第2話 幽体離脱彼女 

     ※


 窓の外はすっかり暗くなっていた。スマホの時計は午後七時半を示している。


「本当に今日、待ち合わせたのかい?」

 カウンターの向こうから樋渡が声をかけてきた。

「さすがに自信がなくなってきました」

 約束の時刻からは、すでに一時間半が経過していた。


 もしかしたら、何らかの理由で遅れているだけかもしれない。

 もしかしたら、約束の時刻を勘違いしているのかもしれない。

 もしかしたら……。


 そう期待してずるずると待ってしまったけれど、ここにきてようやく、すっぽかされたのかもしれないな、と考えられるようになっていた。


 相手は高嶺の花なのだ。自分との約束なんて、他に用事が入れば真っ先にキャンセルされる程度の代物でしかないことは、最初から分かっていたことじゃないか。


 そして彼女には、待ち合わせに行けなくなったことを郡司に伝える連絡手段がなかった。

 大学では数回しかしゃべったことがなく、この喫茶店で会う約束をしたときも悠璃はバイト中でスマホを持っていなかったため、連絡先を交換できずにいたのだ。


 連絡がとれないことを理由に諦めることを先延ばしにしてきたが、もうそれも限界だった。郡司は期待することを止め、帰るために席を立とうとした。


 そのとき、ドアベルの音が店内に響いた。


 咄嗟に入口のドアを見やる。古めかしい店内とは異なり、デザインが比較的新しいそのドアを開けて店に入ってきたのは、スーツ姿の男だった。店内に知り合いを見つけたらしく、片手を上げて笑顔を見せている。

 当てが外れた郡司は、大きく息を吐いた。


 しかし、がっかりしたのは一瞬だった。

 スーツ男のすぐ後ろ。ドアが閉まる寸前にすっと店内に入ってきた人影があった。

 見覚えのあるその人影は、客もまばらになった店内を素早く見渡すと、郡司の席まで音もなく近づいてきた。


 御神楽悠璃だとすぐに分かった。

 白いTシャツにショートパンツという、社長令嬢らしからぬカジュアルな装い。上に羽織っているマウンテンパーカーがすごく似合っている。


 郡司はその姿に思わず見とれてしまった。悲しいかな、待たされたという不満よりも、約束をすっぽかされたわけではなかったという嬉しさが勝っていた。


 しかし、会えて喜んでいる郡司とは逆に、目の前に立つ悠璃の表情は硬かった。口は一文字に結ばれ、いつもの快活さがまったく感じられない。声を発せず、立ったまま郡司の様子を伺っている。


 もしかしたら待ち合わせ時刻に大幅に遅刻したことを気にしているのかもしれない。なるべく優しく聞こえるように気をつけて話しかける。


「どうしたの? とりあえず座ったら?」

 声をかけられた彼女は、閉じていた口を大きく開け、驚いたような、安堵したような、泣きそうな、そんな複雑な表情をした。


 そして、向かいの席に腰を下ろした悠璃は、

「郡司くんには、わたしのことが見えているのね」と言った。

 何を言われたのか理解ができなかったので返答できずに首をかしげていると、悠璃がまた不安そうな顔をした。

「郡司、くん?」

 同じ方向に首をかしげてくる。

「あ、いや、見えているよ。もちろん」

「ほんとに?」

「ほんとだけど……」

 それを聞いた彼女は、急にテーブルに突っ伏した。


「ちょ、ちょっと」

 驚いていると、彼女の方から「良かったー」というつぶやきが聞こえてきた。

 悠璃の様子を不審に思い、

「何? 何かあったの?」

 心配を口にする郡司に、テーブルから顔を上げた彼女が真顔で答えた。

「冷静に聞いてほしいんだけど」

「うん」

「たぶん、わたしのこの姿は、郡司くん以外の人には見えていないと思うんだ」

 二人は、しばらく無言で見つめ合った。

 先に耐えきれなくなったのは郡司の方だった。

「冗談、だよね」

 悠璃は首を横に振った。

「冗談でも、いたずらでもないの」

「僕以外の人に見えないって、それってどういう……」



 悠璃がさらりと重大発言をする。

「……は?」

「死んでしまったわけじゃないから幽霊ではないの。生きた身体は別のところにあって、意識だけ身体から分離して、ここにいるみたいな感じ」

「はあ」

「ちょっと、わたしがこんなに真剣に話しているのに、信じてくれないの?」

 郡司の反応のなさに気を悪くしたのか、悠璃が頬を膨らませたので、両手を振って敵対する意思がないことを示した。

「いや信じるよ。信じる、信じたい、けど……」

 目の前に座っている彼女のことは、現実に存在しているとしか思えないほど鮮明に見えている。この姿が自分以外の人には見えないと言われても、信じられるわけがない。


 幽体離脱だと悠璃は言う。普通に考えて冗談やいたずらのたぐいだろうが、彼女はいたって真面目で、とても人を騙しているようには見えない。もしこれが演技だとしたら、アカデミー賞の主演女優賞ものである。


 この不可思議な状況をどうしたものかと頭をひねっていると、カウンター越しに声をかけられた。

「郡司くん、郡司くん」

 カウンターに両腕を付いた樋渡が、眉をひそめてこちらを見ている。

 しまった。予想外のことが起き、つい声が大きくなってしまった。

「あ、いや、すみません。うるさかったですね」

 郡司はあたりを見渡し、軽く頭を下げた。

 しかし、樋渡は郡司の声の大きさを注意したいわけではなかったようだ。

「きみさ」樋渡が言う。


「さっきから、何を一人でしゃべっているんだい?」


「え?」

 慌てて向かいの席を見ると、悠璃がまだ頬を膨らませていた。彼女の存在を確認した後、樋渡に視線を向ける。


「まさか、思い人が来ないショックで頭がおかしくなったんじゃないだろうね。ほら、そんなに思い詰めなさんな。彼女が来ないのはたぶん何かの手違いだ。明日大学で会ったら聞いてみるといい。きっと来れなかった理由があるはずだよ」

 デートをすっぽかされた男を慰めるていでしゃべりかけてくる樋渡に、「いや待ち合わせの相手はここに来てますよ」と反論しかけたところで、ふとあることに気がついた。


 樋渡はしゃべっている間、悠璃の方に一切視線を向けなかったのである。そして、今も郡司の方しか見ていない。まるで、悠璃がそこにいないかのようなそぶりだった。


「もう郡司くんにしか頼れないの」

 悠璃の声が店内に、いや、たぶん郡司の耳にだけ響いた。彼女の方に顔を向ける。

「お願い! わたしを幽体離脱させた犯人を捕まえて!」

 悠璃はテーブルの上に置いてある郡司の両手に自分の両手を重ねようとした。


 しかし、二人の両手は互いにすり抜け、交わることはなかった。


                      第3話「体質か才能か」へ続く

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