられる。
それでも視線を逸らして我慢していたのは、アイを思っての行動なのだろう。
地面に落ちたタオルを拾い上げ、全身の水滴を拭き取る。
うめから借りた服を着て、ドライヤーで髪を乾かす間、理由なく笑みがこぼれた。
無償の愛が、優斗には眩しかった。
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