幽体離脱の目撃者

くろろ

第1話 待ち合せの夕暮れ

「あいつら、断りもなくスマホで写真を撮るんだよ」

 店内にいる部活帰りの女子高生と思われる集団を見ながら、樋渡ひわたりれいが言った。


 焦げ茶色のシャツに黒のエプロン姿が様になっているこの男は、普段はカウンターの向こうにいることが多いのに、今日に限って郡司ぐんじたかしの座っているボックス席の隣に立っている。


「写真を撮るのに、樋渡さんの許可がいるんですか?」

 手に持ったスマホを気にしつつ、郡司が聞く。


「店の中やメニューを撮るのに許可はいらないけど、こっちにレンズを向けないでほしいね。その子のスマホに自分が写っていると思うとゾッとする」


 樋渡は、その端正な顔をしかめて見せた。郡司より一つ上の十九歳のはずなのに、落ち着いた物腰とユニフォームのせいでもっと年上に見える。女性なら被写体にしたくなる容姿といって良いだろう。

 ある理由で写真を撮ることも撮られることも好きではない郡司には、「はあ、そうですか」と気のない返事をするしかなかった。


 六月の土曜日。夕暮れ時のことである。


 郡司は喫茶店『クロスロード』でアイスコーヒーを飲んでいる。店内には土曜日だというのに女子高生の姿が目立つ。樋渡に理由を聞いたところ、店長特製スイーツの評判が口コミで広がっているからだと教えてくれた。口コミで広がっているのは本当にスイーツの評判なのだろうかと、樋渡の横顔を盗み見ながら思った。


「そんなことより――」

 樋渡がボックス席の、誰も座っていない郡司の向かいの席を指差す。

「きみのおもびとは本当に来るのかい?」


 郡司は気恥ずかしくなり、樋渡から目をそらしながらストローに口をつけた。

「思い人って、表現が古いですよ」

「表現なんて古くてもいいんだよ。大事なのは適切かどうかだ」

 樋渡は郡司の隣りに座り、ぐっと顔を近づけてくる。

「思い人という言葉には、密かに思慕しぼする人という意味がある。これから向かいの席に座る人は、郡司くんにとってそういう人なんだろ?」

 質問に答えないでいると、樋渡はにやりと笑った。

「苦節十八年。ようやく郡司くんにも遅い春がやってきたというわけだ。いやはや、感慨深い」

「……だから、ここで待ち合わせをしたくなかったんだ」

 郡司は深くため息をついた。


「そう言うな。店員と常連客の仲じゃないか。で、相手はどんな人なんだい?」

 樋渡がずけずけと聞いてくる。まあ、待ち合わせ場所にここを指定されたときから、こうなることはある程度予想していたことだ。郡司は下を向いたまま、小声で答えた。

「大学の同期ですよ。そんなに親しいわけではないんですけど、今日たまたま通りかかった店で彼女がバイトしていて、向こうが僕に気づいて声をかけてくれたんです。それで、一緒にご飯でも食べようかっていうことになって――」

「彼女から誘ってきたんだろ?」

「ええ、まあ。よく分かりましたね」

「性格上、きみから女性を誘うなんてことはありえないからね。そんなところだと思ったよ。それにしてもずいぶん押しの強い女性のようだね。うちの店を待ち合わせ場所に決めたのも彼女なんだろうし」

「そうなんです。彼女のバイト先がここから近いんで。本当は嫌だったんですけど」

「俺がいるから、だろ?」

 笑いながら樋渡が続ける。

「いいじゃないか。郡司くんには気の強い女性が似合うと思うよ。積極的に誘ってくるところを見ると脈ありそうだし、付き合ってしまえばいい」


 簡単に言ってくれるが、ことはそう単純ではない。


「彼女は誰に対しても積極的なんですよ。僕が特別ってことではないんです。今日だって急に思いついたって感じで誘われたし、しかも何か相談したいことがあるっていうじゃないですか。女性の相談に乗るなんて柄じゃないんで、実は気乗りしていないんです」

「相談に乗ってほしいなんて、女性から男性を誘うときの常套句じゃないか。察しないと」

「いやいや、彼女は僕のことなんて別にどうも想っていないんで」

「なぜそう言い切れる?」

「それは――」郡司が即答する。

「僕と彼女は、住んでいる世界が違うからです」


 樋渡が疑問符だらけの顔を見せたので、郡司は彼女、御神楽みかぐら悠璃ゆうりがどういう女性かを説明した。


 瑠璃るり色のつややかな長髪と人目を引く整った顔立ちの悠璃は、大学内でもひときわ目立つ存在だった。人見知りをせず誰とでも気さくに話す性格から、教室では彼女の周りにいつも人が群がっており、教室の前の方で一人でいることが多い郡司には、それを遠くから眺めることしかできなかった。


 これだけでも郡司とは十分不釣り合いだというのに、なんと悠璃は社長令嬢という属性も併せ持っていた。これはもう、まごうことなき高嶺の花というやつである。

 教室で話しかけられたとしても、休日に食事に誘われたとしても、それは高嶺の花の気まぐれであり、決して自分に気があるのではなどと勘違いしてはいけない。後で落胆することになるのは明白だからだ。


 郡司の話を笑うでも呆れるでもなく聞いていた樋渡は、「一つ教えてほしいんだけど」と質問をしてきた。

「そんな完璧な彼女が、郡司くんに何を相談しようとしてるんだい? 彼女の周りには、きみ以上に知識や経験の豊富な大人や友人がたくさんいるはずだ。それなのに、なぜ相談相手がきみなんだ?」

「それは、分からないですけど……」と郡司はいいよどんだ。


 確かにずっと気になっていることだった。こればかりは本人から聞いてみるほかないが、彼女と話した数少ない機会の中で、話題に出たのは郡司のとある『体質』についてのことだったから、相談内容はその『体質』に関わりのあることだと想像することはできた。


「どんな理由であれ、彼女はきみを相談相手に選んだんだ。他の誰でもなく、きみをだよ。もっと自信を持っていいんじゃないかな」

 樋渡に「はい」と返事はしたものの、一抹の不安は隠せなかった。


 悠璃と約束した待ち合わせ時刻は午後六時。手に持っているスマホの時計を見ると、午後六時五分と表示されている。彼女はまだ姿を現していなかった。


                      第2話「幽体離脱彼女」へ続く

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