第2話 2018年2月
2月1日
中学生棋士の藤井聡太四段がこの日行われた第76期順位戦C級2組9回戦で梶浦宏孝四段を破りC級1組昇級を確定させ、規定により中学生初の五段に昇段。
日本人女性初の国際連合事務総長特別代表に水鳥真美が就任。
豊子は泣いていた。國男にも優しい面はあった。デートのときに傘を貸してくれたり、痴漢に襲われたら危ないと車で送ってくれたり。もう、2度と口も聞けない。
豊子は香川に移り住んでいた。綾川町、観音寺、まんのう町などいろんなところでうどんを食べた。
讃岐うどんはいりこ出汁がメインだ。冷たい出汁もナカナカだ。
今日は高松タウンにある平家物語歴史館に行った。平家の栄枯盛衰を描いた『平家物語』の17の場面を、リアルな蝋人形で再現している。坂本龍馬や正岡子規、大平正芳などの四国の偉人たちの人形もあった。
坂本龍馬は土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
正岡子規は伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。
1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。
1880年(明治13年)、旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、漢文を学ぶため赤坂丹後町の須田学舎や、受験英語のために共立学校(現・開成高等学校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。
松山中、共立学校で同級だった秋山真之とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。
大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「
短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。
同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。
大平 正芳は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位菊花大綬章。 池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。四十日抗争やハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。
2月5日 - 16時43分頃、佐賀県神埼市で、陸上自衛隊所属のAH-64Dヘリコプターが住宅に墜落。住宅2棟が炎上し、乗員1人が死亡、もう1人の乗員が行方不明となり、炎上した住宅に住む女子小学生が軽傷を負った。
豊子は屋島にあるうどん屋でバイトしていた。屋島の麓にある四国村に立っている。時代劇に出てくる町人の家みたいな建物だ。まるで水戸黄門の世界に迷い込んだみたいだ。
チンピラみたいな客が来たのは夜遅かった。
「いつまで待たせんだよ!」
モヒカン頭のチンピラががなっている。
「すみません」
豊子は頭を下げた。
「すみませんじゃなくて申し訳ございませんでしただろ?敬語の使い方も知らないのかい?」
70過ぎた女将さんに叱られた。
「女将さん、申し訳ございません」
「私じゃなくてお客様に謝りなさい」
「さっき謝りました」
「早く持ってこい!」
モヒカン頭が貧乏揺すりをはじめた。
豊子は釜玉を作り終え、モヒカン頭に提供した。
釜揚げを丼に手繰り入れ、卵、薬味、だしまたは醤油を混ぜて作られるうどん料理。メニューとしては綾川町の山越うどんが、発祥とされることがある。サッカーJ2のカマタマーレ讃岐の名称の由来にもなっている。
ぶん殴られるんじゃ?と、ビクビクしたが素早く食べ終え、「味は最高だから許してやる」と満足そうな顔をした。
2月6日 - 福井県を中心に大雪。福井市では1981年の五六豪雪以来の136cmの積雪を記録した。
豊子は昼休み、コンビニ弁当をスタッフルームで食べながらニュースを見ていた。今月の3日、埼玉県境町の民家で火災があり、焼け跡から
昨夜は丸亀で放火事件が発生した。
「最近物騒ね〜」
バイト仲間の
この夜もモヒカンは食べに来ていた。
モヒカンは湯だめを食べた。
冷水でしめて完成した玉を再度温めて湯に浸かった状態で供され、だしにつけて食べるうどん。
釜揚げうどんと対比されて使われる。最も古くからの食べ方で、夏期は冷水に入れて冷やしうどんとした。
2月7日
福島第一原子力発電所事故で避難指示区域となった福島県南相馬市小高区の住民321人が、「故郷の暮らしを奪われて精神的苦痛を受けた」として東京電力に慰謝料など総額約110億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地方裁判所が東電に約11億円の支払いを命じた。
「一票の格差」が最大1.98倍だった第48回衆議院議員総選挙は憲法違反だとして、岐阜県、愛知県、三重県の住民らが選挙の無効確認を求めた訴訟の判決で、名古屋高等裁判所が格差を「違憲状態」と判断した。請求は棄却した。11件目の全国訴訟で初めて違憲判断が出た。
俺は神澤を殺してせいせいしていた。そーいや、2月4日に
吉見百穴は埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代後期の横穴墓群の遺跡。太平洋戦争下の地下軍需工場建設のために破壊された十数基を除いても、219基が現存している。1923年(大正12年)3月7日に国の史跡に指定された。
凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから、一見異様な印象を受ける遺跡である。穴の数は219個と言われ、このような遺跡としては日本一の規模である。穴の入り口は直径1メートル程度だが、内部はもう少し広くなっていることが多い。古墳時代後期(6世紀〜7世紀頃)に造られたものであり、他の多くの古墳が土を盛った小山の中に1つだけ玄室が存在する構造であるのに対し、岩山の表面から数メートルの小穴(古墳の玄室に相当するもの)を多数掘って造られた集合墳墓である。多くの穴に古墳と同様の台座状構造があり、ここに棺桶を安置したとされる。なお、台座は穴によっては複数存在しており、このような穴には家族単位で葬られたものと考えられている。多くの穴の入口の周囲には段差状の構造があり、ここには緑泥片岩という緑色の石で作られた板状の蓋がはめ込まれていた。これは後から穴を容易に開閉可能とするものとされ、複数の台座状構造と合わせて同一の穴に追葬が行われたことを示すものと考えられている。場所により穴の並びが整然、不規則と差がある。不規則な箇所は比較的初期に、整然と並んでいる箇所は後期に造られたものと考えられている。殆どの穴を自由に入り見学できるが、心ない者により損壊が行われた例もある。
岩山の下方には、ヒカリゴケが自生している穴がある。関東平野におけるヒカリゴケの自生地は非常に貴重であり、「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」として国の天然記念物に指定されている。近年は自生している穴の乾燥化が進み、ヒカリゴケが著しく減少したため、穴の中に水を満たした鉢を置いて湿度を保つ対策をしている。ヒカリゴケが自生している穴には鉄格子がはめられており入ることはできない。
太平洋戦争中、この岩山の地下に中島飛行機の地下軍需工場を建設するため、岩山の最下部に大きなトンネル(直径3メートルほど)が碁盤の目状に掘られ、その出入口として吉見百穴には3か所の坑口が掘り出された。また、吉見百穴のすぐそばを市野川が蛇行して流れていたが、軍需工場の前面に用地を確保するため、流路を西側へ移動する河川改修も合わせて行われた。この際、元から存在していた横穴が十数個崩されて消滅している。これらの軍用トンネルの内壁は、ほぼ素掘りのままとなっている。夏期は涼風が吹き出すことがある。軍用トンネルの奥は危険なため、途中から鉄柵で塞がれている。
俺は故郷の
どんよりとした黒い雲が岩殿丘陵の上に垂れ込めている。今にも雪が降りそうだ。
東武鉄道東上本線の駅、武蔵嵐山駅の西口に出た。
西口は駅開設当初からの出入口であり、駅前は狭いが、2000年代に入って旧駅舎跡にロータリーが設置された。周辺は、川越児玉往還(川越道)の菅谷宿時代からの市街地に位置しており、商店街がある。少し離れた国道254号線バイパス沿いにはロードサイド店舗が多数進出している。
「あれ、伊庭じゃないか?」
俺は『十七歳の地図』とか『僕が僕であるために』が好きだ。
「ケン、久しぶりだな?」
戸田とは高校時代、パソコン部で一緒だった。
2人ともマジメな生徒じゃなく、エロいDVD見たり、ゲームをやったりしてた。
俺は戸田の家で奴と話すことにした。
彼の家は商店街の中にある。彼の部屋で、あったかい紅茶を飲みながらくっちゃべった。
「ケン、おまえは今何やってるんだ?」
「門倉病院で働いてる」
「すげーじゃん、おまえ医者になったのか。俺はルシファー食品ってとこに派遣されてたが、最近派遣切りに遭ってな……」
俺はリュックから玉を出した。
「そーいや、こんな玉を見つけたんだ」
「おまえ、それどこで見つけた?」
「吉見百穴だけど……」
戸田は押し入れを開けて、ダンボール箱から何かを出した。🔮
「おまえ、それ……」
「友ヶ島って知ってるか?」
友ヶ島は、紀淡海峡に浮かぶ、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島の総称だ。
友ヶ島は大阪湾と紀伊水道を分ける紀淡海峡を塞ぐ形で立地し、東は紀伊半島、西は淡路島と対する。
紀淡海峡は地ノ島と沖ノ島により、「淡路島 - 『由良瀬戸』 - 沖ノ島 - 『中ノ瀬戸』 - 地ノ島 - 『加太ノ瀬戸』 - 紀伊半島」と三分されている。中でも由良瀬戸は、重要航路がひしめく要所。
虎島は、沖ノ島北東部に連なる陸繋島である。
さらに、地ノ島東端と沖ノ島西端には灯台がある。沖ノ島の灯台は明治初期に作られた歴史ある灯台であるが、今も現役で夜は周辺に光を照らしている。
灯台敷地内で灯台の西側広場に、日本標準時子午線の東経135度線が通っている。
明治時代、沖ノ島には大阪湾への外国艦隊の侵入を防ぐ目的で砲台が築造された。第二次世界大戦までは要塞施設として使われていたようだ。風化した防空壕の中で戸田は魔の玉を見つけたというのだ。
「けどさ、この玉ってどうやって使うんだろうね?」
紅茶を飲み干し、俺は尋ねた。
「人を殺すと怪物を召喚できるって噂だぞ」
2月9日
内閣総理大臣の安倍晋三が大韓民国・平昌郡で韓国大統領の文在寅と会談。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への圧力強化と慰安婦問題に関する合意の履行を求めた。また、会談後、平昌五輪の開会式に出席。
東京都内のホテル運営会社にNHKの受信契約の締結と受信料の支払いを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁判所第3小法廷(戸倉三郎裁判長)が運営会社側の上告を棄却し、同社にテレビ280台分の契約締結への承諾と10ヶ月分約620万円の支払いを命じた判決が確定した。事業者への受信料支払い義務を最高裁が命じた初めての判例となった。
豊子は女将から、あのモヒカンの名前が
また、女将の
「祖先の
藤左衛門の生年は1662年(寛文2)で、没年は1703年だ。藤左衛門は江戸城松の廊下での刃傷発生を赤穂に知らせる急使になった。
藤左衛門は討ち入りの際には表門組に配属された。彼は弓術の達人、星野勘左衛門に師事して弓術の奥義を極め、『弓矢にかけては浅野家随一!並ぶ者なし!』と称賛されたほどだ。騒ぎがはじまると、異変を知った吉良家の武士たちが、宿舎の長屋から出ようとした。藤左衛門は気配を感じるや矢継ぎ早に矢を射た。🏹
吉良家の武士たちは藤左衛門に射すくめられて戦闘不能になった。
討ち入り終了後、細川家のお預かりとなった藤左衛門は細川家家臣・
この日、夢子が失踪した。
2月11日午前7時
瑠璃宝の池とも呼ばれるこの池は、弘法大師がお経と宝珠を納めて池にしたとの伝説がある。その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから血の池と呼ばれるようになった。
同寺には化け狸伝説が残る。
その昔、あるタヌキが矢傷で死にかけたところを平重盛に助けられ、恩義から平家の守護を誓った。その子孫が太三郎狸といわれる。
平家の滅亡後は太三郎狸は屋島に住みつき、屋島に戦乱や凶事が起きそうなときはいち早く屋島寺住職に知らせたといい、そうした経緯で太三郎狸は屋島寺の守護神となった。その変化妙技は日本一と称され、やがて四国の狸の総大将の位にまで上り詰めた。大寒になると300匹の眷族が屋島に集まり、太三郎狸はかつて自分が見た源義経の八艘飛びや弓流しといった源平合戦の様子を幻術で見せたという。また屋島寺の住職が代替わりする際にも、寺内の庭園「雪の庭」を舞台とし、合戦の模様を住職の夢枕で再現してきたという。
屋島寺は唐の僧である鑑真による開創と伝えられるが、伝説ではその際に盲目のために難儀する鑑真を、太三郎狸が案内したといわれる。また空海(弘法大師)が四国八十八箇所の霊場を開創した頃、霧の深い山中で道に迷った空海を、老人に化けた太三郎狸が案内したともいう。鑑真や空海に感銘を受けた太三郎狸は狸の徳を高めるべく、屋島に教育の場を設け、全国から集まった若いタヌキたちに勉学を施していたともいう。
こうした空海などにまつわる伝説については、タヌキは野生や森、森の生物に神を見る古くからの信仰の象徴であり、そうした信仰と仏教が結びついたのであり、太三郎狸の伝説は神と仏の共存が開かれたことを示しているとの見方もある。
後に太三郎狸は猟師に撃たれて命を落とすが、死後の霊は阿波(後の徳島県)に移り棲み、人に憑くようになった。嘉永年間には阿波郡林村(現・阿波市)の髪結いの女性に憑き、吉凶を予言したり、狸憑きを落としていたといわれる。
また、江戸時代末期に起きたというタヌキたちの大戦争・阿波狸合戦の際、日開野村(後の小松島市)のタヌキが人に憑いて語ったところによれば、合戦で金長狸と六右衛門狸が相討ちとなった後、双方の2代目同士によって弔い合戦が行なわれようとしたところ、太三郎狸の仲裁によって事が収まったという。後に日清戦争・日露戦争では、太三郎狸は多くの子分たちと共に満州へ出征して活躍したといい、大量のアズキの粒を兵士に変えて敵陣に向かわせ、日本軍に勝利をもたらしたともいう。
午前10時
屋島警察署刑事課の
「刑事さんってどことなく
うどん屋のスタッフルームで女優の
「勝村政信ってドクターXやHEROに出てますよね?」
「うん」
「芽生菜さんって女将からマリハラ受けてたんです」
「マリハラ?」
「マリッジハラスメントですよ。『早く結婚しなさいよ〜』って年中言われてましたから」
午後1時
丸山は部下を引き連れて、芽生菜の住んでいる飯野山の麓にやって来た。
飯野山は、香川県の丸亀市と坂出市の境に位置する山である。別名を讃岐富士と呼び、讃岐七富士のひとつに数えられている。
讃岐平野にそびえ、近くには西に土器川、東に大束川が流れている。山が侵食によって、屋島のような台地状のメサと呼ばれる状態になり、その後さらに侵食が進み、ビュートと呼ばれる孤立した丘となった。麓付近は花崗岩で、中腹から上には硬い火山岩であるサヌカイト(安山岩の一種)で、山頂付近ではそのサヌカイトが風化した赤い粘土が堆積している。その整った形から地元住民の移動の目印となっている。
山麓には古くから飯依比古を祭る飯神社と坂元神社が鎮座し、麓から山腹にかけてはモモなどが栽培されている。山頂には巨人伝説で伝えられる巨人おじょもの足跡や、安養寺の奥之院薬師堂、不動尊などがある。北には高松自動車道の坂出ジャンクションがあり、東西に高松自動車道が通り、北に瀬戸中央自動車道(正確には坂出ICまでが高松道の坂出支線)が分岐している。
2010年に丸亀市観光協会が4月22日を讃岐富士の日と制定した。毎年、その日の午前11時より、山頂の薬師堂が開扉されて山頂広場で柴灯護摩が焚かれる。
芽生菜は『すずしろ』という木造3階建てのアパートに住んでいた。管理人の
猪熊賢は今月の7日、広島にある吉田郡山城に出かけた。高田市吉田町吉田にあった、安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されている。
吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。
しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。この時に、山麓の堀は埋められたとも言われているが、大坂城天守閣で保存されている穂井田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。また、山城を重視する輝元が、完全な平城である広島城に対して、詰めの城として引き続き吉田郡山城を温存していたとの見方もある。
城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。
城の遺構は、標高約390メートル(比高190メートル)の山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある。複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である。
城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及ぶ。 山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである。
猪熊は
箱の中には犬の絵柄が描かれたカードが入っていた。放火が自由にできるようになった。放火はいいけど、放火殺人はきっといけないのだろう。
猪熊の脳裏に門倉歩の顔が浮かび上がった。ケンドー・コバヤシにどことなく似ている。猪熊はかつて、彼の下で助手をしていた。門倉は脳外科のドクターだった。動脈瘤を患った老婆のオペを行った。老婆はそのとき、70歳だったが、オペ後20年も生きたらしい。
医者としては素晴らしかったが、人間としては最悪だった。門倉は気に食わないことがあると、すぐに猪熊を殴った。
猪熊は午後2時、門倉邸の前までやってきた。彼はメルセデス・ベンツに乗っていたが車がなかった。ナースの
「あれ?猪熊先生、お久しぶりです」
猪熊は門倉を見限り、屋島総合病院で働くようになった。明美や門倉は四国に移ったことは知らない。
「門倉先生は?」
「東京に出張中です」
確か、門倉は一人暮らしだ。
「いつ戻ってくるんだ?」
「明後日じゃないと帰ってきませんよ」
「そうなのか?」
「何か御用ですか?」
「職に困ってるから、もう一度雇ってもらおうと思ってな。が、気が変わった。あの人、すぐに殴るからな?」
「私なんてこの間尻触られましたよ……」
「弁護士にでも訴えたらどうだ?」
猪熊は夜になるのを待つことにした。
日はとっぷり暮れた。
猪熊が門倉邸の庭に侵入、バケツ2個で10リットルから15リットルのガソリンを撒き、ライターで着火、ドーン!という爆発音がした。
あの老婆は深夜の屋島寺で俺を求めてきた。
『こんな婆さんでいいのかい?』
俺は何故か知らないが昔からモテた。俺を好きになったのが運の尽きだ。あのうどん屋にはじめて来たのは2月8日の夜だ。屋島に到着したのは午後5時くらいだ。俺は源平合戦が好きで、史跡巡りを目的に屋島にやって来た。
屋島の戦いは、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現・高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。
寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉の源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は義仲に奪われた失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。しかし、頼朝の弟の範頼・義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有していなかったため、どうしても彦島・四国攻めに踏み切れず、休戦が続いた。
後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。
一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになる。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。この体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使としその地域の武士達を統制に乗り出した他、大内惟義、山内経俊、豊島有経などが畿内の惣追捕使となった。
一方同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させ、頼朝は知行国主となり関東知行国を獲得した。
同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。
「後ろから攻めておくれよ」
俺は尻を突き出してる夢子の首をベルトで絞めた。俺には怪物を召喚してルシファーに復讐するという野望があった。人を虫ケラ同然に切り捨てた奴らに生きている資格はない。
夢子は口から泡をブクブク噴き出しながら死んでいった。罪悪感はメチャクチャあった。
2月13日
将棋の羽生善治竜王と囲碁の井山裕太七冠が国民栄誉賞を受賞。
尖閣諸島沖で中国海警局の3隻(海警2307、海警2502、海警31240)が領海を航行。
午前5時、古高松にある喜岡寺の境内で源芽生菜の他殺体が発見された。寺は旧喜岡城跡になってる。戦国時代、この城の別名は高松城であり、1590年(天正18年)に生駒親正が現在の高松城を築城するまではここを高松城と呼んでいた。1335年(建武2年)に高松頼重が築城し、1585年(天正13年)仙石秀久によって落城した。
丸山は遺体をまじまじと見て吐き気を催した。
芽生菜は血塗れだった。死因は腹を銃で撃たれたことによるもの。大量出血したのは体内に弾丸が残らなかったから為だ。射出口は大きかった。
ヤクザの仕業だろうか?丸山はそんな風に思った。
2月17日 - 将棋の藤井聡太五段が棋戦「朝日杯将棋オープン戦」で羽生善治竜王と広瀬章人八段を下して初優勝し、規定により中学生初の六段に昇段。
俺は修と嵐山町の実家でくっちゃべった。親父もおふくろも旅行に出かけてる。姪っ子も来ていた。
コタツの中は温々していて気持ちがいい。
「屋島に行ったんだって?歴史の授業で屋島の戦いって習ったけど、どういうんだったっけ?」
寿永3年(1184年)2月、源義経は摂津国の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。
出航直前の2月16日に後白河法皇の使者高階泰経が渡辺津に来て、義経に「大将が先陣となることはない」と京へ戻るよう法皇の意を伝えている。これに対して義経は「自分には存念があり、先陣となって討ち死にする覚悟があります。」と決意を述べている。この頃まだ都の治安維持には義経が必要不可欠とみられていたからである。 しかし義経はその制止を振り切って出陣に踏み切ることになる。 このころ範頼が九州から引き上げるという話がありこのことが平家を勢いづかせることが懸念されていた。
渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。景時は「進むのみを知って、退くことを知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、わたしは猪武者で結構である」と言い返した。逆櫓論争である。景時は深く遺恨を持ち、後の頼朝への讒言となり、義経の没落につながったとされる。
2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、僅か5艘150騎で出航を強行する。同日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。
勝浦に上陸した義経は在地の武士近藤親家を味方につけ、屋島の平氏は、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残っておらず、それも阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎、50騎と配しており、屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、好機と判断した。
まず、義経は平氏方の豪族桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る。その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った。
この頃の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。ただ、今なお相引川によって隔てられている)。干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。
やがて、源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。 なお『吾妻鏡』によれば、教経は屋島の戦い以前に、一ノ谷の戦いで討ち死にしている。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。
2月21日、平氏軍は志度浦から上陸を試みるが、義経は80騎を率いてこれを撃退した。『平家物語』には、この時、僅か15騎を率いた義経の郎党の伊勢義盛が田内成直の3000騎を降伏させたという話がある。
やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫り、平氏は彦島へ退いた。
2月18日午後7時
嵐山町の酒場で俺と戸田が吸血鬼について語り合っていると、1人の男が割り込んできた。男は「棺の中から抜け出すことのできる人間もいる。自分もその1人である。兄はそれ以上のことができ、伊庭さんにとって危険な存在である。近々自分か兄かどちらかが伊庭さんの家を訪問する」と告げ、滑川町に住む奇術師の
同日午後9時45分、嵐山町の木村邸にコートに帽子、顔に仮面をつけた男がやって来た。玄関で応対した
俺、木村、戸田の3人は16歳からの付き合いだ。俺と戸田はパソコン部で一緒で、俺と木村は1年7組のクラスメイトだ。俺たち3人は
戸田はとんでもないことに気づいた。雇い主の門倉が亡くなった成の叔父であったのだ。門倉になら木村を殺す動機がある。
ところが門倉も同じ夜に射殺されていた。場所は嵐山町の
鬼を祀る神社は当神社を含め国内で数例となっている。創建は寿永元年(1182年)で、鎌倉幕府の
節分祭においては「福は内、鬼は内、悪魔外」と言いながら豆をまく。この悪魔とは、鬼以外の悪いものを指す。
目撃者たちによると10時25分のことだった。「2発目はおまえにだ」という声と共に銃声が鳴り響き、見ると門倉が倒れようとしていた。門倉は背中を至近距離から射たれて死んでいた。現場は街燈に照らされており、身を隠せる建物からは数メートル離れているのに、加害者を誰も見ておらず、雪の上には被害者以外の足跡はない。傍らに落ちていた拳銃は両方の事件の凶器と鑑定された。
猪熊は木村、門倉を殺した達成感に浸っていた。 柿ピーをつまみに蕎麦焼酎を飲んだ。
猪熊もあの禍々しい玉を手に入れていた。2月13日午前2時、芽生菜を喜岡寺で殺してから鬼ヶ島洞窟に身を隠した。桃太郎伝説が残る鬼ヶ島(香川県女木島)にある大洞窟は、島の中央鷲ヶ峰の中腹にあり、広さ4,000平方メートル・奥行き400mの洞窟だ。内部では鬼の大広間や居間・鬼番人の控え室等を再現している。宝箱は控え室の中にあり、箱を開けると玉が入っていた。
猪熊は副業として殺し屋を営んでいた。
芽生菜を殺すように依頼してきたのは『すずしろ』の管理人、上川春奈だ。芽生菜は悪質なクレーマーで隣の部屋から聞こえる音楽がうるさく眠れないから、家賃を無料にしてくれと訳の分からないことを言ってきた。悪いのは隣人であって春奈ではない。さらにどこで知ったのか、春奈が不倫してることを餌に金を要求してきた。
耐えられなくなった春奈はネットで『優しい掃除屋』ってのを見つけ、猪熊に芽生菜の処理を依頼してした。費用は1回につき5万だ。
銃のマカロフは歌舞伎町の闇の商人から買った。
マカロフは、ソビエト連邦において開発された自動拳銃。 堅実な設計の中口径拳銃として、ソビエト連邦軍やロシア連邦軍・ロシア国境軍など、多くの軍や準軍事組織で採用された。
2月20日
高松市のマンションにおいて、謎の男が真上の部屋に侵入し、住人であった上川春奈を殺害した。
男は、春奈の部屋の玄関ドアの外側にドアストッパーを置いた上で、ベランダに梯子をかけて登り、ベランダの窓を割って侵入した。男は春奈をバールで殴ったり包丁で刺したりし、120カ所以上の刺し傷や切り傷を負わせた。春奈の悲鳴を聞いた周辺住民が110番通報し、春奈は病院に搬送されたが、後頭部の粉砕骨折と左太ももの動脈損傷により失血死した。室内は玄関周辺まで大量の血痕が付着していたという。
2月21日
藤岡明美は有給を使い戸田憲二とドライブに出かけた。
門倉が殺されてしまった。あの病院にはよくない伝説が残されている。
恐ろしい形相をした看護師で、夜の病院を台車を押しながら徘徊し、生徒を見ると追い掛けてくる。
追い掛けられた患者がトイレの一番奥の個室に逃げ込み、息を殺しているとゾンビ看護師がトイレに入ってきて、トイレのドアを一つずつ開けながら「ここにもいない…」と呟く。患者が「次は自分の個室だ」と思っていると、物音がしなくなる。夜が明け、安堵した患者がトイレの個室から出ようとするが扉が開かない。不審に思った患者が、ふと上を見るとゾンビ看護師がドアを押さえて上から覗いていた。患者はゾンビ看護師に一晩中、ドアの上から個室を覗かれていたのだ。
これ以上あの病院にいたらきっと呪われる。
カーステレオのラジオからは米津玄師の『Lemon』が流れてる。リリースされたばかりだ。臨時ニュースが入った。凶悪で危険な囚人が今走っている場所のすぐ近くにある刑務所から脱獄したとのことだ。
憲二がボリュームを上げる。
「怖いよ」
明美は震えた。
怯えながらもドライブを続けていると、車のエンジンの調子がおかしくなり車が動かなくなる、憲二が「助けを呼んでくる」と1人で山道を行こうとするが、脱獄囚に怯えた女はそれを止める。最終的に「きちんとロックして車の中にいれば安全だ」と憲二が言い、それに納得した女は車の中で男の帰りを待つことになった。
明美が車の中で憲二の帰りを待っていると、「ズリッ…」と時折、何かをこするような奇妙な音が聞こえる。明美は恐怖に駆られたが憲二の言葉を思い出し、車の中で鳴り続ける奇妙な音を聞きながら、憲二の帰りを待つことにする。やがて、日が昇ると一台のパトカーが明美のいる車の近くにやってくる。明美が安堵するとパトカーから2人の警官が降りてきて、「まっすぐこっちに歩いてきてください。ただし、決して振り返って後ろを見てはいけません」と奇妙なことを明美に向かって言う。明美は警官の指示通り、車を降りて警官のいる方向へ歩いて行くが、やがて好奇心に負けて後ろを向いてしまう。そこには憲二の死体が道の脇にある木の枝に首に縄を掛けられ、吊るされていた。
一晩中聞こえていた音の正体は、殺された憲二の死体が風に揺れて、車の屋根を死体の足が擦っていたものだったのだ。
2月22日
猪熊は4人目の上川春奈を殺すと
夜道怪は埼玉県の秩父郡や比企郡小川町大塚などに伝わる怪異の一つ。何者かが子供を連れ去るといわれたもので、宿かい、ヤドウケともいう。
子取りの名人のような妖怪として伝承されており、秩父では子供が行方不明になることを「夜道怪に捕らえられた」「隠れ座頭に連れて行かれた」という。比企郡では「宿かい」という者が白装束、白足袋、草鞋、行灯を身につけて、人家の裏口や裏窓から入ってくるといわれる。
民俗学者・柳田國男の著書においては、夜道怪の正体は妖怪などではなく人間であり、中世に諸国を修行して旅していた法師・高野聖のこととされている。武州小川(現・埼玉県比企郡小川町)では、夜道怪は見た者はいないが、頭髪も手入れされておらず、垢で汚れたみすぼらしい身なりの人が、大きな荷物を背負って歩く姿を「まるで夜道怪のようだ」と言うことから、夜道怪とは大方そのような風態と推測されている。
伊庭修は娘の恵美と故郷の嵐山町に遊びに来ていた。17時頃実家を出て、家路を辿った。
車の後部席で恵美がトイレに行きたいと騒ぎ出した。比企郡小川町のコンビニに寄った。
比企地方及び県南西部の最も北西に位置し、秩父地方のすぐ外側に位置する。江戸から川越を抜けて秩父に向かう街道が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。
外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地があり、その地勢から「武蔵の小京都」の異名を持ち、全国京都会議に加盟しており、伝統工芸の和紙で知られる。
名誉町民である元・埼玉県議会議長小久保太郎の作詞による「ピッカリ千両節」は、町の歌とも言われ、これによれば「山の町、酒の町、紙の町」である。
小川町は
細川紙は、埼玉県比企郡小川町、秩父郡東秩父村で作られる、手漉き和紙。細川紙。
細川紙が伝来する以前から現在の小川町にあたるエリアは和紙の産地として知られていた。1,300年の歴史を持ち、楮だけを使った細川紙は、国の重要無形文化財の指定を受けている。道の駅おがわまち・埼玉伝統工芸会館にはヤッパシ紙すき体験コーナーがあり、紙すきを体験することができる。2014年には細川紙がユネスコの無形文化遺産に登録された。
細川紙は、紀州高野山の細川村(現在の和歌山県高野町)で漉かれていた細川奉書の技術が、江戸時代中期頃に江戸に近い小川周辺に入ってきたものといわれている。
「お父さんは車の中にいるから、早くしてこい」
修は小銭入れから500円玉を出し、恵美に渡した。
「これで飲み物、俺のとおまえの買ってきなさい」
「お父さんは何がいいの?」
「烏龍茶」
修はアンドロイドアプリで、『一般人㊙格付けチェック』で遊んだ。目利き力や常識力が試される2択、4択問題に答えていくクイズゲーム。
プレイヤーは全問正解の超一流一般人を目指して、問題に挑戦していく。
待てど暮らせど、恵美は戻ってこなかった。
心配になりコンビニに向かったが、恵美の姿はどこにもなかった。修は警察、妻、兄の順に電話をした。
その頃、屋島署の刑事、丸山蓮司は菊池豊子のアパートを張っていた。アパートは屋島東町にある。
屋島東町の檀ノ浦は、治承・寿永の乱(源平合戦)の屋島の戦いの舞台となった古戦場であるが、山口県下関市にも同音の壇ノ浦が存在する。下関の壇ノ浦に対して屋島の檀ノ浦は「檀」の左側が「つちへん」でなく「きへん」であり、加えてどちらも源平の古戦場であるため紛らわしく、しばしば両者が混同されることがある。
寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して海に逃れ、讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。
鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって軍を進められなくなった。この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した。元暦2年/寿永4年(1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。
一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。
彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍など840艘を味方につけて(『吾妻鏡』『平家物語』によれば)、合戦前の軍議で軍監の梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、これが後の景時の頼朝への讒言、ひいては義経の殺害につながるとされる。
平氏軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による、『吾妻鏡』では午前)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。
範頼軍は3万余騎をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられてしまい、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。
やがて潮の流れが反転し、義経軍は乗じて猛攻撃を仕掛けた。平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決した。『平家物語』は、敗北を悟った平氏一門の武将たち、女性たちや幼い安徳天皇が次々に自殺してゆく、壮絶な平家一門滅亡の光景を描写する。
知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え」とみずから掃除をしてまわる。口々に形勢を聞く女官達には「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」と笑った。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ連れてゆくの」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、ともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると、二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられた。
剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討つが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最期だが、『吾妻鏡』には教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がある。しかし、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。
知盛は「見届けねばならぬ事は見届けた」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水した。申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))には平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは終結した。
午後10時15分頃、壇ノ浦で豊子がボーガンのようなもので撃たれ死亡した。
現場からは殺傷能力が高いとされるボーガンの矢が残されており、この矢は命中したあと引き抜きにくくする『返し』が付いていた。
豊子は頭部2カ所を撃たれていた。
2月24日
俺は実家の茶の間で夜7時のニュースを見ていた。
司法解剖で豊子の死因は頭部を撃たれたことによる「外傷性くも膜下出血」であることが判明した。豊子の生前の写真が映し出された。木村多江に似てる。
修はタバコを咥えて100円ライターで火を点けた。
恵美は未だに見つからなかった。
猪熊はドラキュラが一度でいいから見てみたかった。
ドラキュラは、イギリス時代のアイルランド人の作家、ブラム・ストーカーの恐怖小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)に登場する男性の吸血鬼。日本では「吸血鬼」の意味で誤用される事が多いが、あくまでも小説の登場人物の固有名詞であり、吸血鬼全般をドラキュラと呼ぶのは間違いで、吸血鬼を表す英語はヴァンパイア(Vampire)である。もっとも、特に日本では間違いとはいえ代名詞的な意味で似た設定の貴族的な吸血鬼キャラクターをドラキュラと呼ぶ慣行がかなり通用しており、代表的な例として、
岸田森は探偵ドラマ『傷だらけの天使』にも出ていた。猪熊は主演の萩原健一のファンで、『太陽にほえろ!』のマカロニ刑事も好きだった。
豊子の次は誰を殺そうかな?
腕時計を見た。もうそろそろで夜8時になる。
藤岡明美を殺すことにした。
2月25日
明美は腹が痛いって理由で受診した修に惚れた。
猪熊が戻ってきてくれて助かってる。
「盲腸かもしれません、エコー撮りましょう。明日とかってご都合どうです?」
触診を終えて猪熊が言った。
「大丈夫です」
午前8時半にエコーすることになった。
「朝食を摂らないでいらしてください」
午後7時、仕事を終えて明美は帰ろうとしていた。「外は雪がすごい、送ってやる」と、猪熊が声をかけてくれたのでホッとした。タクシーだと高くつく。徒歩通勤は天候が悪いとき大変だ。
猪熊はハイエースに乗っていた。
明美は助手席に座った。猪熊は好都合だと思った。後ろの席に座られたら殺すのは難しい。出来れば車内で実行したい。彼女の家には誰かいるかも知れないし?目撃されたら終わりだ。
ハイエースが駐車場を出る。
「院長、それと憲二を殺したのは誰かしら」
唐突に彼女が言ったのでドキッ!とした。
「
「そうかも知れないわね」
彼女はうつらうつらはじめ、やがて眠った。
赤信号で止まる。後ろに車はない。猪熊は両手で明美の首を絞めた。ギュギュギュッ!と渾身の力を込めた。
明美は白目を剥いていた。
4人目の春奈を殺すと、夜道怪が現れた。
豊子、明美……残り2人か。
4は死と関係してるのかな?
2月26日午前11時
丸山は嵐山町にやって来た。腹が減ってきた。昼飯は何にしようかな?丸山がこの街にやって来たのは猪熊を探しているからだ。
四国村のうどん屋の従業員が3人も死んだ上、門倉と戸田の2人の医者も死んだ。猪熊はうどん屋の常連客で、門倉の下で働いていた。
犯人は猪熊で間違いない!
丸山は
河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。
ご当地グルメの嵐山辛モツ焼そばを食べることにした。
もつ・キャベツ・モヤシを具としたソース焼きそば。皿に盛りつけて青海苔を振り掛け、紅しょうが
嵐山町における地域おこしの一環として、2011年(平成23年)に考案された料理である。具に辛く味付けした「もつ」を用いるのが特徴で、同年11月開催の埼玉B級ご当地グルメ王決定戦では早くも3位入賞を果たした。地元では丼物(もつ丼)や煮物(もつ煮)、焼き物(ホルモン焼き)などの内臓料理を好んで食する文化があり、これをB級グルメの代名詞である焼きそばと組み合わせたものである。
嵐山駅前のラーメン屋に入り、モツ焼きそばを堪能した。
30分ほどで出て、病院に向かった。
猪熊はモヒカン頭のチンピラみたいな医者だった。夜になるまで待って、タクシーを呼んでハイエースを尾行した。
彼が向かった先は山奥にある解体屋だ。
スクラップされた車の山が置かれてある。
タクシーを降りて彼の後を追った。
なだらかな坂を下っていく。小屋の中に彼は入っていく。
丸山はホルスターから回転式拳銃、ニューナンブM60を抜いた。
基本設計はS&W社のJフレームリボルバー(S&W M36など)およびKフレームリボルバー(S&W M10など)をもとにしている。表面処理は、当初はブルーフィニッシュであったが、1982年頃より製造工程簡略化のため、パーカライジングフィニッシュに変更された(その後まもなくブルーフィニッシュに戻されたという説もある)。照門は固定式である。
シリンダーは5連発だが、フレームがわずかに大きいため、Jフレームリボルバー用のスピードローダーは使用できない。生産開始直後にシリンダーの破裂事故が発生しているが、対策を施して1961年より量産が再開された。また、シリンダーをスイングアウトするための指掛け(シリンダーラッチ)は、当初は薄い洗濯板状のものであったが、1980年代より彗星の尾のように後方を長くしたものに変更されたほか、その後、更に厚みを増す改修が施された。ライフリングは5条右回りで、ピッチは1-15"である。なお、オープンキャリーを想定した銃身長7.7cmのモデルと、コンシールドキャリーを想定した銃身長5.1cmのモデルの2種類が生産・配備された。
トリガーメカニズムはダブルアクションとシングルアクションの両用である。ダブルアクションでは、モデルとされたS&W社の製品のようなトリガープルの精密さには欠ける一方、シングルアクションでの射撃精度は極めて高く、7.7cm銃身モデルであれば25メートル固定射撃で2インチ(約5cm)ほどの幅にまとまる集弾性能を発揮できる。
「おい」
後ろを振り返ると猪熊が立っていたので腰を抜かしそうになった。ワープゾーンでもあるのか?それとも、瞬間移動とか使えるのかな?
猪熊の手にはマカロフが握られていた。
「賢く生きろよ」
銃声が響き渡った。
明美の遺体は解体屋の社長の協力でスクラップした。
丸山が冥土に旅立った午後9時34分、俺は恵美を探すのに必死だった。木村も戸田も死んでしまった。谷村の亡霊の仕業だろうか?
兄貴が虫垂炎で入院した。手術日は3月1日らしい。
1928年(昭和3年)に、
一般的に槻川橋や二瀬橋周辺から上流域にある嵐山渓谷付近の大平山や正山を眺める風景の事を指す。
本多 静六(慶応2年7月2日(1866年8月11日) - 昭和27年(1952年)1月29日)は、日本の林学者、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。苦学して東大教授になり、「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で巨万の富を築き、大学定年退官と同時に全財産を寄付した。旧名、折原静六。
本多静六は久喜市菖蒲町に生まれている。
俺は妙に親近感が湧いた。
『才太郎、おまえは鬼だ』
死んだ谷村の幻聴が聞こえた。
俺や木村、戸田は彼のパンツを脱がせたり、プールで溺れさせたり、公衆電話から彼の名前を語って担任に『殺すぞ』と電話したりした。
谷村は高3の8月、自室でナイフで腹を刺して死んだ。首吊りや飛び降りはよくあるが、切腹とは珍しい。
👂俺は耳寄りな情報を知った。成功や楽しいことがあるとIQは上がり、失敗や悲しいことがあるとIQは下がるらしい。
日本赤十字社の社屋前にやって来た。明治時代の埼玉県の洋風建築物を代表するものとして知られている。かつては浦和にあったが、現在は嵐山町に移築保存され、埼玉県指定有形文化財となっている。
明治38年に山下啓次郎によって設計された木造の洋風社屋である。
俺は志村けんのアイ~ンって顔や、カトちゃんペ、大学時代付き合っていた彼女のことなどを思い出しながら歩いた。すると、脳細胞が活発化した。
恵美は夜道怪って妖怪に連れ去られたが無事であること、夜道怪を召喚させたのが猪熊ってドクターであること、猪熊を倒すと夜道怪も死ぬことなどが判明した。勿論、猪熊の居場所も……。
2月28日午後1時
俺は群馬県草津温泉にやって来た。
標高1100~1200mの高地に温泉街が広がっている。北西部には、草津白根山(白根山〈2,160m、湯釜〉、本白根山〈2,171m〉、逢の峰〈2,110m〉)が聳えている(上信越高原国立公園)。
草津温泉の湯は基本的には酸性泉(酸性低張性高温泉)である。場所(源泉)によっては硫黄泉なども見受けられる。pHは2.0程度と酸性度が非常に高く、雑菌などの殺菌効果がある。この強酸性のために下流の品木ダムには酸性中和施設がある。温泉療養にも利用されており、適応症は皮膚病・神経痛・糖尿病ほか。
草津温泉は、草津白根山から東へ流れる地下水に火山ガスが出会って生じていると考えられている。降ってから数ヶ月から数年の比較的新しい地下水が主体となっており、湧出量は直前の降水量の影響を強く受けている。また、白根山の山頂に近いほどpHが低く、含有成分も変わる。
温泉地の中央に湯畑を中心とした古風な日本情緒に溢れた温泉街があり、それを取り巻くようにリゾートホテルやペンション、大滝の湯、西ノ河原公園、テルメテルメおよび温泉センターなどの温泉関連施設のほか、草津音楽の森国際コンサートホールや草津熱帯圏などの諸施設が位置している。また、草津白根山に面して草津温泉スキー場がある。町外れには湯治に来て亡くなった人の無縁仏が多数ある。
俺は目的地にやって来た。
2月29日午後1時
病室で修は調書を読んでいた。
【2月29日午前1時20分ごろ、草津市の廃墟より出火、全焼した。焼け跡からこの廃墟に住む猪熊賢が遺体で発見された。】
突如、ドアが開き恵美が入って来た。
「パパ」
「おまえ、今までどこに?」
「オバケがたくさんいた。薄暗くて寒いところ……ヌリカベとかもいたよ。けど、桃太郎が助けに来てくれた。この病院にパパがいるって教えてくれたよ」
修は恵美を強く抱き締めた。
「心配したんだぞ?」
娘が意味不明なことを言ってるのは頭を打ったか、変な薬を飲まされたかも知れない。
検査を受けさせたが、異常は見られなかった。
俺は姪っ子が無事であることを確認し病院を出た。
伊庭才太郎が妖怪を召喚させるまで残り2人。
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