幕間 聖皇女フィオナ、帝城前にて
フィオナは走り出す馬車を遠くに見て、口元に微かな笑みを浮かべた。
本当は御者も必要だと泣きつかれることを期待していたのだが、どうやら自分で動かせたか、アミュに頼ったらしい。少し残念だが、仕方ない。
城門の向こうは、慌ただしそうな様子だった。
きっと生き返った兵たちが混乱しているのだろう。
さて、どうやって城内へ戻ろうか。
破壊された城門を元通りにされるなど、想定していなかった。当然、今は閉まっている。声を上げたとしても、混乱している中の兵に聞こえるだろうか――――。
「フィオナ」
ぼんやりと考えていると、地の底から響いてくるかのような低い声が、どこからともなく聞こえた。
「ソノヨウナ場所ニイテハ、危険ダ。我ガ、城内ヘ戻シテヤロウ」
いかにも恐ろしげだが、フィオナにとっては幼い頃から慣れ親しんだ声だった。
序列一位にして、最初の聖騎士。
心配性なところだけが、玉に瑕だ。
フィオナは目を閉じながら、やや煩わしそうに声へ答える。
「もう少し、ここで夜風に当たっていたいのです。賊が現れた際には、お願いします」
「……少シダケダゾ。アマリ長クイテハ、風邪ヲ引ク」
フィオナは、夜空を見上げた。
よく晴れた、気持ちのいい春の夜だ。
セイカと共に、かつてこんな夜空を眺めたことがあった。
もちろん、それは実際にあった記憶ではない。
幼い頃に視た、ありえたかもしれない可能性の未来の一つだ。
太い運命の流れではなく、蝶の羽ばたき程度のきっかけで変わってしまった、儚い未来。
フィオナは、溜息と共に言う。
「あの時は焦りました。余計なことをするのはやめてください……セイカ様でも、あなたのような存在にまで容赦されるかはわかりません。まだ、あなたを失うわけにはいかないのです」
「オ前ハ、何ガシタカッタノダ」
「セイカ様に、最初の提案に乗っていただきたかったのですが、無理でした。さすがに交流の期間が短かすぎましたね。あのまま退いてくだされば、すべてを丸く収めることができたのですが……仕方ないです。でも最後には信用してもらえたようですし、用意した逃亡先にも向かってくれましたから、よしとします。うふふっ、少しばかりの意地悪もできましたしね」
「今夜ハ、オ前ガ動カナケレバナラヌホドノ、大事ダッタトイウコトカ」
「ええ」
「……アレハ、何者ナノダ?」
聖騎士が、険しい声音で訊ねる。
「アレホドノ存在ヲ、我ハ知ラヌ。コノ無駄ニ生キナガラエタ生ノ記憶ノ中デモ、ハッキリト隔絶シタ、強者ダ。尋常ナ者トハ、思エヌ」
「
聖騎士の問いに、フィオナは短く答える。
「魔王、様、ダト……? 確カニ、ワズカニ魔族ノ気配ガシタ。ダガ……」
「あなたの知る魔王でも、あれほどの強さは持っていませんでしたか?」
「……アア、ソノ通リダ」
「なるほど。やはりセイカ様は、特別に強きお方のようですね」
「……ナゼ、嬉シソウナノダ」
「言っておきますが、セイカ様の強さの理由は、わたくしにもわかりませんよ。わたくしは未来は視えても、過去は視えませんから」
「アノ者ハ、初メカラアアダッタノカ」
「わたくしの知る限りでは、そうですわね」
かつて視た未来の中では、今よりもずっと年若い頃に出会ったこともあった。
その時ですら、セイカは変わらずに強かった。
特別な何かを学んだり、修業をしているような場面は一度も視たことがない。
「……ワカラヌ。アレハナゼ、勇者ヲ守ロウトスル。ソレモ、コノ国ノ城ニ攻メ込ンデマデ。魔王ガ勇者ヲ助ケルナド、聞イタコトモナイ」
「それは」
「待テ、言ウナ……! ワカッタゾ」
「……?」
「我モ、人間ノ国デ過ゴシテ長イ。コレクライノコトハ、察シガ付ク……アヤツラハ、恋仲ナノダロウ。ソウニ違イナイ」
「……は? 何を言っているのですか、あなたは」
フィオナは冷め切った口調で言う。
少しばかりの不機嫌さも混じってしまったが、これは寒さのせいだ。
「呆れました。まさかあなたが、そんな町娘のようなことを言い出す日が来るとは」
「ム……デハ、ナンナノダ」
「親しい人だったからですよ」
「……ソレダケカ?」
「そうです。あの方は、親しい者ならば誰だって助けます。自らの従者でも、学友でも、兄弟でも両親でも……きっとわたくしのことだって、同じ状況になれば助けてくれたはずです。ぜったいそうです」
「願望ガ混ジッテイル、気モスルガ……」
最初の聖騎士は、戸惑ったように言う。
「俄ニハ、信ジラレン。アレホド隔絶シタ強者ガ、ソノヨウナ慈悲ノ心デ、動クモノカ。マルデ、普通ノ人間ノヨウナ」
「セイカ様は普通の人間ですよ」
「アリエン……ソノヨウニ言エルノハ、オ前ガアノ者ノ持ツ力ヲ、真ニ理解シテイナイカラダ。我ハ、ヒタスラニ恐ロシイ……カツテ勇者ト相見エタ時モ、コノヨウナ感情ヲ抱イタコトハ、ナカッタ。アノ者ハ、恐ラクコノ世界スラ、容易ク滅ボセルダロウ」
「そうですか。でも、セイカ様はそのようなことはなさらないでしょうね」
「ナゼソンナコトガ、言エル? オ前ハ、アレノ何ヲ知ッテイルノダ……。アノ者トノ未来ヲ数度視タ程度デ、何ガワカル」
「わかりますよ。数度どころではありません……幼い頃は、何度も何度もこの力を使い、あの方に会おうとしていたのですから」
今でも、よく覚えている。
幼少期に、淡い憧れと共に目に焼き付けた、儚い未来の日々を。
「うふふっ。セイカ様は――――」
フィオナは、どこか自慢げに笑う。
あの人は、いつでも優しく、強かった。
優しく、強いがゆえに、最後はいつも苦しんでいた。
優しさゆえに、力を振るわざるを得なくなる。
たとえ、その先に破滅が待ち構えていると知っていても。
だから――――自分も、強く生きようと決めたのだ。
まだ視たことのない、セイカにとっても帝国にとっても、最良となる未来を目指すために。
「――――そういう、優しい方なのです」
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