回想③

 私と辻村は、保証人のいらない賃貸の部屋を探して住みはじめた。

 辻村の生活は規則正しい。

 朝六時に起床し、ふたり分の朝食と自分の弁当を作る。朝食をとりながら、テレビと新聞をチェックし、八時に近くのスーパーマーケットに向かう。

 辻村は引っ越してすぐから、レジ打ちのアルバイトを始めていた。レジ打ちを開店後の朝九時から夜七時までした後、一度帰宅し、私と夕食をとる。夕食後、少ししてからまた出かけていく。九時から深夜二時まで、居酒屋のホールスタッフをしているのだという。

 辻村は、長くこの地域に住むつもりはないようだった。いずれ引っ越すための資金を、少しでも早く貯めようとしているようだった。

 最初の二月ほどは、辻村が昼も夜もなく働いている間、私は冷凍庫の死体と過ごした。

 何もする気になれなかった。引っ越しをして知らない街に来たことで、おそろしい記憶は急速に過去になりつつあったが、もう取り返しのつかないことをしてしまったのだという意識が食事をしていても眠っていても排泄をしているときでさえ付きまとってきて、私の気力を奪っていた。

 辻村は、私に働けとは言わなかった。

 いつもそうだ。辻村は、私が望まないことは言わない。

 ある日、ふと思いついて冷凍庫を開けると、そこには、食品用のビニール製ジッパーに詰められた大量の肉塊があった。

 骨ごと細断されて二十センチほどになった肉は、もはや浅賀の体とは思えなかった。ただの豚肉なのではないのかとさえ思えた。

 なんだ、全然怖くないじゃない。

 思わず笑ってしまう。

 ただ、奥にしまってある頭部と胸腹部が目に入ったとき、あまりの生々しさに産毛が逆立ち、慌てて冷凍庫のドアを閉めた。

 この死体がある限り、私は決して自由になれないのだと思った。冷凍庫の中から、絶望が噴き出してくる。

 死体がここにあるから、浅賀のことは家出人とでもされたのか、ニュースにもならずに済んでいる。

 けれど、辻村が一時隠してくれても、死体そのものを消すことは難しい。埋めても沈めても燃やしても、いつ見つかるかとおびえて生きなければならない。

 この死体は、これから先の私の人生に、ずっとつきまとってくるのだ。


 全て、なかったことにしたかった。


 私は、目の前の現実を忘れるために、重い体をひきずるようにして、外に出るようになった。近くの公園に、カフェに、デパートに、辻村がいない昼間、行くあてもなく歩き回った。

 一番気持ちが楽になったのは、デパートだった。

 色んな年齢の人たちが、商品や、それを使う未来に目を輝かせている中に入ると、自分も彼らの一員になれるような気がした。つまり、明日も明後日も同じような日々があって、化粧品や服やストールを使いながら暮らす生活を持っている人間に。

 好きなブランドの鞄をショーウィンドウで眺めているとき、会社勤めをしていた頃を思い出した。夏のボーナスが出ると、自分の月給の二倍もする鞄を買いに行った。

 あの頃は、会社でストレスに晒され、買い物をすることだけが楽しみだった。誰も私の話を聞いてくれず、毎日、私以外誰もいない部屋で鬱屈とした思いをやり過ごすしかなかった。

 けれど、ブランドショップの店員は、いつも私の話を熱心に聞き、私の言ってほしいことを言ってくれた。――それは大変ですねえ、自分にご褒美をあげてくださいね。

 自分にご褒美を。

 今、この状況こそ、私が人生で直面している最も大きなストレスではないかと思った。

 振り返ってみれば、会社で受けていた心無い言葉や陰口など、きっと他の多くの人が受けている程度のものでしかなかったはずだ。

 今の私のように、愛人生活に疲れ果て、恋人を殺し、死体を持ったままこそこそ生きていることに比べれば、本当にちっぽけな負荷だった。

 私はブランドショップの店内にふらりと入った。

 美しい色や形をした鞄が、美術品のように仰々しく棚に置かれ、柔らかい光に照らされている。髪をきっちりまとめた店員が微笑みを浮かべながら近づいてくる。

 私は鞄をひとつ指さし、見せてもらうよう頼んだ。手袋を着けた店員の手から鞄が渡され、持って鏡を見たとたん、ああ、これだと思った。

 なめらかな皮の質感、光沢を持った明るいオレンジ色、シャープなのにどこか優しい丸みを帯びた形。

 ブランド物を手にしたときにしか感じられない、自分がレベルアップしたような昂揚感が込みあがってくる。

 これこそ、今の私のご褒美にぴったりの鞄じゃないか。

 私は迷わずその鞄を購入した。会計は三十万だった。その日の夜、鞄を見た辻村は、やはり何も言わなかった。


 鞄を購入した後から、私は入念に化粧をして、お気に入りの服を着て出かけるようになった。

 せっかくいい鞄を買ったのだから、相応の格好をしなければいけない気がした。

 オレンジ色の鞄を持つだけで、心が軽くなった。冷凍庫の中身が少しだけ遠のくような感覚になった。

 考えてみれば、隠れる必要なんて全くないのだ。

 浅賀の死体が見つからない限り、浅賀は殺されていないことになる。家出人の浅賀と、私の捜査が直結するほど警察が暇だとも思えない。

 コーヒーショップのカウンター席で、新商品だという妙に甘いフラペチーノを飲みながら小説を読んでいた時、「あの、あなた」と横から声がした。

 少しの間、自分が話しかけられたとは気づかなかった。

 小説の文字から顔をあげて見ると、隣の席に、四十歳くらいの男が座っていた。

 着ているスーツは質が良さそうに見え、腕時計も名の知れたブランドのものだった。営業の外回りの途中なのか、社員証を裏返しにして首から下げていた。


「今、お時間いいですか」


 男ははきはきと喋る。社会的地位のある人間が持つ、自信とはりのある空気を持っている男だった。

 本を読んでいる人間に向かって、時間もなにもないだろうと思って黙っていると、男は親しげに笑いかけてきた。


「急に声をかけてしまってすみません。あなたの横顔が綺麗だったので、少しお話をしたくて」


 言い慣れているのだろう、男は歯の浮くような台詞をさらりと言った。私ももう十代の娘ではない、そこに気付いたからといってどうということもない。

 男に声をかけられるのは久しぶりだった。浅賀と付き合っていた頃は、身も心もぼろぼろになってして、それが表に出ていたのだろう、声をかけられることもなかった。

 最後に見知らぬ男とデートしたのは、二十代の半ばだろうか。


「ありがとう。いいですよ」


 余裕があるように見えるよう、わたしはたっぷり微笑みかけた。

 男の話は面白かった。会社のこと、最近行った飲食店のこと、映画のこと。

 一時間ほど話した後、男はこれから店舗に訪問しなければならないのだと言った。


「また会えますか?」 


 私は少し考えてから、こう答えた。


「私はこの店によく来ます。時間が合えば、また」



 男は、木内といった。木内は真っ当な世界の住人に見え、私は木内と会うことで現実から目を背けることができた。

 コーヒーショップで何度か会っているうちに打ち解け、知り合ってから一か月ほどで木内と関係を持った。

 ホテルに入る一瞬だけ、今このときにも働いている辻村のことがちらりと頭をよぎった。

 私のために死体を隠し、仕事も家族も捨てた辻村を裏切っている、と分かってはいた。

 辻村は多分、私を愛している。

 けれど私は、そのことを自分の心の中から追い出した。正直なところ、私は欲求不満だったのだ。

 二十代になってから、男が切れたことはなかった。浅賀の愛人をしていたときでさえ、他の男とも同時に付き合っていたこともあった。

 この私が三か月以上も性交渉を持たないなんて、耐えられたのが不思議なくらいだ。

 木内は女の扱いが上手かった。私は、久しぶりの男の肌を思うさま味わった。人の肌がこんなにも安心することを忘れかけていた。

 男の体は、私の中にある虚無を埋めてくれる。つながっているときだけ、自分が必要とされ、価値ある存在だと思うことができる。

 木内は既婚者だった。行為の後に打ち明けられても、私は気にしなかった。

 しかし木内はこの日から、私にいろんなものを買ってくれるようになった。木内の罪悪感がそうさせているのだと分かっていて、私は木内にいくつもの服や靴や鞄をねだった。そうするのは多分、木内の望みでもあった。

 自分に叶えられる範囲の願いを口にする女は、御しやすいと思ったはずだ。

 急に高価なものを持つようになった私のことを、辻村が不審に思わなかったはずがない。

 私が前の街から出るときに引き出した金がそんなにないことも、当然分かっていたはずだ。何よりも、めかしこんで出かけたり、外泊したりするようになっていたので、男ができたと分かってはいただろう。

 けれど辻村は、私を責めたり諌めたりしなかった。

 ただ、外泊すると朝まで起きて私のことを待っているようだったので、それに気づいてからは、外泊はしないようにした。

 辻村は私を愛していながら、決して、私にそれを言わない。触れようともしない。

 ただただ、毎日働いて、金を貯めていた。

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