第十八話 最強の陰陽師、助け出す
城内の一画にある、一つの塔。
その地下へ続く階段を、ヒトガタの明かりで照らしながら、ぼくは静かに降りていく。
式神を放った時点で見張りすらいないのは気になったが、まあいい。都合がいいことには違いない。
やがて階段を降りた先に、その地下牢はあった。
ずいぶんと広い。場所が場所だけに、きっと普通の囚人を入れる牢ではないのだろう。
ぼくは檻の鉄格子へ不可視のヒトガタを飛ばしながら、中で膝を抱えてうずくまる少女へと声をかける。
「アミュ」
毛布を被った制服姿のアミュが、顔を上げた。
「え……? セ、セイカ?」
「無事かい? 助けに来たよ」
微笑と共に、ぼくは貼り付けたヒトガタの上から鉄格子へと触れていく。
金の気によって生み出された
アミュが目を丸くして言う。
「な、なんで……? どうして、あんたがここに……」
「言っただろう、助けに来たんだよ。さあ、逃げよう」
ぼくが軽く笑ってそう言うも、アミュはまだ戸惑っている様子だった。
「あ、あんた、どうやってここまで入って来たわけっ?」
「あー……ちょっと、無理矢理ね。ぼく強いんだ。知ってるだろ?」
「は、はあ? な……なに考えてんのよ! あんた、そんなことしてどうなると思ってんの!?」
「……」
「逃げようって、逃げ切れるわけないじゃない! それに、こんなの……あんただけじゃなく、あんたの家族にも迷惑がかかるかもしれないのよ!? 最悪、領地を取り上げられたりとか……」
「アミュ……これは、君の命に関わることなんだぞ」
「そっ……そんなのわかってるわよ! あ、あたしは、大丈夫だから!」
アミュがそう言った。
それが精一杯の虚勢だということは、すぐにわかった。
微かに震える声で、アミュはまるで自分に言い聞かせるように続ける。
「あたし、なんにもしてないもん! 魔族なんて知らないし、きっとわかってもらえる! すぐ出られるはずだから!」
「……」
「だから……あんたが逃げなさいよ! なにやらかしたんだか知らないけど、まだ夜だし、きっと誰がやったかなんてわからないわ。だから、今のうち」
「……」
「学園で待ってて。あたしも、ぜったいすぐに帰るから。ただの平民にいつまでも構っていられるほど、お貴族様もきっとヒマじゃないわよ!」
強がるアミュの、無理矢理作った笑みを見て、ぼくはわずかに目を閉じた。
それから、静かに言う。
「そうはならないんだ、アミュ」
「え……?」
「君は勇者だから」
「ゆ……勇者?」
「そう」
ぼくは続ける。
「おとぎ話の勇者だ。数百年に一度、魔王と共に転生する、人間の英雄――――今回の勇者が君なんだよ、アミュ」
「そ、そんなの……」
「ただの平民じゃない。君には殺される理由があるんだ。力を持つ者は、そうでない者たちから恐れられ、疎まれ、排除される。いつの時代でも、どんな世界でもそうだ」
「……」
「逃げよう、アミュ。ここにいたら謀殺されてしまう」
目を見開き、言葉を失っているアミュに、ぼくは笑顔で手を差し伸べる。
「ほら、早く行こう。夜が明ける前に……」
その時。
ぼくは不可視のヒトガタを、通路の先に広がる闇へ向けた。
《火土の相――――鬼火の術》
燐の燃える青い火球が飛び、暗い地下を照らす。
それはどこへも届かず、空中で風の魔法により迎え撃たれた。
砕け散った燐の核が、通路のあちこちで小さく燃える。
その儚い炎が浮かび上がらせる人影へ、ぼくは声をかけた。
「やあ、兄さん」
グライは険しい表情で杖剣を構えたまま、何も答えない。
ぼくは、思わず苦笑しながら言う。
「ずいぶん早い再会になったね。参ったなぁ、ここで兄さんに会いたくはなかったんだけど……。でも、仕方ないか。決闘でもするかい? たしかまだ、約束を果たせていなかったよね」
グライは、ぼくの問いには答えなかった。
ただ張り詰めた声で言う。
「セイカ、お前はいったい……」
「その必要はありませんわ」
通路の奥の闇から、声が響いた。
ゆっくりと姿を現した人物を見て、ぼくは静かに呟く。
「フィオナか」
グライの前に歩み出た聖皇女へと、ぼくは皮肉げな笑みを向ける。
「このような場所に、なんとも似つかわしくない人物がいたものだ。しかしずいぶんといい時に現れる……いや、そうか。君には視えていたんだな? 今の、この瞬間が」
ぼくは笑みを消し、声を低くして続ける。
「如何な用向きで現れた、フィオナ。此度の釈明でもしてくれるのか。それとも……そこらに控えさせている有象無象に、ぼくの相手をさせるか?」
いつの間にか――――この建物の周辺には、いくつかの気配があった。
ただの衛兵ではない。
おそらくは全員が、ガレオスや先の魔族パーティーに匹敵するほどの使い手。
きっとこいつらが聖騎士とやらなのだろう。
なるほど、ずいぶんと剣呑な人材を集めたものだ。
もっとも……この場においては、何の意味もないが。
「いいえ」
フィオナは、きっぱりとした口調で言った。
陶然とした雰囲気も、今はない。
ただ真剣な声音で続ける。
「そのどちらでもありませんわ。いずれも、今この場では必要のないことです。聖騎士は、外から邪魔が入らないよう見張らせているだけですわ。彼らにあなたを相手取らせることの無謀さを、わたくしは理解しているつもりです、セイカ様」
「ふん……未来視というのは便利な力だな」
ぼくは一つ息を吐いて問う。
「それで、何のために来た」
「その前に、あなたの問いに答えようと思います」
「……」
「いろいろと疑問に思っていることもあるはず。説明するくらいの誠意は見せるつもりです。その方が、わたくしがこの後にする提案も、受け入れてもらいやすくなるでしょうから」
「提案、か。ものは言いようだな……まあいい」
ぼくは、一番の疑問を口にする。
「なぜ、アミュは殺されようとしている?」
「……」
「帝国には敵がいるはずだ。魔族という、明確な敵が。如何にお前たちが臆病で、派閥の利益が大事だとしても、勇者を殺し、国としての優位を自ら捨てるなどあまりに不合理に過ぎる。お前たちは、そこまで愚かだったのか?」
「それは……いいえ、そうではないのです」
フィオナは、わずかに言いよどんだ後、話し始める。
「かつてはこの帝国も……今よりずっと小さな国でした。人口は少なく、農地も限られ、属国も持っていない。国軍もなく、各地の領主が領民を徴兵する形で戦力をまかなっていたので、当然装備も貧弱で、満足な戦術もとれませんでした」
「……」
「そんな中で現れた勇者は、どれほど頼もしい存在だったことでしょう。その力は一騎当千、いえ、それ以上だったかもしれません。聖剣を手に、頼れる仲間と共に恐ろしい魔族の地に攻め入り、魔王を倒す英雄。伝説に語られるにふさわしい、まさに希望の象徴だったことでしょう……かつては」
「……」
「でも……今は、違います。知っていますか、セイカ様。今や帝国は、実に数十万もの兵を即座に動員できます。それも徴兵された農民などではなく、訓練を積んだ正規兵を。上質な装備や、進歩した攻城兵器などと共に。そしてそれは……魔族側も同じです」
「……」
「わかりますか、セイカ様。勇者も魔王も、すでに時代遅れの存在なのです。たとえ一人で数千の兵に匹敵するとしても、全体から見れば誤差のようなもの。戦争の趨勢を左右できるほどではありません。仮に魔王を……敵の指導者を倒したからといって、首都を制圧できるわけでもない。所詮単騎でしかない勇者では、都市の占拠もままならないのです。賢明な者は皆、この事実に気づいている」
「……それがどうした」
ぼくは言う。
「戦力としての用を為さないからといって、殺す理由がどこにある。使えないのなら、捨て置けばいいだけだ」
「勇者は……存在するだけで、戦争の火種となるのです」
フィオナが続ける。
「考えてもみてください。魔族側に魔王が存在しない今、人間の側にのみ勇者がいるのです。伝説に語られる強さを持つ英雄が」
「……」
「この機に人間が攻め込んでこないと、誰が言い切れるでしょう? 戦力としての用を為さないことを、理解できないほどに人間が愚かだったら? あるいは戦力にならないことを承知の上で、反魔族の旗頭として担ぎ上げられてしまったら? 一度戦端が開かれてしまえば、大戦となることは避けられません。ならば、せめて先手を取る……そう考える魔族の指導者がいてもおかしくはないでしょう。勇者は、開戦の火種となりうる」
「……」
「今はもう……誰も戦争など望んではいません。土地や安全を巡って争っていた頃とは時代が違います。魔族は我々とはあまりに文化が異なるために、属国として併合することもできない。勝ったところで利が少ないのです。そして戦争を望んでいないのは、おそらく魔族側も同じでしょう。勇者を討つ刺客を送ってくるのはそのため。彼らは争いを優位に進めたいのではなく、火種を消したいのです。戦争の火種を」
「……」
「我々と魔族は、商人を通した非公式の貿易などで、資源や工芸品をやりとりする程度が一番いい関係でしょう。つまり、今です。誰も大戦など望んでいない。波風が立つのは、誰にとっても都合が悪いのです」
ぼくは何か言おうと口を開き、そのまま閉じた。
その様子を見ていたフィオナが、続けて言う。
「加えて言えば……アミュさんがかつての勇者のような強さを得ることは、きっとないでしょう」
「……なぜだ」
「あなたがいるからですよ、セイカ様」
フィオナが、静かに続ける。
「勇者の強さとは、困難に打ち勝って得られるもの。自らの命や大切な何かを失いそうになりながら、強大な敵と何度も何度も戦って、ようやく手にするものなのです。あなたはアミュさんに――――そのような状況を許しますか? 帝城へ攻め込んでくるほどに強く……優しいあなたが」
沈黙するぼくに、フィオナはなおも言う。
「あなたがなぜ勇者に執着するのか、わたくしにはわかりません。未来視の力も、人が胸の内に秘め、決して表に出さない心までを知ることはできないのです。ですがもし、その理由が強さなら……セイカ様の思うようには、ならないと言っていいでしょう」
「……だからなんだと言うつもりだ」
ぼくは問い返す。
「この子は強くならないから、ぼくの思うとおりにはならないから……見殺しにしろと? 平和のために死ぬ様を大人しく眺めていろと、そう言いたいのか」
「いいえ、そうではありません。そのようなことは、わたくしも望んでいません」
フィオナは、はっきりとした口調で否定する。
「先ほどわたくしが言ったことは、あくまで物事の一面です。むしろ勇者を排すべきと考える過激派は、ごく一部に過ぎません。勇者に有用性を見出す者、魔族が勢いづく可能性を指摘する者、魔王の存在を懸念する者……有力者の間でも、反対する者はたくさんいます。今回の蛮行は、ほぼグレヴィル侯一人の暴走と言えるもので、帝国の総意では決してありません。学園派閥の者たちはアミュさんを守る方向で動いていますし、わたくしもそうです」
「……」
「セイカ様。わたくしの要求は一つです」
そして、フィオナは告げる。
「今は退いてください」
「……」
「アミュさんには誰にも、なにもさせません。わたくしが持つ力のすべてでもって、無事に学園ヘ帰します。親類縁者にも、ぜったいに累がおよばないようにします。あなたが今夜の咎を負うこともありません。今退いてくだされば、必ず元の学園生活へ戻れます。帝国を……あなたが敵に回す必要も、なくなります。だから……」
「はは、なるほどな」
ぼくは乾いた笑いと共に言う。
「ようやくわかった。君がアミュに……いや、アミュとぼくに会いたがったのは、今この時に、その要求をするためだったんだな」
「っ……ええ、そうです。知ってほしかったのです、わたくしという人間を。たとえ短い間でも、友誼を結びたかった」
「ははは……」
「覚えていらっしゃいますか、セイカ様。戦棋での約束を。負けた方は、勝った方の言うことをなんでも一つ聞くと、あなたは約束してくださいました。今、それを叶えてほしく思います」
「……」
「わたくしを信じてください」
「……」
「信じてくださるのならば……わたくしも、必ず約束を果たします」
「ふふっ……」
「セ、セイカ」
その時、アミュが横からぼくの袖を掴む。
「あの、フィオナとあんたの兄貴は……」
「アミュ」
ぼくは少女へ短く告げる。
「君は少し黙っていなさい」
「っ……」
押し黙るアミュから目を離し、ぼくはフィオナへ言う。
「戯れにした約束事にしては、ずいぶんと過大な願いを口にするじゃないか、フィオナ」
「それは……」
「無理な事柄ならば拒否してもいいと、君はそうも言ったはずだ」
ぼくは告げる。
「君たちの、いったい何を信じろと言うんだ?」
フィオナは唇をひき結び、痛みをこらえるような表情で押し黙った。
決定的な決裂に、場の空気が張り詰めていく。
杖剣を構え直すグライが、堪えきれなくなったように口を開く。
「セイカ、お前……っ」
「いえ……わかりました。ならば結構です」
それを遮るように、フィオナが声を上げた。
「どうぞ、アミュさんを連れて行ってください」
「……なんだ、ずいぶん物わかりがいいじゃないか」
「正門を出た先の広場に、馬車を用意してあります。夜でも走れる馬ですので、すぐにでも出発できます。学園には戻れないでしょうが、逃げる先は決めていましたか?」
「……」
「あてがないのであれば、ラカナ自由都市へ向かうといいでしょう。ダンジョンによって発展した、冒険者の街です。あそこの首長はわたくしの協力者で、すでに話は通してあります。セイカ様のことは隠蔽するつもりですが、アミュさんがいなくなったことだけは隠しきれませんので……もしも追っ手がついた際に、便宜を図ってくれるでしょう」
「……まるで、ぼくが断ることまで予期していたかのような準備のよさだな。それで? 罠はどこに張っている」
「あなたにそのようなものが意味をなさないことくらい、わたくしは理解しているつもりです。もしあったなら、その時はラカナでも帝城でも好きに落とされるといいでしょう」
「……」
フィオナは、ふと笑って歩き出した。
ぼくの脇を通り過ぎ、階段の前に立つと、振り返って言う。
「さあ、どうぞこちらへ。馬車のところまでわたくしが案内いたしましょう。もしまだ信用できないというのなら、ラカナまで同行しても構いませんよ?」
「――――フィオナ、ソコマデスル必要ハナイ」
突然どこからともなく、地底から響くような低い声が聞こえた。
声の主の姿は、どこにも見えない。ぼくの感じ取っていた気配のどれでもないようだった。
「自ラ人質トナルツモリカ。ソレハ我トノ約定ニ……」
「黙りなさい」
ぼくが
その声音は初めて聞くほどに鋭く、ぼくも思わず手を止めてしまう。
「今わたくしの邪魔をすることは許しません。わきまえなさい。たとえあなたであっても、セイカ様の相手になるとは考えないことです」
フィオナの言葉には、わずかな焦りの響きがあった。
謎の声が沈黙したことを確認すると、フィオナは微笑を作ってぼくへ向ける。
「失礼いたしましたわ。あれもわたくしの聖騎士ですの。少しばかり心配性なだけですので、お気になさらず。後でよく言い聞かせておきますわ。さあ、参りましょう」
背を向けて階段を登っていくフィオナを、少しの間眺め――――ぼくは、アミュの手を取った。
「行こう」
手を引くと、少女は顔をうつむけたまま、大人しくついてくる。
ぼくは上へ続く階段へ、足をかけた。
****
塔から出ると、城内はぼくが暴れたことなど嘘だったかのように静かだった。
きっとその辺りの始末も、フィオナはすでに手を打っていたんだろう。
広場は、崩れた正門を抜けてすぐのところにあった。
「……本当に、馬車を用意していたんだな」
広場の片隅、樹に繋がれた一頭立ての馬車を見て、ぼくは呆れ半分に呟いた。
その時ふとあることに気づいて、思わず顔が引きつる。
「うふふっ、もちろんです。馬も馬車も、どちらも上等なものですよ。セイカ様が気分を悪くするといけませんから」
フィオナが機嫌よさそうに言う。
「食糧や路銀も積んでおきました。ラカナまでは十分持つことでしょう。アミュさんの剣も、ちゃんとありますよ」
「そ、そうか……」
「それで、どうしましょう? わたくしもついて行った方がよろしいですか?」
ぼくは短い沈黙の後、目を伏せて答える。
「……いや、いい」
「そうですか……いくらかは信用してもらえたのだと、そう受け取っておくことにしましょう。ここに残れた方が、わたくしとしても今後の動きが取りやすいですしね。お二人と共にラカナへ行くのも、楽しそうではありましたが」
フィオナは、微笑と共に続けて言う。
「さあ、乗ってください。今なら北の門から出られます。早く発った方がいいでしょう。いつまでも帝都にいるのは、あまりよくありません」
「……アミュ、ほら」
「う、うん……あ、フィオナ」
馬車に乗り込もうとしたアミュが、ふとフィオナの前で立ち止まった。
「はい?」
「あの……これ、ありがとう。助かったわ」
そう言って、手にしていた毛布を差し出した。
ぼくの視線に気づくと、ぽつぽつと説明し始める。
「あの牢屋に入れられて少し経った時、フィオナとあんたの兄貴が来てくれたの。食べ物と毛布をくれて……ぜったい出られるからって、ずっと励ましてくれてた」
「え……」
「これ、たぶんだけど、いいものよね? あったかかった」
フィオナは毛布を受け取ると――――小さく笑って、それをアミュの肩に掛けた。
「持って行ってください。夜はまだ冷えますから、道中に必要でしょう」
「いいの? ありがとう……」
「うふふ……お元気で。ラカナへ向かったことは、イーファさんとメイベルさんにもちゃんと伝えておきますわ。またいつか、一緒にお話ししましょう」
「うん……あ、でも、あいつは一緒じゃなくていいけどね」
「グライは本当にひどいですわね。わたくしも驚きました。制服姿のアミュさんを見るなり、馬子にも衣装って……女性の扱いをわかっておりませんわ。あれは教育が必要ですわね」
「あの時、あんた普通にひっぱたいてたものね。失礼なのが直るまでは、あたしもぜったい会わない」
「うふふふっ」
アミュは馬車に乗り込むと、フィオナへ小さく手を振る。
「じゃあね、フィオナ。本当にありがとう」
「さようなら、アミュさん」
それからフィオナは、ぼくへ向き直る。
「それでは、セイカ様」
「……フィオナ」
ぼくは一つ息を吐いて、彼女の名前を呼んだ。
フィオナは、戸惑ったように首をかしげる。
「はい?」
「戯れにした約束事とはいえ、守れなくて悪かった」
フィオナは一瞬黙った後、微笑んで答える。
「いえ、お気になさらず。セイカ様の言う通りでした。遊戯の賭け事に要求するようなことではありませんでしたね」
「それでも約束は約束だ。果たせなかったのはぼくの落ち度に違いない。だから……せめてこれくらいはさせてくれ」
「……? なにを……」
ぽかんとするフィオナの前を通り、帝城を前に見据える。
ここへ降り立ったのは一刻ちょっと前だ。ブロックを八つも遡れば事足りるだろう。
小さく真言を唱えると――――空間が歪み、位相から無数のヒトガタが夜空に吐き出された。
それは宙を滑るように飛ぶと、帝城を中心に規則的に配置されていく。
やがてそれぞれが呪力の線で結ばれ、立体的な魔法陣が完成する。
「ओम् अपाकरोति पदार्थ समुद्दिशति इष्टका अष्टम पूर्वम्――――」
両手で印を組み、真言を唱える。
「――――वर्ग ह्रीः समय सम्प्रति――――」
数えるほどしか使ったことのない――――転生の
「――――लक्ष्य साधनवस्तु पशु आत्मन्――――」
そして――――変化が起き始めた。
飛び散っていた城壁の瓦礫が薄れ、その輪郭がぶれる。
一つだけではない。あちこちに存在するすべての瓦礫や降り積もっていた粉塵が、まるで水面に映った月のように揺らぎ、消え出した。
代わりに崩れていたはずの城門や、跡形もなくなっていた城壁塔が、その姿を取り戻し始める。
目をこすれば消えてしまいそうなぼんやりとした影から、次第に色味が付き、破壊される前の形へと復元されていく。
変化は、それだけに止まらなかった。
溶けていた城の壁が。
切り裂かれていた庭園の木々が。
そして――――命の失われていた兵たちまでも。
理外の
やがて――――。
「……こんなものか」
ぼくは印を組んでいた手を下ろした。
帝城は、すでにぼくが訪れた時の姿に戻っていた。
あれほどの破壊の痕跡など、もうどこにもない。
フィオナへと向き直って言う。
「一応これで、全部元に戻ったはずだ。ただ、兵の魂までは保証できない。たぶん大丈夫だと思うけど……もし虚ろな者がいたら、その時は楽にしてやってくれ」
フィオナは、目の前の光景が信じられないかのように唖然としていた。
だがやがて、急に怖い顔になってぼくに言う。
「まったく、大変なことをしてくれたものです!」
「え」
「せっかく強大な魔族の襲撃があったという体で収拾をつけようとしていたのに! あれだけの破壊も兵の命も、すべて元に戻っただなんて……こんなものどう説明しろと言うのですか!」
「そ、それは……幻術だった、とかでなんとかならないか」
「このような幻術がありますか! あなたはわたくしに嫌がらせがしたかったのですかっ!?」
「い、いや違っ……よ、よかれと思って……」
「だったらなぜ事前に説明せず、勝手にやってしまうのですか! 一言言ってくれるだけでよかったのに!」
「う……」
「もう! あなたはそういうところが……」
そこで、フィオナは言葉を止めた。
そして、自分を恐る恐る見つめるぼくを見て――――溜息と共に、仕方なさそうな笑みを浮かべる。
「でも……あなたらしいです」
「……」
「大変ですが……なんとかしましょう。約束してしまいましたからね」
フィオナは、踵を返した。
それから、首だけで振り返って告げる。
「さようなら、セイカ様。きっとまた、会える時が来ることでしょう」
****
帝城へ帰って行くフィオナをしばらく見送った後、ぼくは樹に繋がれていた馬の縄を外し、馬車の御者台へと乗り込んだ。
手綱を握る。
明るい夜だ。馬も落ち着いている。出立に問題はないだろう。
ただ……。
「セイカ」
後ろから、アミュの声が聞こえてくる。
「……ん?」
「あたし……正直まだ、状況が飲み込めてないわ」
「……」
「なんなのよ、勇者って」
「……」
「あんたがフィオナと話してたことも、ちんぷんかんぷんだし」
「……」
「なに? あたし死ぬところだったの? あと勇者なのに強くなれないの? そして学園は退学になるわけ? もうわけわかんないわよ」
「……」
「あたしはあんたやイーファみたいに頭よくないの。ちゃんと説明してくれるんでしょうね」
「……ああ」
「じゃあ、いいわ。今は早く帝都から離れましょ。長居しない方がいいって、フィオナも言ってたし」
「なあ、アミュ……一つ訊いていいか?」
「なによ」
「馬車って……どうやって動かすんだ?」
「…………はああ??」
アミュが、後ろで身を乗り出す音がした。
「なに? あんた動かし方わかんないの?」
「わかるわけないだろ……! あんなに苦手だったのに」
「じゃ、あんたなんで御者台に座ったの?」
「アミュがそっち乗ったから……」
「え……? 待って待って、頭痛くなってきた」
アミュが混乱したように言う。
「そもそも、それじゃあんたどうするつもりだったの? なんでフィオナに御者も欲しいって言わなかったのよ」
「言えるわけないだろ、あの雰囲気で……!」
これだけのことをやらかし、後始末を任せて逃げようって人間が、馬車までもらった挙げ句に動かし方がわからないだなんて情けなさすぎる。
「こ、こんな時になに見栄張ってんのよ! フィオナだったらすぐ用意してくれたでしょうに! はあ……男ってほんとバカね」
「返す言葉もないよ」
「というか、あんたも男だったのね」
「それはいくらなんでもあんまりじゃないか」
「あんたが人間だってところから、あたしちょっと忘れてたわ……どきなさい」
アミュが御者台にまで顔を出しながら言う。
「君、馬車動かせるのか?」
「一回しかやったことないけどね。でもあんたよりはマシよ。ほら早く」
言われたとおりに交代する。
アミュは手綱を握ると、苦笑して言った。
「先が思いやられるわね」
「なんというか申し訳ない」
「でも、少し楽しみ。ラカナは、一度行ってみたかったもの……これからよろしくね、セイカ」
アミュが、手綱を軽く打ち付ける。
馬車は帝都の城門へ向け、静かに走り始めた。
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