回想⑦
るり子の顔や手に赤い腫れをみたとき、辻村はすぐさま病院に行こうと言った。
「大丈夫、痒くはないの」
そう言うるり子の肌には、花びらのように大小の赤い腫れが浮き上がっていた。よく見ると、腕や首にも腫れが出ていた。
他に痛みや腫れのある箇所はないのか、と辻村が尋ねると、るり子は「熱っぽくて、…」と後を濁した。
ともかく病院に行こう、と辻村はその日、るり子を引っ張るようにして病院に連れて行った。その日の仕事は、全て休んだ。
駅前の、けれどそこだけ開発からとり残されたような寂れた病院に行くと、真昼のせいか、待合室には誰もいなかった。緑のビニールソファーと新聞、小さなテレビだけが置かれた待合室で、辻村はるり子の診察が終わるのを待った。消毒薬の、清潔で鈍い刺激を持つにおいが、建物の中に充満していた。十五分ほど待つと、るり子がぐったりした様子で診察室から戻ってきた。
「どうだった?」
るり子は答えなかった。テレビから、昼のワイドショーが流れている。さて次はニュースです、というアナウンサーの凛とした声が聞こえた。辻村がなんとなく目をやると、ワイドショーの合間に場違いのように登場する、スーツ姿のキャスターが真面目な顔をしていた。
「今朝十時頃、林の中で人が倒れているという報道があり、警察官が駆け付けたところ、男性の遺体が発見されました。男性は三十代から四十代、黒いジャンバーを着ており――」
隣に座る、るり子の肩が震えた。辻村はテレビに近づき、チャンネルを変えた。チャンネルボタンを押したとたん、スピーカーからどっと笑い声が聞こえてきて、さっきまでの空気が押し流されていく。るり子がほっとした顔をした。
るり子は薬を受け取って、ほとんど無言のまま帰宅した。辻村が紅茶を二杯分淹れて、ひとつをるり子の前に置いたとき、ようやく重い口を開いた。
「あのね」
「うん」
辻村は紅茶を飲み、さりげないよう振る舞った。
「病院で、診察したら」
るり子は唇を噛んでから、小さな声で行った。
「梅毒、みたいだって。抗生物質で治るって」
辻村はるり子の沈鬱な顔を眺め、それから、アパートの外に目をやった。アパートの外では営業の外回りなのか、スーツ姿の男性が足早に行き過ぎ、その向かい側にはベビーカーを押す若い女性が歩いている。平日の昼間、ほとんどの人間が仕事をしたり家事をしたりしている時間に、今、自分とるり子は何もせずにいる。これこそが、世の中から見放されている存在だという証拠に思えた。
るり子に男がいるのは知っていた。それも、ひとりやふたりじゃないであろうことも、出かける頻度や服装で分かってはいた。それに口を出せる筋合いがないことも、よく分かっていた。醜く、何のとりえもない自分がるり子の隣にいられることは、もはや奇跡に近いのだ。
けれど、辻村はるり子の体を考えると、言わずにはいられなかった。
「…こんなことを続けていたら、体がもたない」
瞬間、るり子が顔を強張らせた。
次にるり子の顔に翻ったのは、激しい怒りだった。るり子の体の表面から、隠しきれない凶暴性が、ぶわり、と空間に滲み出た。るり子は気性の激しい人間だ。辻村はそれをよく知っていた。この荒々しさが、浅賀を刺し殺したのだろう。
美しい、と思った。
「辻村に、何が分かるの」
るり子の赤い唇から、自分の名前が発される。それだけで辻村は、首筋がぞくりとする快感を得た。
「私の苦しみの、やりきれなさの何が分かるの!」
るり子が紅茶の入ったマグカップを床に投げつけた。カップが硬い音を立てて砕ける。
「あんたは人を殺してない、恋人に弄ばれたこともない。私がどんなに辛いか想像できる?私はこれから一生、あの死体と逃げないといけない。辻村が私を見捨てても!」るり子が自分を睨みつける。「気晴らしするくらい、なんだって言うの。そのくらいしないと、頭がおかしくなりそうなのに!」
辻村は、誠意を込めた口調で、絶対にるり子を見捨てないと言った。しかしるり子は頑なに信じなかった。
「口ではなんとでも言える。私の苦しみは、私だけにしか負うことができない。辻村はいつでも逃げることができるけど、私にはできない。辻村と私は、選択肢があるかないか、決定的なところで違うのよ」
辻村の頭に、ある考えがひらめいた。
辻村は、自分が微笑んでいることに気付いた。ああ、そうだ、もしかしたら――るり子を、解放できるかもしれない。
「それが、望み?」
自分でも驚くほど柔らかい声が出た。るり子は、辻村の笑顔の意味が分からず、怒りを振り上げたまま行き場をなくし、途方に暮れた子供のような顔をしていた。
「それが、るり子の望みなら」
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