現在⑥

 姉が殺人を犯した容疑で捕まったと聞いたとき、弓子はあまり驚かなかった。ただ、やっぱりそういうふうにしか生きられなかったのか、と残念に思った。

 普通はそういう重大なことは警察からの電話や、親の口から重々しく聞くものなのかもしれない。

 けれど弓子が最初にその知らせを耳にしたのは、大学の構内にある古びた食堂だった。

 午後二時、すでに午後の講義が始まっていて人もまばらな食堂で、誰も関心を向けていないようなテレビ画面をなんとなしに見ていると、突然、姉の名前がテロップに出てきたのだ。

 姉の住んでいた部屋から、遺体が押収されたのだという。

 死体遺棄の容疑で現行犯逮捕、殺人の容疑もかかっている、とニュースのキャスターが無表情に伝えている。

 足元から、大量の水が出ていくような感覚がした。


 ああ、やっぱり、お姉ちゃん――。


 十年近く会っていなくとも、姉の顔ははっきりと思い出せた。最後に見た姉の表情は、狂気をたたえていた。

 私は、この家の人間をゆるさない。

 呪いをかけるようにそう言い残して、姉は家を出ていき、二度と帰ってこなかった。

 自分で奨学金を申請して、大学に行ったのだと親戚が噂しているのを聞いた。姉らしいたくましさだと、半ば感心した。

 姉は義父にレイプされていた。義父は隠しているつもりだったようだが、壁越しに伝わる異様な気配は、姉が中学から高校を出るまで、ずっと続いていた。

 母がそれに気付いていなかったはずがないが、義父をとがめる様子はなかった。

 姉は美しい人だった。

 身内のひいき目を排除しても、姉は、よく通った鼻筋に白い肌、大きな瞳をしていて、とても美しかった。

 思うに、母は、姉を娘ではなく、女として見ていたのだろう。母は、自分の男を寝取った女を憎んでいた。

 最初の頃は無理やり笑って家庭を維持しようとしていた母だったが、だんだんと姉だけを無視したり、姉の食事に洗剤を混ぜたりするようになった。

 対照的に、弓子のことを目に入れても痛くないほどの勢いで可愛がった。いや、正確には、可愛がるふりをしていた。

 弓子は毎朝、学校に行く前に上機嫌な母から髪を結ってもらったのを覚えている。遠足や修学旅行の度に、新しい服を買い与えられた。

 弓子ちゃんは、青が似合うわねえ。

 そう言って母は、姉に見せびらかすように、弓子を居間の姿見の前に立たせた。その横を、姉が無表情に横切っていくことが何度もあった。

 当時の姉は、高校の制服を買ってもらえなくて、丈の合わなくなった中学校のセーラー服の上に、毛玉だらけのカーディガンを羽織って学校に行っていた。周囲と違う制服を隠したかったのだろう。

 金銭的に苦しかったわけではない。母は、姉に最低限のものしか買い与えなかったのだ。

 弓子は、ひたすら見ないふりをし続けた。夜ごとに漏れてくる泣き声とうごめく気配も、母が姉を空気のように扱うさまも、義父のわざとらしい優しさも、全て見ないようにして、幸せであるかのように振る舞い続けた。

 そうすれば、いつかは嘘が本当になるような気がした。休日の度に義父は家族みんなを連れてテーマパークに行き、キャンプに行き、博物館に行き、家庭が円満な様子を周囲の人に自慢した。

 その破綻した家族ごっこは五年以上続き、そうして、姉は心の中に化け物を飼うようになってしまった。

 義父は数年前に母と離婚し、他人となっていた。義父は姉がいなくなってすぐ、外に女を作っていた。その女が妊娠したので、離婚したいと言い出したのだ。母は拒否したが、義父が女を家に連れ込んでくるようになり、泣く泣く離婚を承諾した。

 母は見ていて見苦しいほど取り乱していたが、弓子にとってはもともと他人、むしろ気味の悪い同居人がいなくなって胸をなでおろしていた。

 母はおそらく、子供を産み、親となるべき人間ではなかったのではないかと、弓子は思う。

 母の最優先事項は常に自分自身であり、自分を愛してくれる男にあった。弓子は母に溺愛されたが、それはおそらく、姉へのあてつけであったのだろう。親として重要なはずの、人生で肝心となる進路や金銭的な相談には乗ってくれなかった。

 あなたの人生だから、と母はよく口にした。あなたの人生だから、なんとかしなさい。


 大学の食堂でニュースを見た日、家に帰ると、母が無表情な顔をしてリビングにいた。

 テレビをつけるでもなく、料理をするでもなく、けだるそうにソファに深く腰掛け、目だけを動かして弓子を見た。


 あの子、人を殺したって、電話があった。


 ぼそぼそと言う声には、ほとんどの無関心に、若干の煩わしさが混ざっていた。

 それを聞いて弓子は、今も母が、姉に娘としての愛情を持っていないことをひしひしと感じた。

 母は姉が出て行った後、行き先を探すこともしなかった。もう十八歳だから、好きにやればいいと本気で言っているようだった。

 だから、弓子も母も、姉がどこで何をしているのか、全く知らなかったし、連絡する方法もなかった。過去に姉の住民票をこっそり取り寄せようとしたことがあったが、住民票はすでに移動していた。しかもその書類が母に見つかり、顔の形が変わるほど平手で殴られた。

 以来、母の機嫌が悪くなるので、弓子も積極的に姉を探そうとはせず、もう、姉のことはいなかったものと思おうとしていた。

 その、十年以上会っていない姉が、殺人を犯した。

 弓子は後悔していた。

 自分が臆病で、わが身可愛さに姉への暴力を見ないふりをしてしまったから、自分だけは母に好かれたいと思っていたから、姉は居場所をなくし、間違った方向に進んでしまったのだろう。

 姉がどう生きてきて、何を思い、なぜ人を殺したのか。遺体と四年も暮らしていたのか。知りたい、と思った。


 数日後、弓子は警察書に向かった。

 姉の弁護士だという人に頼んだら、血縁だというだけですぐに面会の手続きをしてくれた。血がつながっているということは、実際の信頼関係がどうあれ、こんなにも重要視されるのかと不思議な気持ちがした。

 姉は、面会を断らなかったのだという。

 入ってすぐのカウンターで名前と要件を言うと、カウンターの向こうから警官が寄ってきた。


「藤岡さんですね?」

「はい」


 その警官に案内されて、弓子は建物の奥へ導かれた。警察署の建物は古く、壁のところどころがはげている。壁がモノタルなのか、靴音が妙に響いた。

 薄暗い、圧迫感のある灰色の廊下を進むうちに、弓子は心細くなっていった。

 十八歳の頃、全てを恨みながら姿を消した姉に、許されないと分かっていても謝りたかった。姉を理解したかった。

 けれど、この廊下はまるで永遠に続いているようで、弓子の知る姉には会えないような気がした。

 義父が家にやってくるまでは、歳が離れていることもあって、弓子は姉にかわいがってもらっていた。仲のいい姉妹だったのだ。


「こちらです、どうぞ」


 示された扉を開けると、部屋の真ん中に、そっけない椅子がひとつ置いてあった。椅子の向こうには、透明な仕切りをひいたカウンターがある。カウンターの向こうには扉があった。

 弓子が椅子に座ると、ほどなくして、向こうの扉が開いた。

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