第3話 2018年3月
3月1日 - 日本郵便、個人向けゆうパック料金を同日受付分から平均約12%値上げ。
午前9時、姉川勘吉は犬堂刑務所を脱獄して鎌倉にやってきた。2012年2月21日夜、受刑者50人が地震があった為グラウンドに出ていたが、午後10時40分ごろに点呼をとったところ、姉川が所在不明になっていることが判明した。
後に確認した監視カメラの記録映像には、10時30分ごろに姉川がグラウンドにある用具小屋の屋根に上り、高さ2.6mの塀を乗り越える様子が記録されていたが、監視する職員が見落としていた。姉川はその後雨樋をつたい事務所の屋上に上り、工事のために設置していた仮塀と工事中の外塀を足場などを利用して乗り越え、敷地外に逃走したとみられている。
なお塀の上には、本来は脱獄しようとして接触するとブザーが鳴る防犯線があったが、事件当時には工事のため取り外されており、役に立たなかった。
職員たちは姉川が敷地内にいるものとして捜索していたが、外部の市民から姉川と見られる下着姿の男がいたとの通報がもたらされ、脱走したと確信し、11時25分になって神奈川県警察に通報した。また、姉川の血痕が着地したと思われる場所に残されていた。
姉川の捜索は、神奈川県警の捜査員の他、犬堂刑務所の刑務官も動員して行われた。また警察庁は、社会への危険性が高いとして、特別指名手配に指定した。
警察犬の捜査で、東側200mの位置にある犬堂公園で姉川の足跡は途絶えた。
姉川は森の奥で見つけた斧で戸田の頭をかち割って殺した。戸田は不思議な玉を手にしていた。姉川は玉を奪った。
脱走した姉川であるが、2月23日の昼ごろ刑務所から西へ1.5Km離れた民家に空き巣に入った。衣類(ニット帽・ジャンパー・ズボン)や鞄を盗み、中にあった食料の飲食などを行った。また、その周辺で事務所侵入や車上荒らしなどを繰り返し行ったと見られた。
鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した天然の要害である。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる、山を切り開いた狭い通路(切通し)を通らねばならず、防御のしやすい土地柄であった。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったとされる。市街地の北西には源氏山(92メートル)があり、山並みは高徳院(鎌倉大仏)の裏手を通って稲村ヶ崎まで伸びている。市街地の北から東にかけては六国見山(147メートル)、大平山(159メートル)、天台山(141メートル)、衣張山(120メートル)などの低い山が連なり、逗子市との境に当たる飯島ヶ崎、
姉川は、3年前の横浜駅近くの個別学習塾の塾長、
事件当日、3月25日午前9時には、姉川と今川が横浜駅前の喫茶店に来店した様子が監視カメラに映っている。9時54分、姉川の自宅マンションのエレベーターの監視カメラに2人が映っているのが確認されている。姉川宅に入ったところで今川を押し倒し、結束バンドなどで拘束して暴行した。その後取り外し可能な浴槽を和室に置き、被害者を入れて監禁した。監禁中には、拘束を解くように要求する被害者を殴りつけるなどしている。24時ごろには、今川の婚約者に1週間ほど会えないとメールで連絡している。翌3月26日2~3時頃、手の拘束を解いて被害者が逃亡しようとしたため頚部を圧迫して窒息死させた。今川の死亡後、ホームセンターで、赤玉土56リットル、園芸土50リットル、シャベル1個、発酵促進脱臭剤2個、脱臭剤2個、苗木1本を購入している。ベランダに浴槽と遺体を移動させて、購入した土を投入した。捜査員が訪れたのは、その日の夜であった。
姉川は御成通りにある廃墟にやって来た。
上空から見ると建物全体が『く』の字型に曲がった形になっている。姉川は廃墟マニアで、仲間から聞いた話では外壁が作られる前に工事が中断したため、外壁が存在しなかったそうだ。
ナミビアにあるゴーストタウン、コールマンスコップは圧巻だった。
この地域でダイヤモンドが発見されてから発展し、ナミビア砂漠の過酷な環境の中で働く労働者たちにとって格好のオアシスとなっていた。1918年までドイツ領南西アフリカの一部であったことから、村はドイツ風の外見を持ち、病院、ダンスホール、発電所、学校、ボウリング場、劇場、体育館、カジノ、製氷工場などがあった。リューデリッツへの鉄道路線もあった。
この町は、第二次世界大戦後、ダイヤモンドの価格が暴落し、衰退し始める。鉱業はオランジムンドに移っていった。町は1956年には捨てられたが、その後一部復旧した。 観光客が、今、砂の中に半ば埋まってしまった家々の間を歩き回ることができるのも、砂漠の地質学的な特性によるものである。
マンションの床はゴミがたくさん放置され、悪臭を放っていた。おそらくホームレスが住んでいたのだろう。
人相を変えるために鼻翼を左右から縫い縮める自己整形手術を行った。姉川の父は美容クリニックの開業医で、事件前日にメスや麻酔薬を盗んだ。
「これで姉川勘吉を知る者は誰もいない」
午後3時、伊庭修は虫垂炎のオペを受けた。インフルエンザが流行しており外出などは出来なかった。ナースの
昨夜、点滴をして容態の悪かった修の剃毛をしてくれた。入院初日から絶食で輸液だけの生活なので腹が減って仕方がない。大部屋泊まりで、隣の老人は認知症か何かなのか、「ここはトイレか?」とか言いながら修の部屋に入って来たりした。
手術は成功した。病室で虹子と談笑してると才太郎が現れた。
「修、大丈夫か?」
才太郎はリンゴとエロい漫画を見舞いに持ってきてくれた。
「兄貴、身体を起こしてくれないか?」
尿道カテーテルが先っぽに入ってるから動くのが大変だ。傷のせいか体が鉛みたく思い。石を体の中に詰まれた狼男みたいな気分だ。子供のときに読んだ『赤ずきんちゃん』に登場する悪役だ。
才太郎はベッド下のレバーをグルグル回した。早い動きで上がっていく。
「もっとゆっくり回せよ」
「アニキに向かって随分な態度だな?」
「恵美は?」
「病気伝染らせたら悪いから連れてこなかった」
「女房は?」
「パートに出てる。広告代理店ってパートも雇ってるんだな?」
「アニキ、プラプラしてないで仕事探せ」
「大きなお……」
ガラガラ……ドアが開いて虹子が入って来た。
「伊庭さ〜ん、検温の時間ですよ〜」
彼女はチェック表と体温計を手にしてる。
「あれ〜才太郎君じゃな〜い」
「蝶野?」
彼女は才太郎が大学時代に付き合っていた女だ。
比企大学の1年のとき音楽サークルで出会った。
才太郎は幼い頃にピアノを習っていて少しだけ弾けた。他のメンバーはレベルがかなり高かった。幼い頃から小説やポエムを書いていたので、作詞を担当することになった。
誰もいない部室でキスをしたり、夜の公園でエッチしたり刺激的な青春時代だった。大学卒業前にケンカして別れた。
修が体温計を脇に挟む。
「やっぱりとは思ったけど、才太郎の弟さんだったのね」
「真一に恋人が出来たらしい」
ピピピッ♪体温計が鳴る。36.8℃。
「明日には退院できますか?」
修が虹子に尋ねた。
「それは先生に相談してから出ないと。ちょっと聞いてきますね?」
虹子がいない間、才太郎は持って来てほしいものを修に尋ねた。特にないとのことだった。
「アニキ、この病院は呪われてるぜ」
「院長、明美、戸田、猪熊……4人もの人間が犠牲になった」
虹子が病室に戻って来た。
「明日は様子を見て、明後日ならいいってことです。明日、10時から回診ですからね?」
「分かりました」
「才太郎、この病院ね?ひきこさんが現れるって噂があるの」
雨の日、白いぼろぼろの着物を着て、人形のようなものを引きずっている女と出会う。よく見ると、女の目はつり上がり、口は耳元まで裂けている。そして女が引きずっていたものは人形ではなく、小学生ほどの子供そのものだった。女は自分の姿を見た子供を捕らえて肉塊になるまで引きずり回し、決まった場所に連れて行き放置する。彼女は自分が受けた酷いいじめに対する恨みから、子供を捕まえては肉塊と化すまで引きずり回しているのだ、というもの。
「ひきこさんが現れる前に帰ろう。退院の日にが分かったら電話して?」
才太郎は病院を後にした。
3月2日
尖閣諸島沖で、中国海警局の4隻(海警2102、海警2302、海警2306、海警2337)が領海を航行。
午前9時、腹が減ったので姉川は鎌倉駅前にやって来た。広場の北側から鶴岡八幡宮の裏参道(小町通り)が始まる。入口に大鳥居がある。観光ルートとして人通りが多く、車両通行規制時間帯が設けられている。鎌倉駅東口のファミリーマートに入り、たまごサンドと野菜ジュースを買って店先で食べた。🏪通行人がじろじろ見てる。
「見てんじゃねー」
朝食を3分くらいで済ませて鶴岡八幡宮を目指す。大里書店、島森書店の2つの本屋がある。『りきゅう』というレストランを通り過ぎる。
二の鳥居のところにもファミリーマートがある。
若宮大路を鶴岡八幡宮方面に歩いた。暖かくなってきた。やはり、春はいいな?と姉川は思った。
段葛のところで
どことなく
カップルは三の鳥居を潜って、源氏池のところでキスをはじめた。姉川は嫉妬の炎を燃やした。
(絶対に許さない!)
姉川の戦いがはじまろうとしていた。
3月3日
小田急小田原線の代々木上原駅・登戸駅間の複々線化が、約30年の工事期間を経て全面完成した。
俺は修を自宅に送り届けた。
恵美が高い高いしてと、ねだってきたのでしてやったらキャハキャハ笑っていた。
夜、愛車のN-BOXで鎌倉にやって来た。鎌倉市材木座と逗子市小坪にまたがるトンネル(京浜急行バス停留所 飯島 - 姥子台 間)は心霊スポットとして有名だ。正式名称は小坪隧道。周辺にある、国道134号飯島トンネル、小坪海岸トンネル(京浜急行バス停留所 飯島 -小坪海岸 間)の3つのトンネルを総称して「小坪トンネル」と呼ばれることもある。近くの山の上には火葬場がある。
俺は背後に妙な気を感じてバックミラーを見た。
黒塗りのワゴン車が後ろを走っている。
神澤紫や谷村成の遺族が乗ってるんじゃ?と、一瞬変なことを感じた。窓が開いて、銃でも撃たれたらどうしよう?俺は恐怖感で苦しかった。
が、何事もなくその夜は過ぎた。
3月4日
18時頃、神戸電鉄粟生線三木駅に隣接した住宅から火災が発生、同駅に延焼し駅舎が全焼、同線は同駅と志染駅の間で終日運転見合わせ。
(現地時間。日本時間同5日)アメリカ合衆国・カリフォルニア州ハリウッドで開催された第90回アカデミー賞授賞式にて、英国映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」で主人公の元英首相ウィンストン・チャーチル役を演じた英俳優ゲイリー・オールドマンの特殊メイクを手掛けた辻一弘が、他イギリス人2名と同時に最優秀メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞、日本人として同賞受賞は史上初。
午前10時、私立探偵の喜多川真一は鳩サブレを食べながら『ザ・テレビジョン』を読んでいた。事務所は鎌倉駅の近くにある。
12日・13日 - 名古屋テレビ放送(メ〜テレ)にて12日、同局制作のドラマ『名古屋行き最終列車』シリーズに出演していた大杉漣(2月21日没)の追悼特別ドラマ『大杉漣さん追悼 メ〜テレドラマ 名古屋行き最終列車〜あるラーメン屋の主人の物語〜』を放送するらしい。
21日には、NHK総合にて、阿部寛と香川照之のダブル主演による刑事ドラマ(2016年10月 - 12月放送)のスペシャル版『スニッファー 嗅覚捜査官スペシャル』が放送(22時 - 23時13分)される。
24日・25日 - テレビ朝日系にて2夜連続で推理スペシャルドラマ『アガサ・クリスティ 二夜連続ドラマスペシャル』(両日とも21時 - 23時10分)を放送。第1夜(24日)は『パディントン発4時50分〜寝台特急殺人事件〜』(主演:天海祐希)、第2夜(25日)は『大女優殺人事件〜鏡は横にひび割れて〜』(主演:沢村一樹)をそれぞれ放送するらしい。
4月〜6月のドラマは医療ドラマ『ブラックペアン』(二宮和也・内野聖陽他)、犯罪ドラマ『コンフィデンスマンJP』(長澤まさみ・東出昌大他)、刑事ドラマ『特捜9』(井ノ原快彦・寺尾聰他)などがやるみたいだ。
チャイムが鳴った。ドアを開けるとフライトジャケットを羽織ったイケメンが立っていた。
「ご依頼ですか?」
イケメンを応接室に通した。依頼人の名前は
東京に工藤探偵事務所を構える私立探偵。ユーモアと自由を愛する男。
横浜で育ち、サンフランシスコ警察に刑事として勤務していた過去を持つ。とある事件で仲間を殺害された悲しみから仲間を作る事を恐れるようになり、日本に戻る。
黒いスーツ(白や茶のストライプスーツを着ることもある)と派手なカラーシャツを着こなし(ベルトは使わずサスペンダーを愛用)、ソフト帽とサングラスを愛用。移動手段はベスパP150X。タバコの銘柄はキャメルを好み、(カルティエ製)ライターの火力は常に最大。また、冬季はスーツの上からダウンジャケットを着込む。
ちなみに喜多川はアイコス2.4PLUSを愛用してる。吸い始め・吸い終わりにお知らせするバイブレーション機能は便利だ。
アイコスで使用するたばこスティックは一般的な紙巻きたばこに比べ全長が短く、ペースト状に加工されたたばこ葉がスティックに詰められている。ヒートスティックをIQOSに差し込む事でヒートブレードと呼ばれる部分にたばこ葉が接触し、ブレードを加熱する事で内部からたばこ葉を加熱・蒸気を発生させ、ニコチンやその他の成分を吸引する。
工藤には成美という彼女がいるが、成美が浮気をしているというのだ。浮気調査は10万で引き受けている。30万のところもあり良心的だと喜多川自身思っている。
「正直、安い買い物ではありません。よく考えてからご依頼ください」
「浮気相手の名前さえ分かればそれでいい。5万にしてもらえないか?」
「そういうことは出来ない決まりになっております」
「分かった。払うから、キチンと調査してくれ」
3月6日
政府、2019年4月30日に予定される明仁天皇の譲位に伴う「退位礼正殿の儀」の実施や、天皇が上皇、皇后が上皇后になった後の対応を規定する、天皇の譲位などに関する皇室典範特例法施行令を閣議決定。
小学館、2月に発行した月刊コロコロコミック3月号にチンギスハンの肖像画に落書きをする漫画が掲載され、2月23日に駐日モンゴル国大使館が外務省に正式抗議をするに至っていたことを受け、同誌の発売を中止、書店に返品を求めることを発表。
喜多川はフルスモークの車の中でオデッセイを監視していた。
成美は浮気相手とカーセックスしてる。成美の喘ぎ声が鮮明に聞こえてくる。場所は七里ヶ浜の駐車場だ。もう午後10時だ。
地名の由来は、「稲村ヶ崎と小動岬の間が7里(鎌倉時代、関東地方では6町を1里としていた。)あるからである」がこれまでの一般的な説であったが、この「関東里」を用いても、稲村ヶ崎と小動岬との間は7里に満たない。近年に「これは鶴岡八幡宮と腰越の間の距離であり、『浜七里』と呼んだ」とする説が出された。密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に7里の腰越までが浜七里だという。そして、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向に野七里という地名が現存する(横浜市栄区)。 八幡宮からこの野七里までの直線距離は、関東里の7里に満たない。また、間に険阻な丘陵がある。朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる。
背後に三浦丘陵の第三紀層の海食崖を背負い、狭い砂浜海岸に見えるが、いわゆる遠浅の海岸ではなく、海底には海食台が発達する。そのために複雑な波が立ち、サーフィンは適するが海水浴は適さず、港湾設置も困難である。
かつては、海食崖に直接波が打ち寄せる険阻な地形のため、交通は困難であった。奈良〜平安時代の鎌倉には、現在の鎌倉駅西方に
鎌倉幕府が開かれると、忍性により極楽寺の再興と共に極楽寺坂切通しが整備され、上方と結ぶ重要なルートとなった。
文永8年(1271年) -
元弘3年 / 正慶2年(1333年) - 鎌倉攻めの新田義貞軍が稲村ヶ崎の断崖の海岸伝いに鎌倉へ突入、この奇襲攻撃が功を奏して鎌倉幕府の滅亡に繋がったという言い伝えは余りにも有名である。
応永16年(1409年)7月22日 - 義貞の孫の新田貞方が、侍所千葉兼胤に捕らわれ、七里ヶ浜で嫡子の貞邦と共に斬られる。
明応7年8月25日(1498年9月11日) - 明応地震による大津波が来襲。大仏殿(高徳院)流失の記録があるので、七里ヶ浜の損害も大きかったと思われる。
元禄16年11月23日(1703年12月31日) - 元禄地震による大津波が来襲。大仏殿が流失している。
喜多川はバカップルが車から離れないか期待した。そうすれば盗聴器を仕掛けられて、浮気相手の名前が分かるかも知れない。が、そんなに甘くは行かなかった。
日付が変わる前に男は成美を北鎌倉にある彼女の自宅に送り届けた。
3月9日
さいたま地方裁判所、2015年9月に発生した熊谷連続殺人事件のペルー人被告人に対し死刑判決。
北鎌倉の山ノ内は、森林に覆われた低めの丘陵地にあるエリア。重要な禅寺へと続く道がある。建長寺は、荘厳なお堂や、静かな庭園、富士見台がある大規模な複合施設。明月院は、撮影スポットとして有名な円窓があり、初夏にはアジサイの花々が咲き乱れる。比較的混雑の少ない円覚寺は、2 階建ての三門や、眺めの良い茶室があり、初心者向けの座禅会が開かれる。
成美はドッグトレーナーをしていた。家庭で飼われている犬のしつけ・世話を請け負うのが仕事だ。犬のしつけだけでなく、飼い主にしつけの指導を行うのもドッグトレーナーの大切な仕事だ。
広々とした庭をコーギーやチワワが駆けずり回っている。
北鎌倉駅の改札を抜けるとすぐに
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。
成美は浮気相手と黄昏の境内でキスを交わした。
「マサキ、好きよ」
あの男の名前はマサキというらしい。
雅紀?正樹?政樹?
3月13日 - 森林総合研究所、日本のサクラ属の基本野生種としては1915年にオオシマザクラが発見・命名されて以来約103年ぶりの新種のサクラをクマノザクラを命名、同種に関する研究論文が日本植物分類学会発行の『Acta Phytotaxonomica et Geobotanica誌 69巻2号』(2018年6月下旬発行)に掲載受理されたことで、クマノザクラの発見を報道発表。
成美の浮気相手の正体が
葉山は極楽寺近くに住んでいる。
極楽寺は、永禄4年(1561年)成立の『極楽寺縁起』によれば、当時はもと深沢(現・鎌倉市西部)にあった念仏系の寺院(開山は正永和尚)を、正元元年(1259年)、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」ともいうべき場所になっていたためとの指摘がある。北条重時は、北条義時(鎌倉幕府2代執権)の三男で、北条泰時(3代執権)の弟にあたる。重時は六波羅探題として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後に鎌倉に戻り、宝治元年(1247年)から鎌倉幕府の連署として5代執権北条時頼を補佐した。康元元年(1256年)には剃髪して仏門に入り、観覚と号している。弘長元年(1261年)に重時が没した後は、その子の北条長時(鎌倉幕府6代執権)ならびに北条業時が父の遺志を継いで、極楽寺の伽藍を整備したという。また、『極楽寺由緒沿革書』という別の縁起には永久年間(1113 - 1118年)、僧勝覚の創建とするなど、寺の起源には諸説あって必ずしも明らかでない。重時は「極楽寺殿」と称され、その系統は極楽寺流と呼ばれた。
史書『吾妻鏡』には、弘長元年(1261年)4月、北条重時が時の将軍・宗尊親王を「極楽寺新造山荘」に招き、笠懸(馬上から的を射る競技)を行ったとの記事があり、この時点での極楽寺の存在と重時との関係が確認できる。重時は同じ弘長元年の11月に没した。
極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。
『吾妻鏡』によると、重時の3回忌法要は、弘長3年(1263年)極楽寺において西山浄土宗の僧である宗観房を導師として行われている。このことから、弘長3年の時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(文永4年・1267年)によって真言律宗に改宗したとする説がある。しかしながら、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)に建長7年(1255年)の年記とともに「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたと見る意見もある。
極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。
江ノ島電鉄極楽寺駅近くに茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、転法輪殿(宝物館)、茶屋などが建つ。本堂前には忍性が薬作りに使ったとされる石鉢と石臼がある。本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ケ崎小学校があるが、同校の校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立つ。
喜多川は葉山の姿と屋敷をスマホで撮影した。以前は一眼レフカメラを使っていたが、怪しまれるので写メに変更した。
3月16日
北海道北見市北見保健所、同市内の居酒屋を同月8-10日の間に利用した12団体219人中115人が食中毒症状を訴え、ノロウイルスが検出されたことを発表、同店舗に対し同日より5日間の営業停止処分。
午後8時、北鎌倉の高坂邸の暖炉の間で、葉山将生は成美が首から血を流して倒れているのを発見した。
葉山は性欲が溜まり、成美を後ろから攻めたいと思って彼女のもとを訪れた。
午後8時半、搬送先の病院で死亡が確認される。
午後9時、鎌倉警察署刑事課の
霊安室で号泣する葉山の背中を擦った。
「お辛かったでしょう?」
「罰が当たったんですかね?」
「ど、どういう意味ですか?」
「成美には恋人がいたんです」
その恋人というのが脱獄犯、姉川勘吉だと知って脇坂は呆然とした。
「彼女を殺したのはきっと、姉川です」
葉山は脇坂の顔を見ながら言った。葉山は彼が若い頃の
ハンフリー・ボガートに心酔し、自らボギーと呼んでほしいと頼み込むが、ボス(石原裕次郎)からはゴルフのボギーだと釘をさされ、先輩の西條(神田正輝)からは「イチ」または「いっちゃん」と呼ばれていた。
猪突猛進の熱血漢で情にもろく、また赴任早々、西條が自分より先輩、原(三田村邦彦)が同期、竹本(渡辺徹)が後輩だと分かった途端にそれぞれに対する態度が一変してしまうなど単純で体育会系な面も併せ持つ。ゴリさんとはたったの5回しか共演できていない。いざという時の為に警察無線の受信機を搭載した自家用車ルノー16で捜査活動を行う。
広島カープの大ファンで、巨人ファンの西條とは野球談義で口論になる時もある。演歌を好む。
1984年(昭和59年)4月、射殺犯とその婚約者を自分の意思で国外に逃がしたため、自らを刑事失格と断じ、責任を取る形で運転中の警察無線から藤堂に退職の意思を伝え、そのまま単身で事件の背後にいる組織と決着をつけようするが、その志も叶わず、縁日の人混みの中で通りすがりを装った組織の男(山西道広)たちに刺殺される。その際、事件解決につながるダイイングメッセージを仲間に遺した。
3月17日午前7時
脇坂は姉川の故郷の犬堂村にやって来た。
この村には奇妙な言い伝えが残る。
大きな風呂敷包みを背負い、下校路などに老婆が出現する。通りかかる者に「足いらんかえ?」と尋ね、「いいえ」と答えれば、怪力で足をもぎ取られ、「はい」と答えれば、余分な足を1本付けられる、というもの。
「はい」「いいえ」どちらの返答でも不幸な結末を迎えることになり、唯一助かる方法は「私はいらないので、○○のところへ行ってください」と答えることだという。荷車を引きながら、学校の4階のトイレなどに出現するという説もある。
姉川の実家は廃墟と化して、カラスが群がっている。中に入ったが誰もいなかった。
午後10時、横須賀のビジネスホテルで、葉山将生が殺される。彼の頭は完全に叩き潰されていた。しかし傍らに落ちていたハンマーは小さいもので、頭蓋骨が胴体や地面にめり込むほどの威力で砕かれていた。
遺体を見た神奈川県警の
神奈川県南東部に位置する三浦半島の大部分を占め、市域の東側は東京湾(浦賀水道)、西側は相模湾に面する。東京湾唯一の自然島である猿島も行政区域に含まれる。行政区域内標高の最高点は大楠山の標高242mであり三浦半島の最高峰となっている。それほど標高が高い山はないが、中央部は山間部や急峻な丘陵部(三浦丘陵)が中心で平地は少ない。そのため、古くから海岸線の埋め立てが行われており、現在の中心市街地(京急の横須賀中央駅周辺)も大部分が埋立地にある。また、海岸沿いまで山が迫る地形のためトンネルが多いのも特徴で、神奈川県にある道路・鉄道トンネルのおよそ半数が市内に集中している。直下には三浦半島断層群が所在している。
市内の行政・経済的都市機能が集中する東京湾岸には大工場や住宅群がひしめきあうが、相模湾岸には自然が多く残され農業も盛んである。市内中心部から東京都心までは京急本線で約1時間の距離で、JR横須賀線では約1時間10分かかる。また横浜横須賀道路など地域高規格道路が整備されており、車では東京国際空港まで約1時間、東京都心へは1時間15分程度となっている。
東京湾の入口に位置するため江戸時代から国防の拠点とされ、大日本帝国海軍横須賀鎮守府を擁する軍港都市(軍都)として栄えた。現在もアメリカ海軍第7艦隊・横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊および陸上自衛隊武山駐屯地・久里浜駐屯地や航空自衛隊武山分屯基地などの基地が置かれており、現在でもかつての軍都・軍港としての名残を多く残す。また自衛隊関係の教育施設(防衛大学校、陸上自衛隊高等工科学校)も置かれている。
三浦丘陵に位置するため地形が山がちという地理的要因から、今後大きな人口増加は望めないため、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加、そして「また来てもらえる街」をめざしている。施策として横須賀リサーチパーク (YRP) 開設やよこすか海辺ニュータウンの開発、高等教育機関(神奈川県立保健福祉大学、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致、海軍カレー、ヨコスカネイビーバーガー(ご当地バーガー)による街興し、異国情緒漂うどぶ板通り、映画撮影や市内が登場するアニメ作品の誘致やタイアップ企画、ヴェルニー公園(1万メートルプロムナード計画の起点)、三笠公園、くりはま花の国、長井海の手公園 ソレイユの丘、横須賀美術館等、観光施設の整備などが積極的に行われている。
約3万年前(旧石器時代)に遡る石器や29000年以前に作られた長方形の落とし穴列が船久保遺跡で発見されている。縄文時代に入ると生活の跡である貝塚も市内に散見されるようになる。古墳時代には小規模ながら古墳がつくられ、奈良時代中ごろまでは相模国から上総国へと抜ける古東海道が通じていた。
市内公郷の宗元寺(曹源寺)は県内屈指の古刹であり、三浦郡の行政の中心地であったともいわれる。中世には三浦氏、後に相模三浦氏が一帯を支配するようになるが、戦国時代に北条氏により滅亡、その後徳川家康の領地となる。江戸時代に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や奉行所がおかれた。1720年(享保5年)に浦賀奉行所が置かれて以降は浦賀が商業地として栄えた。
幕末には黒船来航の地となり、観音埼灯台の点灯、横須賀製鉄所や横須賀鎮守府設置、横須賀線の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次いで2番目に市制施行を果たした。昭和時代に入ると大日本帝国海軍の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では昭和の大合併に伴う市町村合併は行われていない。
戦後はアメリカ軍や自衛隊が駐留する一方、東京や横浜など首都圏のベッドタウンとして発展した。
午後11時、姉川は観音埼灯台にやって来た。街の灯が涙で滲んだ。何でこんな事になってしまったのだろう。成美も葉山も姉川が殺した。
三浦半島東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する。対岸の房総半島富津岬までは約7kmである。付近は「県立観音崎公園」として整備され、観音埼灯台が立地するほか旧日本陸軍が明治10年代から20年代にかけて建設した砲台と弾薬庫跡が多く残る。園内にはこのほか1953年創立の観音崎自然博物館があり、横須賀美術館が2007年(平成19年)4月に開館した。園内には墓と見られる多くの横穴が崖にみられる。また、海上保安庁東京湾海上交通センターの観音埼レーダー施設も公園内にある。
観音崎海水浴場が隣接しており、夏季は海水浴客で賑わう。他に京急の観音崎京急ホテルや海上自衛隊観音崎礼砲台がある。
姉川は今川、戸田、成美、葉山の4人を殺して
『絵本百物語』の本文には、以下のような伝承が述べられている。
鎌倉時代中期の寛元年間。小三太、又重、悪五郎という3人の武士がいた。伊豆の真鶴の祭の日、酒の勢いで3人が口論となり、やがて刀の斬り合いとなった。
怪力を誇る五郎が小三太を斬り捨て、さらに又重を斬ろうとするが、又重は山中へ逃げ去った。五郎は小三太の首を切った後に又重を追いかけた。又重は斬り合いに応じたところ、五郎がつまづいて転んだので、隙をついて五郎を斬りつけた。五郎は斬られてなお起き上がって又重に立ち向かった。2人は組み合っている内に足場を踏み外し、海に転げ落ちた。水中で2人は互いの首に刀を当てて、2つの首が切り落とされた。首だけになっても2人は水中で争い続け、又重の首が五郎の首に噛み付こうとしたとき、そこへ斬り落とされた小三太の首が躍り出て五郎の首に噛み付いた。
こうしてこの海では3人の首が食い争い、夜には火炎を吹き、昼には海上に巴模様の波を起こしたので、巴が淵と名づけられたという。
3月19日 - 日本年金機構が約500万人分の受給者のデータ入力を委託した東京都内の情報処理会社「SAY企画」が、機構との契約で別業者への再委託は禁止されていたにもかかわらず、中国の業者に個人情報の入力業務を再委託していたことが判明。翌20日、水島藤一郎日本年金機構理事長が陳謝、3月中に開始予定だった自治体とのマイナンバー連携延期の見通しを発表、同時に、再委託の他にデータ入力ミス等が発覚した「SAY企画」を同日より3年間指名停止処分。
俺は大学時代の友人たちと久々にワイワイすることにした。鎌倉に住んでる喜多川の家に行くことになった。
午前7時、嵐山駅の隣りにあるつきのわ駅前に向かった。駅周辺は東武鉄道による分譲住宅地「フランサ」を中心に、宅地造成が相次いでいる。それに合わせて店舗等も徐々に増えつつある。
南口のロータリーにN-BOXを停めた。スーパーきのヤオコーやファッションセンターしまむら 、ケーヨーデイツーなどがある。
虹子がパタパタと走ってくる。
「待ったぁ?」
「いや、全然」
「うわっ、海みたいな匂い」
「ファブリーズしたんだ」
エアコンに取りつけるタイプだ。虹子が助手席に座った。何か変な気分だ。付き合っていたときはよくドライブしたが、何だか照れる。
交差点を左折して唐子バイパスに入る。カーステからはサザンオールスターズの『愛の言霊』が流れてる。ガキの頃に『透明人間』っていうサスペンスドラマがやってたが、その主題歌だった。香取慎吾や深津絵里が出てた。関越自動車道に入り、鶴ヶ島ジャンクションで左車線を使用し八王子方面圏央道
の標識に従う。サザンの『君だけに夢をもう一度』って歌に虹子はノッていた。
高速をぶっ飛ばした。
鎌倉までは2時間くらいかかった。鎌倉文学館ってところに入った。神奈川県鎌倉市長谷にある鎌倉ゆかりの文学、特に鎌倉文士をテーマにした鎌倉市立の資料館である。3階建てであるが、3階は木造であり非公開となっている。
豊かな自然と歴史的遺産を持つ鎌倉は、明治以降、多くの文学者が居住・滞在し、創作活動を行ったことで知られている。鎌倉にゆかりある文学者は、川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子ら300人以上に上る。常設展では、鎌倉ゆかりの作家の直筆原稿、手紙、愛用品等を展示し、4部構成で紹介している。
俺は芥川龍之介の作品が好きでよく読んだ。中でも『
唐王朝の洛陽の都。ある春の日の日暮れ、西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、今は乞食同然になっていた。
そんな彼を哀れんだ片眼眇(斜視)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。
3度目、西門の下に来た杜子春の心境には変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。
峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで、何があっても口をきいてはならないというのだ。虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も発しなかった。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れずに「お母さん」と一声叫んでしまった。
叫ぶと同時に杜子春は現実に戻される。洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい暮らしをすると言う杜子春に、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていったというあらすじ。
鎌倉市内には多くの遺跡(埋蔵文化財包蔵地)があり(特に鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている)、旧石器時代や縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡も発見されているが、旧石器~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、主に関谷や玉縄、大船地区などの市域北西部に分布し、柏尾川流域の台地上を中心に人々が住み始めたことが解っている。
弥生時代に入ると、縄文時代に引き続き市域北西部の柏尾川水系の丘陵地や台地上に集落遺跡の分布が見られるが、弥生時代中期後半からは水稲耕作の場を求めて鎌倉中心部である滑川の沖積低地部にも人々が進出し、低地北側(滑川上流)の大倉幕府周辺遺跡群に竪穴住居群(集落跡)が現れ、弥生時代末頃には由比ヶ浜沿岸の海岸砂丘帯に位置する由比ヶ浜南遺跡や長谷小路周辺遺跡などでも弥生時代の集落が営まれるようになる。
古墳時代末(6世紀頃)になると、鎌倉から三浦半島にかけては『古事記』に見える「
また海岸砂丘帯の長谷小路周辺遺跡では、横須賀市などの海辺でも見られる箱式石棺墓が発見されており、由比ヶ浜一帯で海洋民集団が活動していたと推定されている。
奈良時代の律令体制下では、鎌倉は相模国鎌倉郡の郡衙(郡役所)が置かれ、行政の中心となった。現在の御成小学校を中心とする今小路西遺跡では、整然と建ち並ぶ大型の掘立柱建物跡が検出され、納めた租税を書き付けた「天平5年(733年)」銘の木簡が出土したことから、鎌倉郡衙跡であることが判明した。
現在市内には、杉本寺、長谷寺、甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える寺社が存在するが、実際に今小路西遺跡(旧・千葉地遺跡)や若宮大路周辺遺跡群(旧・千葉地東遺跡)では古代瓦が出土しており、古代寺院(千葉地廃寺)が存在していたことを示唆している。
また、万葉集にも登場し、三浦半島(相模国)から海路を通じて房総半島(下総国)へ向かう古代の東海道が通っていた。由比ヶ浜の由比ガ浜中世集団墓地遺跡では、漁労具を伴う奈良・平安時代の集落遺跡や、祭祀に用いられた卜骨が出土しており、古墳時代に続き、古代においても沿岸部では海と関わる人々の生活が続けられていた。
鎌倉は、比較的古くから人々が居住して古代には郡衙が置かれ、古東海道の中間地点として伊豆半島~房総半島を繋ぐ海上交通と物流の要衝と考えらている。
また、鶴岡八幡宮の敷地に関しても、1982年(昭和57年)の発掘調査で土葬の遺骨や寺院の遺構と思われるものが発見されている。
なお、蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。これは鎌足の末裔である藤原頼経が将軍の地位に就いた鎌倉時代中期以後に成立した伝説とみられ、史実ではないが、中世から近世にかけて多くの地誌に採録されて広く信じられていた。
平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった。『陸奥話記』などの軍記物語には頼信の息子である源頼義の武勇にほれ込んだ平直方が頼義を娘婿に迎えて鎌倉を譲ったと伝えている。歴史学者の川合康は、頼信父子も直方も京都を本拠とする軍事貴族であり、直方が京都において頼義を娘婿に迎えた後に相模守に任じられた頼義のために鎌倉にあった所領を譲ったのではないかと推測している。
また長谷寺、甘縄神社、御霊神社、星井寺、元八幡宮、荏柄天神社、もしくはその前身が創建されたと縁起などに基づき考えられている。
康平6年(1063年)に清和源氏の棟梁の源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏の氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。この年は、頼義が陸奥の安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。これが今も鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の起源である。
それから1世紀以上経た治承4年(1180年)、頼義の玄孫である源頼朝が鎌倉入りした。頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平の大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、平治の乱(平治元年/1159年)で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる池禅尼の助命嘆願で許され、摂津源氏の源頼政一族の知行国でもある伊豆の蛭ヶ小島へ流された。それから20年後の治承4年(1180年)、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。現在の鶴岡八幡宮の東方、横国大附属鎌倉小学校校舎と校庭の境付近から清泉小学校あたりがその館跡で、ここは後に「大倉幕府(大倉御所)」と呼ばれるようになる。
同じ治承4年(1180年)、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地であり、「鶴岡」は地名ごと移動してきたことになる(なお、由比若宮の旧地には、今も「元八幡」という小社が残る)。以後、鶴岡八幡宮は鎌倉の象徴となり、都市計画は八幡宮を中心に行われた。寿永元年(1182年)には八幡宮の表参道が整備された。現在も鎌倉のメインストリートである若宮大路がそれである。当時、水田の中の道だった若宮大路は、石を積んで周囲の地面よりかさ上げする工事が行われた。
河内源氏の源頼朝の家の正系の将軍は3代で途絶え、3代将軍実朝が甥(実朝の兄である2代将軍頼家の子)の公暁に殺害されてからは、北条氏が実権を握ることになる。この当時(12世紀末~13世紀初頭)は、京都の中央政府(院政)の力も衰えておらず、中央(都、首都)と鎌倉の二元的支配体制であったが、承久3年(1221年)の承久の乱における幕府軍の勝利以後、鎌倉側の政治的優位は決定的となり、鎌倉は名実共に、日本の行政府所在地となったといえる。
北条氏は比企氏、三浦氏、和田氏など、ライバルとなるおそれのある一族を次々と滅ぼし、摂家将軍・親王将軍を名目的な将軍として擁立し、自らは執権として幕府機構を掌握した。3代執権・北条泰時の代には、幕政の中心となる将軍御所の所在地が大倉幕府から北条義時大倉亭内の二階堂大路仮御所を経て、宇都宮辻子幕府・若宮大路幕府へと移転している。
鎌倉幕府は13世紀中頃以降は元寇という大事件があったものの、政治体制は一応安定していた。13世紀後半には建長寺、円覚寺をはじめとする禅寺が建てられ、鎌倉大仏が造立され、鎌倉五山の成立や、日蓮が活躍するなど、仏教文化が大いに栄えた。
その後、元寇をきっかけに幕府財政は逼迫し、内管領の長崎氏の専横などで、地方では悪党が活動する。こうした中で後醍醐天皇は倒幕を企てる。元弘3年(1333年)、天皇の意を受けた新田義貞軍は鎌倉を陥落させ、北条高時ら一族と家臣は東勝寺合戦において自決し、鎌倉幕府は滅亡した。
11時半、喜多川邸にやって来た。ヒヨドリがピィピィ鳴いてる。
日本では里山や公園でよく見られる身近な野鳥の一つである。富山県砺波市の市の鳥に指定されている。
糖分を好むためか、ツバキやサクラなどの花にやってきて蜜を吸ったり、庭先にミカンやリンゴなど果物の半切れを置いておくとすぐにやって来て独り占めする。 しかし、ときに集団で畑に現れキャベツやブロッコリー、イチゴ、ミカンなどの農作物を食い荒らすこともあり、農家には嫌われる。狩猟鳥の指定も、果樹を食害する農業害鳥である本種を煩瑣な手続きなしで駆除できるよう配慮したものである。
仔飼いにすると非常によく慣れ、飼い主を見分けることから平安時代は貴族の間で盛んに飼われた。古今著聞集などにその記述があり、現在の競走馬のように個体名が付けられ愛玩されたようである。
一ノ谷の戦いで知られる鵯越はヒヨドリの渡りの場所だったことから呼ばれていた。
チャイムを押そうとしてると後ろから喜多川がやって来た。彼の右手は恋人と手をつないでいて、左手にはコンビニの袋を持っていた。
恋人の名は
リビングで『ミスタービーン』のDVDを見ながらカップ麺を食べた。
「一昨々日に高坂成美って女が殺された。その女は依頼人の恋人だったが、成美には葉山って浮気相手がいた。その葉山も一昨日、横須賀で殺された」
喜多川がチキンラーメンを食べながら説明した。
「私は犯人は依頼人だと睨んでいます」
美香が言った。彼女はどことなくソニンに似ている。俺は、CDのジャケットのソニンのエプロンから覗く横乳を思い出した。
依頼人の名前は工藤優というらしい。
「客にカップ麺振る舞うって、どーゆー神経してるんだ」
トイレに立ったとき俺はついボヤいた。
トイレから出て手を洗ってると虹子が入ろうと近づいてきた。
「美香さん、お腹に子供がいるんだって」
ミスタービーンがプールの飛び込みをビクビクしていて、ガキに落とされるのはメチャクチャウケた。
脳細胞が活性化してきた。
リビングに戻ると舌を火傷したと美香が騒いでいた。彼女はカレーヌードルを食べていた。
「喜多川、工藤の居場所が分かったぞ」
3月21日 - 三菱商事、2月21日から3月20日にかけ実施した三菱自動車に対する株式公開買い付け成立を発表、三菱自動車は三菱商事の持分法適用会社となる。
仕事があるから昨日の夕方、虹子は帰った。
暇なので俺は喜多川の手伝いをすることにした。
「見つけたらボコボコにしてやる」
喜多川は昔から情に熱い。
俺はN-BOXを疾駆させ、横須賀に向かった。身重の美香は自宅で待機してる。
午前11時半、横須賀市内の閑静な住宅地の中に位置した博物館にやって来た。横須賀市文化会館が隣接。展示物の多くは三浦半島地域ゆかりの品々。総合博物館であるため幅広い品々を観賞できるのが魅力である。
付属施設には馬堀自然教育園ってのがある。
1959年開設、面積は約3.8ha。タブノキやスダジイ、オオシマザクラなどの樹木が生い茂った山々を散策できる。園内の川には6種のホタルが生息している。
陸軍重砲兵学校の跡地に開設されており、かつての校庭の隅に「重砲兵発祥の地」という碑がある。
石碑の前に工藤はいた。
「あれ、探偵さんじゃないですか?」
工藤は振り返り、喜多川に言った。
「人殺しはいけないな、工藤さん……いや、姉川さん」
人差し指を突きつけながら俺は言った。
喜多川は姉川の頬にパンチを見舞った。
吹っ飛ぶと思ったが頬を擦るくらいだった。
「探偵ってのは嘘で本当はデカなのか?」
「いや、コイツは紛れもなく探偵ですよ。さらに言うと俺も刑事じゃない」
「じゃあ何だ?超能力者か?」
「俺は職を失って金に困ってる。金さえくれりゃあ匿ってやってもいい」
俺は実家で暮らしていたが、親父は生活費渡さないんなら出てけと殺生なことを言ってくる。失業給付もらっても税金や健康保険の支払いで、ほとんど手元には残らない。
「伊庭、犯罪者匿うと犯罪になるんだぞ?」
喜多川に言われなくたってそれくらいのこと知っていた。
「人を殴るってのも罪になるんじゃないのか?それに、自分のしたことを忘れたわけじゃないよな?」
大学時代、コイツはジャブに手を出した。俺はビビだからやらなかった。悪運がいいのかコイツは捕まらなかった。
「汚いぞ!」
俺は姉川から5万円を手に入れた。
3月22日 - ANAホールディングス、傘下の格安航空会社、ピーチ・アビエーションとバニラ・エアを2019年度末(2020年3月)までに統合、ブランドはピーチに統一する方針を発表。
俺は金沢文庫に出かけた。
金沢文庫は鎌倉時代中期(13世紀後半)において、金沢流北条氏の北条実時が金沢郷(現在の横浜市金沢区)に設けた文庫である。武家の文庫としては日本最古と紹介されることもある。近代になって復興され、現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立歴史博物館となっており、様々な所蔵品を保管・展示している。所在地は神奈川県横浜市金沢区金沢町142。
金沢(武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)は金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である。
鎌倉時代中期に幕府の要職を務めた北条実時は、鎌倉に下った明経道の清原教隆に漢籍訓読を学ぶ一方、嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しむ文化人であった。実時は金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、和漢の書を収集した。実時は晩年を金沢館で過ごしており、蔵書も金沢に移されたと考えられている。
文庫は実時の蔵書を母体に、顕時、貞顕、貞将の代に拡充された。特に実時の孫にあたる金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造している。
鎌倉幕府の滅亡に際して貞顕は自刃、貞将も戦死し、金沢氏は滅亡する。以後は称名寺が典籍類の管理を引き継いだが、次第に衰退していった。室町時代に関東管領の上杉憲実が再興したとも言われるが定かではない。後北条氏、徳川家康、前田綱紀らによっても多くの蔵書が持ち出され、「金沢文庫本」と呼ばれる典籍の多くは散逸した。
称名寺に伝来した美術品(絵画、彫刻、工芸)。金沢北条氏歴代の肖像画(実時・顕時・貞顕・貞将像、国宝)、忍性や審海の肖像画、木造釈迦如来立像、木造十大弟子立像、金銅製愛染明王坐像などの仏像、青磁壺、審海所用の密教法具などがある。
称名寺に伝来した古書として、『文選集注』(金沢文庫本)、『宋版一切経』、塔頭光明院にあった「称名寺聖教」(和漢の仏教書類で湛睿の稿本を含む)など。
1930年以降、聖教(称名寺聖教)が光明院から県立金沢文庫に移されて、調査・研究が行われた。古書の紙背から金沢貞顕書状などの貴重な史料が見つかり、重要なものは抜き出され、古文書の形に整理された。他に称名寺の荘園関係文書など[20]もあり、約4000点の古文書(金沢文庫文書)が1990年に重要文化財に指定された。その後、聖教と合わせて「称名寺聖教・金沢文庫文書」として国宝に指定されている。
なお、県立金沢文庫が刊行した『金沢文庫古文書』には、文化財指定された古文書約4000点以外に、寺外に流出した文書、寄贈された近世文書なども収録している。
県立金沢文庫が収集した郷土資料として、金沢八景や神奈川県下の名所絵、県下でおこった出来事を描いた歴史絵、横浜絵などの浮世絵がある。金沢北条氏とゆかりのある吉田兼好、『徒然草』関係のコレクションなどもある。
施設を出ると神澤や谷村の生首が踊っていたので、腰を抜かしそうになった。
お参りとかした方がいいのかな?
3月24日 - 8時10分頃、関西国際空港から福岡空港に到着したピーチ・アビエーションのエアバスA320が、着陸した際に前輪がパンクし滑走路上で立ち往生、滑走路が約2時間半に亘り閉鎖され、82便が欠航、22便が到着地変更などの影響。国土交通省運輸安全委員会が当事故を重大インシデントに認定。
俺は鎌倉郊外の廃墟に姉川を監禁していた。
「葉山ってどうやって殺したんだ?」
「自分でも信じられないくらい怪力が出た」
姉川は不思議な力士の人形をズボンのポケットに入れてるらしい。姉川家に昔から伝わるアイテムらしい。さらに魔の玉も持っているそうだ。
「SATとか乗り込んで来たらマズいな」
俺は『踊る大捜査線』を思い出して身震いした。SATは犯人を射殺することもあるらしい。
姉川を監禁するのは簡単だった。睡眠薬飲ませて、手錠をかけた。脇坂という協力者もいる。彼は亡くなった戸田の叔父だ。
「脇坂さん、コイツがおかしな真似したら容赦なく撃ってください」
「まさか、手錠を外すのか?」
俺は頷いた。脇坂はホルスターから回転式拳銃を抜いて、姉川に向けた。
日本における一般的な警察官の手錠は以前はニッケルめっきされた鋼鉄製の重厚なものであったが、容疑者を拘束するのは事実上捜査員のみになっており、制服警官は現行犯逮捕でもしない限りほとんど使用する機会がないため、拳銃・警棒と共に装備軽量化が図られ黒色アルミ合金製の物に変更された(状況によっては予備弾や無線機まで持たねばならないわけで、フル装備になると帯革も含めたその重さで腰痛を患う者が続出したという。旧形式の帯革が負革付きで、更に冬上着には支えの金属フックまで縫い付けられていたのはこのため)。しかし簡単にペンチやニッパーなど市販の工具で破壊できるようになり、凶悪犯や外国人犯罪者に対して通常逮捕(逮捕状の執行)に行く場合などは旧型手錠に捕縛紐を付けたものが使われる事もある(現行アルミ手錠も鎖は鋼鉄製)。
日本で採用されている手錠の構造は、諸外国のものとはかなり違い、非常に珍しいものである。現在海外で使用されている手錠はラチェット式(可動部のギザギザが返しとなってロックする)のシンプルな構造なのに対し、日本で使用されている手錠はロータリーロッキング式(可動部に穴(窪み)があり機関部内の歯車とかみ合うことでロックする)を採用した複雑な構造である。日本はこの構造で特許を取っている。
俺は手錠のロックを外し、姉川を自由にさせた。
姉川は右のポケットから魔の玉、左のポケットから人形を出して俺に渡した。
俺は再び手錠を姉川に掛けた。
魔の玉は2つも必要ないので脇坂に渡した。
人形はジャンケンで勝った方がもらうことにした。俺がチョキ、脇坂がパーだった。
「ケンの恨みだ」
ボロボロのソファに横たわってる姉川の顔面を脇坂は殴った。
両手が塞がっているので介助なしには起き上がることも出来ない。
14時頃に俺は室内で馬乗りになって姉川の首を両手で絞め、姉川を殺害した。室内にカーペット・ビニールシートなどを敷き、部屋にあったのこぎり・包丁などで姉川の遺体をバラバラに切断し、段ボール箱に入れてレンタカーで運び遺棄した。
🔖伊庭才太郎 妖怪召喚まで残り1人
3月26日 - 『魔女の宅急便』などを書いた絵本作家の角野栄子が、児童文学を対象に贈られる国際アンデルセン賞の作家賞に選ばれた。日本人としては3人目の受賞者となる。
平手美香は喜多川と故郷の山形県米沢市を尋ねた。両親に子供が出来たことを報告し、喜多川を紹介した。こっ酷く叱られたが、手は上げなかった。
「美香をよろしく頼みましたぞ」
美香の父親は昔気質で頑固なところがある。
帰り際、米沢城跡によった。長井氏および伊達氏の本拠地であり、江戸時代は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれていた。2017年には続日本100名城に選定された。
城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城である。10基の櫓と17棟の門が開かれた。上杉氏による築城(大改修)当時は30万石の大名の居城であって、石垣は少なく、土塁を多用し、天守は構えられず、本丸に東北隅と西北隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用(御三階)としていた。他に二層櫓が複数あり。
現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)がある。
また米沢図書館には享保10年(1725年)と文化8年(1811年)の米沢城城下絵図が所蔵されている。
上杉景勝は、上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。
豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石(『上杉家記』では120万1,200石余、上方の在京領は除く)を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は石田三成ら西軍に付き敗北した。戦後に、徳川家康から上杉家の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。
美香と喜多川は三ノ丸土塁と西條天満神社に行った。 粗町公園として整備。本殿と拝殿の建物が残る。「三ノ丸北東隅社が、明治政府の破城令を免れ遺されている」旨の石碑と案内板がある。
宝箱を見つけた。宝箱を開けると鳥のマークが描かれたカードが入っていた。美香は盗作が自由になった。
3月27日 - 衆参両院の予算委員会で、学校法人『
薬師寺雷丸は、大学卒業後は音楽の道に進もうと思ったが、親に反対されてグレた。仕方なくコンビニのバイトで食い繋いでいた。
今年の2月、つくばにある実験施設に忍び込みタイムマシンを奪った。ヘリコプタータイプの奴で、1943とボタンを押すと、1943年2月1日にタイムスリップした。
この日はガダルカナル島から日本軍か撤退したり(以後4日および7日に実施)、電力および電灯の使用規制が始まったり、香川県内の無尽会社5社が合併し、香川無尽設立(後の香川銀行)した。
雷丸は米兵につかまり、ドイツ人に変装し軍部に潜入した。コードネームはツィーゲ。ドイツ語でヤギを意味する。
雷丸は太平洋戦争がいつはじまったのかも分からず平々凡々と生きていた。知っていても意味がないからだ。
1941年12月8日 〜 1945年8月15日。
枢軸国は、大日本帝国・タイ王国・フランス国
・汪兆銘政権・自由インド・ビルマ国など。対する連合国はアメリカ合衆国・イギリス帝国・中華民国・ソビエト連邦など。
ドイツやイタリアは大日本帝国を支援していた。
1943年
2月2日 - スターリングラード攻防戦でソ連軍(赤軍)に包囲されていたドイツ第6軍が降伏。
2月11日 - アメリカ軍のドワイト・D・アイゼンハワー将軍がヨーロッパにおける連合軍の司令官に任命。
2月13日 - 日本野球連盟による「戦士の実施要綱」の通達。
2月18日
ナチスによって「白いバラ」運動のメンバーが逮捕される。
ゲッベルス独宣伝相がベルリンのシュポルトパラストで行った演説で総力戦を宣言(総力戦演説)。
2月23日 - 帝国陸軍によるポスター「撃ちてし止まむ」5万枚配付。
3月1日 - 静岡三十五銀行と遠州銀行が合併し、静岡銀行設立。
3月2日
兵役法改正公布、8月1日施行。
敵性語追放:野球用語(ストライク、ボールなど)が全面的に日本語化。
3月4日 - アメリカで第15回アカデミー賞授賞式。「ミニヴァー夫人」が最優秀作品賞など6部門を受賞。
3月6日 - 北海道倶知安町布袋座で大火災発生。
3月10日 - ブラジルの大手銀行、バンコ・ブラデスコがサンパウロで設立。
3月12日 - 石油専売法公布
3月15日 - 大阪商科大学名和統一教授ら治安維持法違反で検挙(大阪商科大事件)
3月18日 - 内閣総理大臣の権限強化などを含む戦時行政特例法・戦時行政職権特例等公布
3月25日 - 日本初の国産長編アニメ映画「桃太郎の海鷲」が公開される。
3月27日 - 三井・第一銀行合併して帝国銀行設立する。
雷丸はプロペラ機でバミューダトライアングルを飛んでいた。フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域。古くより船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが跡かたなく消える事故が多発。
宇宙人がUFOを使い、航空機や船舶そのものや乗客・乗員をさらったという説もUFOブームが起きた1940年代後半以降一時盛んに取り沙汰されていたが、これを証明するような証拠が何もない上に、もし本当に宇宙人やUFOが実存していたとしても、なぜこの場所を選んでさらう必要があるのか証明されていないばかりか、さらわれたはずの航空機の残骸と搭乗員の遺体が発見されるなど、辻褄が合わないことがほとんどである。
また、バミューダ海域には宇宙で見られるようなブラックホールが密かに存在し異世界と通じていて、それに飲み込まれてしまうと戻れなくなるのだろうという説もある。
雷丸はヒヤッとした。コンパスや計器に異常が起きた。確かこの辺は、『魔の三角地帯』とも呼ばれている。特に1945年12月5日にアメリカ海軍のアヴェンジャー雷撃機5機14名(訓練生13名と教官1名)が訓練飛行中に消息を絶ったのは有名だ。
俺、死ぬのかな?XF5Uは不思議な渦に飲み込まれた。
3月28日
沖縄県を訪問中の明仁天皇、美智子皇后夫妻、今上天皇として初となる与那国島訪問。
原子力規制委員会が日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉計画を認可。
俺はハローワークに出かけ、『沼津探偵事務所』ってところに応募することになった。実家の近くまで歩きでやって来た。西に日が傾きはじめている。車はガソリン食うからあまり乗らないようにしてる。上空にプロペラ機が現れたので腰を抜かした。
俺は機銃で撃たれたが何故か死ななかった。
そういえば、恵美が
元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。
長享2年(1488年)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。
その後は、天文15年(1546年)の河越夜戦以降にこの地域に進出した後北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。
俺が機銃で撃たれたとき、恵美は魔法を使って幼稚園近くに現れたゾンビを倒した。🧟
恵美が左手の親指を舐めるとゾンビが氷結した。
相方が妖怪を倒すと、倒してから1日は不死身になれるのだ。恵美がゾンビを倒したのは16時33分だ。
恵美は修にスマホで電話して迎えに来てもらった。「パパ、怖かったよぉ」
修は幼稚園の庭で恵美を抱きしめた。
「もう、怪物出てこないかな?」
「パパがいるから大丈夫」
3月29日 - 東京都千代田区有楽町、旧三信ビルディング、日比谷三井ビルディング跡地に、地上35階建の高層ビルを含む複合商業施設東京ミッドタウン日比谷開業。
コウモリが爆弾を首からぶら下げて現れた。爆弾の正体は焼夷弾、爆発すると大きく燃え上がる。夜行性のコウモリは夜が明けると暗い場所に隠れるという習性がある。タイマー式の焼夷弾を取り付け、夜明け前に爆撃機から投下、コウモリが民家に隠れてタイマーが爆発するという算段だ。
計画をしたのは薬師寺だが、才太郎はそのことに気づいていない。面接はまだ受けていない。イライラしていた、だからIQは下がっていたのかも知れない。
俺は眼科で治療を受けていた。何故か平手美香が女医で、彼女は俺の目に納豆をぶっかけた。
ドリフみたいな夢だったので、俺は起きてから爆笑した。もしかしたら、俺を襲ったのは薬師寺かも知れない。
ドドンッ!!爆音がした。一瞬、花火かと思ったが違う。両親は伊勢志摩に旅行に出かけてる。
すぐ近くのコンビニから煙が上がっている。
俺は逃げ惑った。コウモリがアチコチを飛んでいる。路肩に捨てられたチャリのサドルに止まるなり、爆発した。💥
俺の肩に止まって爆発した。
「ウワッ!気持ち悪い!!」
コウモリは血塗れになったが、俺は死ななかった。
命からがら避難所となっている小学校へと向かった。体育館で虹子と偶然会った。
「だっ、大丈夫だった?」
俺は尋ねた。
虹子は恐怖で泣いたのか目が真っ赤だった。
「うん、何とか……」
「朝ご飯は食べた?」
「まだ」
「一緒に食べに行こう」
「うん」
俺たちは少しだけよりを戻した。
被爆しなかった定食屋に向かった。俺は天丼、虹子はざるそばを頼んだ。お笑いの話をした。サンドイッチマンとか中川家とか。
腹が痛くなるほど笑った。
薬師寺の居場所がビビビッ!と分かった。
薬師寺は
都幾川は埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川である。越辺川の支流である。支流の槻川とともに入間川流域では最も北側を流れる。
正午過ぎ、俺は釣りをしている薬師寺を見つけた。バケツの中には魚が3尾。
薬師寺は俺の存在に気づくと逃げ出した。顔はケント・ギルバートみたいだが、本性は豊川悦司に似た薬師寺だ。
薬師寺は
当時、帝国陸軍の将校准士官が装備する護身用拳銃は軍服や軍刀などと同じく私物・自費調達の「軍装品」扱いであったため、FN ブローニングM1910(ブローニング拳銃)やコルト M1903などの外国製輸入拳銃約30種、日本製なら杉浦式自動拳銃などから各自が任意に調達していた。それら「軍装拳銃」は.32ACP弾を使用する拳銃(M1910・M1903・杉浦式など)が主流であったものの、中には.25ACP弾使用拳銃(FN M1906やモーゼル M1910など)など、使用実包(弾薬)も異なっており、またメンテナンス方法や使用部品もばらばらだったため、国産拳銃に統一しようという声が上がっていた。しかし当時南部式自動拳銃の小型版、南部式小型自動拳銃は7mm南部弾使用による威力不足や価格の高さなどで生産中止、また南部式自動拳銃(大型)ならびに陸軍制式の兵器である十四年式拳銃は大型拳銃のため将校用には不向きであった。そこで日本初の国産自動拳銃である南部式自動拳銃を開発した南部麒次郎は、陸軍制式である十四年式拳銃実包(8mm南部弾、8×22mm弾)を使用することにより実包の互換性を高め、機構の簡略化によりメンテナンス性を向上させた新型拳銃を開発し、これは1934年(昭和9年、皇紀2594年)12月12日に九四式拳銃として陸軍に準制式採用され、1935年(昭和10年)から量産が開始された。
以降、九四式拳銃は将校准士官のみならず、機甲部隊の機甲兵、航空部隊の空中勤務者(操縦者など)、空挺部隊(挺進連隊)の挺進兵など、小型拳銃を欲する特殊な兵種にも供給され盛んに使用された。なお本銃は上述の通り主に将校用の小型護身用拳銃として計画・採用されたものであり、主に下士官兵用の官給品たる十四年式拳銃の後続主力拳銃という位置づけではない。そのため九四式拳銃の採用・生産に平行して十四年式拳銃も引き続き生産されている。
作動方法は一見してそうはみえないが、ショートリコイル方式を採用している。そして、一見するとボルト作動式にみえるが、実はスライド作動式であるこの銃は当時、小型自動拳銃のノウハウのまったくない日本の技術陣が全く独自の、悪く言えば独善的な設計思想で完成させた拳銃で、ドイツのP-08、アメリカのM1911A1など他国の技術を全く無視した日本オリジナルの設計がなされている。
薬師寺は九四式拳銃をぶっ放し、俺は胸の辺りを撃たれたが痛くも痒くもなかった。
「うわぁ!化け物ぉ!!俺は虹子が好きだった、おまえに奪われて、ずっと恨んでた」
薬師寺は足が縺れたのか、浅瀬で躓いて倒れた。
俺は薬師寺にヘッドロックを掛けた。
ヘッドロックは、プロレス技の一種である。日本名は頭蓋骨固め。ヘッド・チャンスリーとも呼ばれる。単にヘッドロックと称する場合は相手の頭を脇に抱えて締め上げるサイド・ヘッドロックのことを指すことが多く、サイド・ヘッドロックはリバース・チャンスリー、サイド・チャンスリーとも呼ばれている。
俺はジャンバーのサイドポケットに力士の人形を入れていた。薬師寺の首はボキリと折れた。
🔖才太郎は妖怪を召喚できるようになった!
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