回想⑩
るり子がもう二日間、何も食べない。食欲がないのだと言う。
「おかゆならどう。何か入れないと」
辻村が食卓に土鍋を出すと、るり子はゆらりと近寄ってきて、その土鍋を床に投げつけた。重い土鍋がけたたましい音をたてて割れる。
「いらないの!余計なことしないで!」
るり子は心臓の奥から出したような叫び声をあげて、ばたばたと奥の寝室に戻ってしまった。
辻村は土鍋の破片を手で拾う。飛び散ったおかゆが熱く、一瞬手を引っ込めた。引っ込めるときに破片で指を切ってしまった。
血のにじむ指をくわえて、辻村は息を吐いた。
るり子は最近、感情の起伏が唐突で、以前にも増して不安定になっていた。
さっきのように急に激昂したかと思えば、数分後には泣き出してしまったりする。辻村が仕事から帰ってくると、床の上で丸まってぶつぶつと何かを呟いていることもあった。数日前は、辻村の前に跪いて泣きながら謝ってきた。浅賀を殺して逃げ始めてから三年半、その間るり子からは一度も感謝の言葉も謝罪の言葉もなかったし、期待してすらいなかったというのに。
浅賀を殺してから、るり子がかろうじて保っていた心は、まるで砂山の端をえぐったときのように、だんだんと、けれど確実に形を失い始めていた。ここまで急速に不安定になったきっかけは、顔を変えたことだったのだろう。顔を変えてから、るり子は明らかに外出しなくなったし、男と会うこともなくなった。ただ毎日毎日家の中で眠り、食べて、ぼうっとして過ごしている。
辻村は自分の顔に触れる。
あの胡散臭い外科医によって、るり子の顔は醜くなった。そんな彼女を、辻村はいっそういとおしく感じていた。なぜならこれでもう、るり子は外へ出て行って男を漁ったり、下卑た男どもから性的な目で見られたりすることがなくなったからだ。できることならるり子の体にいとも簡単に触れた男たちを全員殺してやりたいが、残念ながら辻村は男たちの顔も名前も知らない。知っているのは、夜遅く帰って来るるり子から立ち上っていた、情事の残り香だけだ。
土鍋の破片を片付け終わり、辻村は風呂を沸かそうと風呂場に向かった。バスルームの扉が閉まり、シャワーの音が聞こえていた。るり子が入っているのだろう。
辻村は扉を開けず、そっと脱衣所から出ようとして、その足を止めた。
水音が、単調すぎる気がしたのだ。シャワーキャップから出た水が、ざあざあとただ流れ落ちて、床にぶつかっているような音だった。
胸の中を、ぞわりとした予感が通り過ぎた。
辻村は扉越しにるり子の名前を呼んでみた。曇り扉の向こうに、動く気配はなかった。
辻村は迷わず扉を開けた。視界が湯気で遮られ、むっとした血の匂いが沸き立った。湯気が脱衣所に逃げて行った後、目に入ってきたのは、赤い水だった。
「るり子…」
手首を切ったるり子が、全裸で浴槽に浸かっていた。
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