回想⑥

 私は、男の肩越しに、安っぽいピンク色の壁紙を眺めながら、そういえばこの男は何と名乗っていたっけ、とぼんやり考えていた。

 せわしなく動き、行為に没頭しながら勝手に呻いている男を無関心に見上げながら、私は男の名前を思い出そうとする。

 ジュンヤ、アキラ、マサトシ、それともユウキだったろうか。いずれにせよ偽名だから思い出したって何の意味もないのだが、意味がないと分かっていても、どうしてか男の名前が気になって仕方なかった。

 けれど名前が思い出せないばかりか、今、上にのしかかっているはずの男の顔も上手くとらえられない。

 見えているはずなのに、顔が意味のある情報として頭に入ってこないのだ。

 行為が終わり、男がベッドの上でいびきをかき始めた時、私はふと、いつからこの場所にいるのだろうと思った。

 いや、そもそもどうやってここに来たのだろう。歩いて、それとも男の車で?それすらも分からなかった。

 急激に不安になり、私は床に散らばった自分の服をかき集めた。

 男が寝ているうちに、ホテルの部屋を飛び出す。ホテルの中は窓がひとつもなく、今が昼なのか夜なのか分からなかった。

 急ぎ足で廊下を歩くうちに胸の中の黒い空洞が音をたててどんどん広がっていき、気づけば走り始めていた。

 ホテルのフロントを横切って外に出ると、太陽はまだ高い位置にあった。

 ほっとして、歩調を緩める。ホテルから離れ、大通りに出ると人通りが多く、妙に安心した。

 私は雑踏の中に紛れながら、携帯電話を取り出す。時刻は午後三時だった。

 朝、家を出たことは覚えているのだが、これまでの六時間近くの記憶が曖昧だった。過去の出来事がぷっつりと途切れてしまっている。

 疲れているのだろうか、と思いつつも、とりあえず何か飲もうと喫茶店を探す。

 近くに見えたチェーン店に入ろうとしたとき、携帯電話のバイブレーションを感じた。画面を見ると、男からメールが届いていた。

 約束の時間になったので、店の前で待っているという内容だった。

 私は首をかしげた。

 いつ約束をしたのか、覚えがなかったのだ。けれど男が示した場所はよく男と待ち合わせるのに使う場所だったし、男の馴れ馴れしい「ゆみちゃん」という呼びかけも、私が最近使っている偽名だ。約束をしたのは確かなのだろう。

 プールの中を、ゴーグルも着けずに進んでいるように、全ての輪郭がぼやけていて、足を前に出すのに抵抗を感じる。

 それでも私は、どうしてか約束を守らなければならないと一心に思った。

 守らないと、何かしないと、誰かに会わないといけない――。

 私は携帯電話を鞄にしまい込み、待ち合わせの店に向かった。


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