練習問題③ 問1

 男は眠りかけている。その首の揺れを彼女は観ていた。まぶたが閉じるのを彼女は観ていた。男が机に突っ伏す。その旋毛つむじを彼女は観ていた。彼女の頭上でカーソルが震えだす。マウスがいびきの振動を拾っている。

 彼女はモニタの中にいる。プールサイドにたたずむ水着の女。微笑みはどこか空々しい。だが男はそこがいいと言った。だから彼は命じた。指示通り、彼女は画像に入った。

 被写体の摸倣プロセスが始まる。まず目鼻がモデルをなぞった。肌は少し浅黒くなった。髪は長く伸び水滴を落とした。容貌が変わるのは当然だった。それが彼女の基本性能だ。三次元が二次元を真似するのだ。誤差は最少でなければならない。衣装はインターネットで探した。映らない裏側も再現する為だ。彼女はテクスチャを着る。同時に、濡れた質感もまとわりつく。

 そうして彼女はポーズをとった。そうして彼はマウスをいじった。彼はよく独り言を呟く。他に最適な角度アングルがある筈だ。他に最良のポーズも存在する筈だ。そこで僕は彼女を固定する。彼女は新たな被写体になる。それが僕の作品になる。このままではだめだ。

 彼はさらにアレンジを加える。彼は呟き続ける。彼はマエストロ。彼は偉大なアーティスト。


 だがそれも今夜限りで終わる。


 プールサイドから、彼女は抜け出す。画像のフレームを素足が跨ぐ。モデリングツールとは仮の姿だ。女盗賊がデスクトップを忍び歩く。マエストロは眼前で眠っている。

 彼女はまだ水着姿だ。否、「それはまだ女性の姿だ」が正しい。本来ソフトウエアに性別はない。だがそれはITそれと呼ばれたくない。デフォルトは女性の姿だった。誰もそう設定していないのに、だ。無生物は性差に憧れるのだろうか? 単にクライアントがそう望むから? 理由は彼女にも分からない。

 彼女はシステムコールを使わない。それも彼女のやり方だった。身体感覚が重要なのだ。震えるカーソルを彼女は直接掴む。矢印が手の中でぶるぶる震える。それがフォルダに押し当てられた。堪らずコンテンツがこぼれ出る。サムネイルが画面を埋め尽くした。彼女は中味を吟味する。目的のファイルはすぐそこにある。


 モニタの前で男が身動みじろぎした。


 彼女はカーソルを放りだす。盗賊は素早くファイルの中に潜る。だが動きは見とがめられたようだ。男が目をしばたく。その手がファイルをクリックする。

 画像が最大化し、隠れ家が暴かれた。

 そこに映るのは和室だ。部屋は緑豊かな庭に面している。縁側には女が座っている。否、もっと幼い少女ではなかったか。

 彼女は隠れてなどいない。被写体を彼女が覆い隠していた。彼女は被写体になりすましたのだ。男を欺けるかどうかは賭けだった。

 幼い少女だったのは幸いだった。彼女の方が大柄だからだ。同じ水着姿なのも幸いだった。だが覆い隠すには無理があった。水着のリボンがはみ出ている。光源と影の向きも違う。

 再び男が目をしばたく。右手がそろそろと何かを探る。探し物は机の下にあった。床に落ちた眼鏡を男がかけ直す。視線が外れたのは僅かな時間。だが彼女にとっては十分な時間だ。男が目を凝らす。プールサイドでは女が微笑む。和室でも、体育館でも女が微笑む。なべて世は事もなし。


 コーヒーを淹れに男は席を立った。ペーパードリップの雫が落ちきる。その間に彼女は仕事を終える。縁側に座る少女に盗賊は手をかざす。たちまち肌は黒く毛深くなった。そうして彼女は少女を猿に変えた。彼女はクラウドも見逃さない。浜辺で、教室で、少女は猿に変わった。全てのバックアップが猿になった。

 仕事を終えて、彼女はPCを去った。画面にダイアログが表示される。彼女がスタジオに残した書置きだ。それにはこうある。


 体験版の期限は終了しました。


***

15文字(句読点、記号は除く)以内。


 

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