回想⑪

 寒い冬の日だった。辻村は、母と手をつないで歩いていた。

 多分、保育園の帰り道だったと思う。冬だったと思い出せるのは、冷たい空気のことを覚えているからではなく、足元の草が枯れてアスファルトの上にだらしなく散らばっていたこと、空が白っぽく今にも雪が降りそうだったことを写真のように思い出せるからだ。

 なぜだろう、記憶の中の景色は、色や質感を鮮やかに伴っているのに、においや触感は抜け落ちている。

 空き地の側を通ったとき、辻村は有刺鉄線に何かがひっかかっているのを見つけた。それもひとつではない。数メートルおきに、いくつもあった。足を止めて覗き込むと、それはトカゲの干からびた体だったり、バッタの乾いたものだったりした。辻村は虫の類が好きな子供ではなかったが、それらは乾いて色を失っていて、生き物には見えなかった。精巧に作られたおもちゃのように見えた。

 辻村が不思議そうにそれらを見ていると、

「ああ、モズの早贄ね」

 と、母が言った。

「私が小さい頃は、木や草だったけれど。今では有刺鉄線なのね」

 母は、モズという鳥が食料を突き刺す習性があるのだと教えてくれた。けれど、そのほとんどは忘れられてしまい、食べられることなく朽ちていくのだとも。誰かに捧げられた、けれど受け取られなかった生き物たち。幼少期の辻村の目に、その光景は焼きつけられた。

 贄、という言葉は、美しいと辻村は思う。

 なぜなら、その言葉には敬意が込められているからだ。殺された物にも、その現象そのものにも、捧げものを受け取る尊い誰かにも。

 早すぎた贄は、誰にも受け取られることなく、意味をなすこともなく朽ちていく。けれど、だからこそ儚く、惹かれずにはいられない。

 自分がやっていることも、それに近いのかもしれない、と辻村は思う。

 辻村はコードを握る手に力を込めた。肉にコードが食い込む、嫌な感触がする。るり子の首がいっそう締まった。

 これは、るり子の望みだった。

『私の前から、全てを消して』

 辻村に、るり子の望みを叶えない理由はなかった。なにひとつ。

 ひゅう、とるり子の喉から細い音がする。るり子の目は見開かれ、手はコードを掻き毟っている。口は空気を求めて中途半端に開いていて、よだれがでている。辻村はその様子を、興奮を必死に抑えながら眺めていた。一瞬たりとも見逃さないよう、食い入るようにるり子の様子を観察する。ただひとつの表情も、仕草も忘れたくない。

 あのるり子が、自分の前であられもない顔を晒している。

 辻村は、るり子の顔に触りたい衝動を必死にこらえ、目の前のコードを引くことに意識を向けるよう努力した。さまざまな思いが、言葉にならないほどの速さで頭の表面を撫でるように過ぎていく。いとしいるり子。男に尽くし搾取され、人生を誤った愚かな女。自分のことを利用していたことを悪びれもしなかった、弱く卑怯で凶暴で、けれどどうしようもなく美しいるり子――。

 るり子の体が激しく痙攣する。その振動をコード越しに味わいながら、辻村は深く微笑んだ。不気味な泡のように、心の奥からぷつぷつと、快感が湧いて出てくる。細かい泡だった快感は、やがて沸騰した湯のように、ぼこぼこと音を立ててこみあがってきた。口から笑いが漏れ出る。

 るり子の紫色になった顔は、呆れるほど醜かった。

 るり子の体が動かなくなってからしばらくして、辻村はコードから手を放した。るり子の頭が、ボウリングの球を落としたときのような鈍い音を立てて、床に転がった。その目は見開かれ、二度と瞬きをすることはなかった。こと切れた体から、異臭のする液体が出てきていた。

 辻村は肩で息をし、そこで初めて、自分の全身が汗で濡れていることに気付いた。目に入った汗を手で拭う。

 大丈夫、るり子。

 心の中で呟き、辻村はふらふらと洗面所に向かった。汗まみれの顔を水で洗い、タオルでふき取りながら、鏡に映った顔を見る。

 くっきりした二重の下の、大きな瞳。すっと通った鼻筋。赤い唇。なにひとつ失われていない、美しい顔。

 ああ、るり子。いとおしいるり子。

 わたしはずっと、ずっと、愛するあなたになりたかったのだ。

 辻村は鏡に映った顔を、指でなぞる。

「…ここからは、わたしがあなたを背負ってあげる」

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