回想④

 妻が浮気に気付いている、とベッドの中で木内に言われたとき、私は何も思わなかった。

 朝にスズメがさえずっている、空から雨が降ってきた、そのくらい平坦な気持ちで、「ふうん、そうなの」とだけ言った。

 正直、私は木内そのものには興味がなかった。木内は、いくらでも代わりのある精神安定剤でしかないのだ。

 続けて木内が妻との離婚を匂わせる話をし出したとき、私は率直に、面倒だな、と思った。

 こういう関係に慣れていそうなずるい男に見えたから関係を持ったのに、どうしてこういうところだけ感情的なのだろう。


「君に、他に男がいるのは分かっている。家に招いてくれたこともないしね。けれど、こんなに一緒にいたいひとは初めてなんだ。もっと君のことが知りたい」


 その言葉は、過去に妻にも言ったのだろうなと思った。

 いつもそうだ。男は、簡単に初めてだと嘘をつく。

 これこそが本物だ、永遠だと有りもしないことを言う。自分の言ったことに責任も持てないくせに。

 浅賀を思い出す。今、冷凍庫に入っている肉塊の浅賀ではなく、私を女として喜ばせ、愛しているように見えた、生きている頃の浅賀だ。

 彼も同じようなことを言って、私の心を巧妙に繋ぎ止めていた。

 先の見えない関係に疲れ、大切にされない自分に嫌気がさし、何度も別れようとした私にすがり、なだめ、同情心と母性本能をくすぐり、なし崩しに最後だからと体に訴えかけた。

 浅賀は結果的に、私を都合のいいように操作していたのだ。


「だから、ちゃんとしようと思うんだ。幸い、僕には子供がいないし」


 ああ、なんて煩わしい。

 私は木内の上にのしかかって、唇を塞いだ。そういうのは、もうたくさんだった。私が欲しいのは安心感と快楽だけだ。

 それ以上のものは、男に期待しないと決めた。


「ねえ、したいの」


 甘えた声を出すと、木内はだらしない顔をした。その日の木内は、盛りのついた犬のように、何度も求めてきてしんどかった。


 私は木内に見切りをつけた。木内との関係を終わらせるのは、とても簡単だった。

 携帯電話の連絡先を消し、待ち合わせに使っていたコーヒーショップに行かないようにすればいいだけだった。

 所詮、それだけのつながりだった。

 木内と会わなくなって、私は家でひとり、昼間の時間を過ごすようになった。

 テレビ画面に映っているワイドショーを聞くでもなくぼんやり眺めながら、ソファーに身を沈めていると、自分の末端から冷たくなって、動くのがおっくうになっていった。そのうち、体が腐っていく気がした。

 体の真ん中で、心が、だんだん小さくなって、淀んでいく。窓の隙間から、半開いたドアの向こうから、絶望がひらり、とやってきて足元からしみ込んでいく。

 私はその絶望をよく知っていた。

 浅賀が生きていた頃、浅賀が妻子のいる家に帰った後、ひとり部屋に残されているときに現れた。会社で同僚から嫌がらせを受け、食事を作るのも面倒になった雨の日の夜にも現れた。

 絶望は、弱く柔らかくなった心を吸い取っていくのだ。

 私は、自分に何が足りないのかをよく知っていた。

 男の硬い胸板や出っ張った喉仏、力強い腕を思い浮かべる。

 自分が寄りかかったら受け止めてくれる、あたたかい体。私を美しいと認め、欲しがってくれる言葉。辻村では決して埋めることのできない、「誰かに愛されること」。

 本当の愛情でなくても、そう見せかけることのできる関係であれば、構わなかった。

 木内と会わなくなって数週間後、私は、ぼかした顔写真と偽名で出会い系サイトに登録し、名前も知らない複数の男と会うようになった。

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