第5話 幼女は言った「やだやだやだやだ!」

 

 うめの案内で、優斗は応接間へと通された。

 観葉植物と木製の家具で構成された質素な部屋は、関係者からの寄付で成り立っていると聞く。

 日和も同席したがっていたが、子供の相手を任されてここにはいない。


「まず、アイちゃんの話をしなくちゃ」


 語られたのは、アイの悲痛な過去と複雑な現状だった。


 二年前に交通事故で両親を亡くしたこと。

 その影響で自分の名前以外の記憶を失ったこと。

 そして、母親の幻影を日和に重ねていること。


「相良さんのことを、アイちゃんはパパと呼んだのよね?」

「……はい」


 ここまで聞けば、話の流れは読めてしまう。


 つまりあれは、家族ごっこではなかったわけだ。

 現在、五歳のアイにとって、日和は母親以外の何者でもない。ママと呼んでいるのも遊びの一環ではなく、ただ母をそう呼んでいるだけにすぎなかった。


 血縁関係がない、年齢的にありえない。

 そんな常識など関係がない、家族関係がそこにはあった。


 ともすれば、パパという言葉の重みが変わってくる。

 日和が狼狽し、真剣だったのも今になって理解できた。


「改めて私からお願いするわ」


 これは、偽物おままごとではない。


「アイの父親になってくれないかしら」


 求められているのは本物かぞくだ。

 

 その証拠に、うめの表情から初めて笑顔が消えた。

 切なる願いが言葉に乗って、優斗へと届く。


「待ってください。いきなりすぎて、そう簡単に受け止められません。それに、あの子が本当に俺を父親だと思っているとは……」


 思わない、と思えなかった。

 

 あの日、アイは間違いなく優斗を父親だと認識し、パパと呼んでいた。

 なんとなく、わかってしまうのだ。向けられる視線や甘え方が、子が親に向けるそれだと感じられる。

 

「すぐにとは言いません。無責任にお願いできることじゃないもの。じっくり考えて、答えを出してくれて構わないわ」


 うめは再び穏やかな微笑みをたたえ、続けて口を開く。


「もちろん私たちもサポートしますし、お願いするのは一か月と少しの間です」

「期限付きなんですか?」

 

 途中で家族を放り出す、それこそ無責任で優斗には考えらない、考えたくもない話だ。

 優斗の心に刻まれた深く辛い過去が、無意識に強く拳を握りしめる。

 

「アイちゃんは特別な事情があって、来月の終わりに一度入院する必要があるの。それまで一緒に暮らしてほしい、というのが今回のお願いです」


 具体的に話を聞くと、サルビアの一室で生活を共にすることが主だった。


 朝起きて、学校に行き、自宅に帰る。といった一日の流れは変わらない。変わるのは、帰る家であり、一緒に住む人、それから関係性。

 優斗はアイの父親、日和はアイの母親、そして優斗と日和は夫婦になる。

 結婚届を出していないので法律上は他人だが、少なくともアイの前ではそういう関係を演じる必要があるだろう。


 要点はアイが入院するまでの一か月の間、彼女が求めている家族が必要ということ。

 それがたとえ偽物であったとしても。

 

「親御さんにも許可がいると思いますから、今日のところは家に帰って、ゆっくり話し合ってください。もしよければ、私からもお話させてもらうわ」

「いえ。俺は一人暮らしなので、そこは大丈夫です」


 優斗がどのような生活をしようとも両親は口を出さないし、心配される筋合いもない。

 一人だけ思い当たる身内もいるが、わざわざ連絡しても迷惑をかけるだけだ。


 すべては優斗の一存であり、だからこそ即断できない。


 自分の選択が、他人の人生に大きく左右する。

 ましてや家族など、一か月とはいえ荷が重い。


 いっそ断ってしまえれば気が楽かもしれない。

 しかしそれでは、残されたアイはどうなる。

 父親の幻影を探して優斗を求め続けるのか。それとも他の男をパパと呼ぶのか。

 どちらにせよ一度関わってしまった以上、放っておくのは苛まれる。

 

 日和のことだって気にせずにはいられない。

 クラスメイトという接点しかない優斗と、一時的に夫婦として同棲することになるのだ。それでもアイの家族になってほしいと頼み込むには、相当な覚悟が必要だったに違いない。


 軽はずみに、一時の感情で判断するには難しい問題だ。


「とりあえず、保留でお願いします」


 優斗の言葉に、うめは再び微笑みを返す。

 

「サルビアはいわゆる児童養護施設なの。それぞれ理由があってここにいる。私は子供たちを家族だと思っていますし、親がわりになれたらと努めています。でも、アイちゃんのように別の形で家族を求めている子供も大勢いるの」


 この応接間に移動する間。

 ほんの少しの時間で優斗は調べ物をした。


 尊敬、知恵、良い家庭、家族愛。


 今の話を聞いて、サルビアという施設名に納得がいった。


「いいお返事が聞けることを願っているわ」


 うめに頭を下げて応接間を出ると、扉の前で待っている人影があった。


「なんて答えたの?」

「返事は待ってもらった」

「そう」


 なんともいえない表情で、日和は長い黒髪の毛先に触れる。


「悪かったわね。こんなことお願いして」

「天瀬が謝る必要ないだろ」

「答えづらいでしょ。急な話だし、事が事だし」


 廊下を歩きながら、日和は謝罪の言葉を述べた。


「天瀬はなんでこの話を受けたんだ」

「私は……同じような境遇だったから。アイが母親を求めていて、私がその代わりになれるなら、断る選択肢はなかった」


 日和の過去は知らないが、少なくとも幸せな思い出ばかりではないと窺える。

 それと同時に、アイに対する並みならぬ想いも感じ取れた。


 それならば、自分がこの話を受ける理由はなにか。

 優斗が考えながら歩いていると、元気な声が近づいてきた。


「パパだ!」


 どーんっ、と足にしがみつくアイに、驚いた優斗はふらつきそうになる。

 

「おしごとおつかれさまー!」


 一瞬、なにを言っているのか理解できなかったが、昨日の別れ際を思い出す。

 アイからすれば、優斗は仕事帰りなのだ。あれから丸一日経っているので、これが本当なら相当ブラックな環境での激務だ。そもそも学生が夕方から仕事で帰ってこないなどあり得てはいけない。幸いと言っていいのか、アイはその違和感に気付くほど社会というものを知らない。


「ありがとう」

 

 お礼に頭をなでると、アイは嬉しそうに目を瞑った。

 もっともっとと言わんばかりに、自ら顔を押し付けてくる。

 

 まだ出会って二日だというのに、ここまで懐かれているのはやはり、アイが優斗を父親と認識しているからだ。

 そうでなければ、初対面時の人見知りが説明付かない。

 あの日、どこかできっかけがあって、アイは優斗をパパと呼ぶに至った。


「よく俺がいるってわかったな」

「ママがおしえてくれたー!」


 隣の日和に視線を向けると、言葉はなくアイコンタクトを返してくる。

 優斗がうめと話している間、アイに構っていたのだろう。

 仕事帰り、という設定もうまく話しているに違いない。


 だが、細かいところまでは気が回らなかったらしい。

 

「パパ、きょうはいっしょにいてくれる?」


 目いっぱい顔をあげ、アイは優斗に問いかける。

 

 まだ幼い子供が、仕事帰りの父に求めるにしては当然。

 それに応えられるほど、優斗はまだ歳を重ねていない。

 

「パパは今日も仕事があるんだって」


 助け舟を出したのは日和だった。


「だからバイバイしよ?」


 アイと目線を合わせ、優しく諭すように話しかける。

 子供を相手にするのが慣れているやり方だ。

 しかし、思い通りにいかないのもまた子供。


「やだっ! いっしょがいい。パパといっしょにいる!」

 

 アイは首を大きく横に振り、髪がバサバサと揺れ乱れる。

 

「わがまま言わないの」

「やだやだやだやだ!」

「私がいっぱい遊んであげるから、ね?」

「やーだっ! パパとがいーい!」

 

 こうなると歯止めが利かない。

 完全に駄々っ子だ。


「……どうしよ」

「いや、俺に聞かれても」


 今度は日和が助けを求めてくるが、優斗は子供慣れしているわけじゃない。

 地団太を踏み、今にも泣き出しそうなアイを前に時間だけが過ぎていく。

 挙句の果てに、「パパといっしょに寝る!」と言い出すのだから困ったものだ。


「相良さん、帰り道わかる?」

「行きと同じなら」

「じゃあ隙を見て帰って」

「いいのかよ。この子、ぜったい号泣するぞ」

「私がなんとかするから、気にしないで」


 なんとかする、と言っても具体的な策はないのだろう。

 泣き暴れるアイとその対応に奔走する日和、といった構図が容易に想像できる。

 それでも優斗を早く帰そうとする気遣いが見え隠れする。


 しかし、やだやだと駄々をこねるアイを尻目に帰宅するのは心が痛い。

 

 この場を収める方法はおそらく一つしかないのだ。

 

「ようは俺が泊まればいいんだよな?」

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