マジカル☠クライム
鷹山トシキ
第1話 2018年1月
各エリアの宝箱にカード
🐉密輸
🐓暴行
🐯ハッキング
🐍詐欺
🐰銃刀等携帯
😸窃盗
🐮危険運転致死傷罪
🐴強盗
🐶放火
🦁殺人
🦅盗作
🐟誘拐
1月10日 - 箱根ホテル小涌園が営業を終了。
俺は五霞にある食品工場に派遣されていた。
朝、ロッカールームで作業着に着替えてると同僚の
「
「何が?」
「日本のどこかに犯罪が自由になるカードの入った宝箱が置かれてあることを……」
「朝からジョークかよ」
「ウルフはそのカードを引いちまったんだよ」
ウルフは世界的に有名なハッカーだ。
久喜にあるアパートに姪っ子の
「おじちゃん、ハッカーって何?」
俺は説明してやった。
オールマイティに様々なコンピュータ技術に通じる人々の総称。映画などの影響もあり、しばしばネットワークに侵入したり、ウイルス作成などを行う人物全般をさす場合もある。これをクラッカーと使い分けるべきという意見も特に日本では比較的多く見られるが、実際にはアメリカの大手セキュリティ企業を初め、米国主要メディア各社の報道でもハッカーという単語が常用されているのが現実で、映画のようなイメージのハッキング行為を行う人物をハッカーと呼ぶことは決して誤用ではない。ハッカーは単にネットワークの知識だけに秀でている人物を指す言葉であると誤解する人も多いが、ソフトウェア設定(レジストリや応用ソフトの設定ファイル・隠し機能など)やプログラミングなど他の分野で非常に高い知識を有している人物もハッカーと呼ばれるケースがある。また、リバースエンジニアリングなどソースコード解析などもハッキングの範疇である。稀にハッカー以上の技術者を ウィザード wizard や グル guru と呼称することもある(例えばLinuxカーネルの開発者 リーナス・トーバルズは、しばしばグルと呼ばれる)。セキュリティコンテストなどでは生産的な(善意的な)ハッカーをホワイトハットハッカーといい犯罪者気質のハッカーをブラックハットハッカーなどと区別し、ホワイトハットハッカーを育てようという活動も各国に見られる。
1月12日 - 中国海軍の商級原子力潜水艦が中国国旗を掲揚した状態で尖閣諸島北西の東シナ海を航行した。また同日、日本の海上自衛隊は尖閣諸島接続水域を潜没航行した中国海軍原子力潜水艦の追尾を行っていたことを公表した。
殺人のカードってのがあるのなら、
昨日も掃除がなってないと尻を蹴ってきた。
久喜市の静御前の墓の近くにある豪邸で、チェーン工場経営者の
埼玉県警刑事課の伊庭修と、久喜警察署刑事課長の
修は史帆に警察への出頭を要請し、取り調べを行うが、彼女はミステリアスで挑発的な態度を取りつつ、事件への関与を完全に否定する。捜査陣は一旦彼女への容疑を弱めるが、修だけは史帆が何かを隠していると言い張り、捜査を続けていく。
修はさらに幸手市にある史帆の家を訪れ、激しく問い詰めるが、逆に彼女から過去の事件での失敗などをなじられてしまう。史帆の関係者に捜査官がいる?激怒した修は本部へ戻り、管理官の
鈴江はどことなく阿部サダヲに似てる。
内通者が
この日はこんなことが起きた。
📰尖閣諸島沖で、中国海警局の公船3隻(海警2303、海警2308、海警2401)が領海を航行。
📰大阪大学は、1月13日に実施された大学入試センター試験の国語の試験において40代の大学院高等司法研究科教授が監督中に居眠りをし、いびきをかいていたとして、同教授を訓告処分、責任者の3人を厳重注意処分としたことを公表。文科相は「大阪大では昨年の入試にミスがあり、再発防止の取り組みを実施している中での事案で大変遺憾だ」と批判し、「大学に対して15日に、一層緊張感を持って入試業務に取り組むよう厳しく指導した」ことを明らかにした。
なおも単独での捜査を続ける修は、過去の記録からこれまでにも史帆の周囲で不可思議な死が頻発してることを知る。それらとの関係は何なのか?また、瀬崎の死もそうした事件のひとつなのだろうか。
🔖史帆の関係者
死因:刺殺 死亡日2012年3月4日
死因:絞殺 死亡日2014年5月6日
死因:毒殺 死亡日2016年7月8日
修の推理では、次の犯行日は今年の9月10日だ。もしかしら、史帆はそれまでは僕を殺さないかも知れない。修は高を括った。
修は史帆の妖艶な魅力に次第に翻弄され、やがて肉体関係を持つに至るが、それと同時に謎を突き止めたいという欲求と、自分もまた殺されるのではないかという恐怖感を覚えていた。
1月21日
大相撲の十両大砂嵐が、無免許で自動車を運転し、追突事故を起こしたとNHKに報道された。大砂嵐は1月3日に長野県内で無免許運転をした疑いが持たれており、1月場所は22日の9日目から途中休場することが決まった。
有安杏果がこの日の公演を最後にももいろクローバーZを卒業。併せて所属事務所との契約も終了した他、出身地・埼玉県富士見市のPR大使も卒業し、芸能界から離れた。
『殺人』と黒いゴシック体が書かれてあった。
豊子は國男からドメスティック・バイオレンスを受けていた。つい最近も、料理が不味いという理由で髪を引っ張られた。シチューを作ったのだが、野菜を多目に入れたせいか水っぽくなってしまった。
ライオンのカードは今年の1月5日、滋賀県彦根市にある佐和山城跡で見つけた。
佐和山城跡は、西側山麓にある龍潭寺(彦根市古沢町1104)が所有しているが、好意により無料での入山が許可されており、境内に登山口がある。境内に宝箱が置いてあり、カードが入っていた。
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。
六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。
しかし戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。
元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに石田三成が入城したとされる。入城時期については天正18年(1590年)7月説と、文禄4年(1595年)7月説があったが、伊藤真昭の研究により、天正19年(1591年)4月であることが確定した(ただし、伊藤は天正19年の入城は城代・蔵入地代官としての入城で、三成が正式に佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたのは文禄4年7月であったことも立証している)。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。
家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している。
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。
カードを手にした瞬間、殺意が増幅した。
國男を殺さなければ、こっちが殺られる。
あの日は久々に國男とセックスをした。
タオルに錐を包み、風呂に入っていた忍び寄った。國男は石鹸を投げつけたりしたが、全く痛みを感じなかった。あのカードは痛覚すら消してしまうらしい。拘束具を國男にセットし、錐でプスプス刺して殺した。
22日の夜、豊子は隣家の
チャイムを押したら、不用心にも奥さんと思われる中年女が出て来た。玄関先で錐で奥さんの腹を刺して殺した。悲鳴を聞いて、旦那さんと思われる禿げた男が駆けつけた。「
「ふ〜、これでゆっくり眠れる」
中里邸を出ると粉雪が舞っていた。
豊子は家に戻りニュースを見た。『京都大学は、iPS細胞研究所に所属する助教が2017年に科学雑誌に発表した論文で、捏造と改竄が行われていたことを発表しました』豊子のお気に入りのイケメンアナウンサーだ。
窓の外を見た。無数のコウモリが夜の空を飛んでいる。🦇
🦇
🦇
1月23日 - 群馬県吾妻郡草津町の草津白根山が噴火し、1人が死亡、11人が負傷した。気象庁は火口周辺警報を発表し、噴火警戒レベルを3(入山規制)に引き上げた。
音々は秩父に住んでいる。
秩父山地に囲まれた秩父盆地の中央部に、市の中心市街地が位置している。秩父地方では唯一の市で、市域のほとんどが秩父多摩甲斐国立公園や、埼玉県立の自然公園(武甲、西秩父)に指定されている。荒川が南西から北東に流れ河岸段丘を形成している。市の南東にそびえる武甲山では石灰石を産出し、露天掘りが行われている。
インターホンが鳴った。もう21時を過ぎている。
犬の形をした防犯ロボットが『埼玉県警の
警察?私、何かしたかしら?貧乏だったので小学6年生のときに味噌を商店から万引きした。30年経った今になって犯人が私って分かったのかな?
音々は鈴江を茶の間に通した。寒いので緑茶を淹れてあげた。鈴江はコタツに入った。
「警察が何の用です?」
音々は座布団の上に正座した。
「中里虹子さんご存知ですか?」
「ええ、中学時代の同級生でした」
「中里さんに虐められていたんですって?」
音々は悪夢を思い出した。トイレの個室で用を足してると水が降ってきた。虹子がバケツに入れた水を掛けてきたのだ。びしょ濡れになって帰った。母子家庭で、母親には川に落ちたと嘘をついた。
「どうしてそれを?」
「中里さんの近所の
「誰ですか?ん、もしかして
深川寛子は虹子の取り巻きだ。直接的な攻撃はしないものの、『もっとやれ〜』と囃し立ててきた。
「あの、虹子に何かあったんですか?」
「昨夜遅くに何者かによって殺されました」
音々は絶句した。が、すぐに心の中で微笑んだ。死神が虹子を殺してくれたんだ。
「昨夜はどこにおられました?」
「刑事さんは私を疑ってるんですか?」
「いえ、そういうワケでは。ちょっとトイレお借りしますよ」
「廊下に出て突き当りを右です」
鈴江はトイレに向かうふりをして、様々な部屋を散策した。浴室、子供部屋など……おかしなところは何もなかった。階段がある。2階はやめておこう。さすがにバレる。トイレに入った。「ウォシュレットじゃないのか?貧乏なのかな?」小声で言った。
茶の間に戻ると音音はスマホをいじっていた。
「お子さんがいらっしゃるんですね?」
「亡くなりました。3年前に交通事故で……」
「辛かったでしょうね?」
「きっ、昨日の夜は友人の家にいました」
鈴江は氏名や住所を尋ねた。音音はスラスラと答えた。鈴江は柱時計を見た。🕙
「あっ、10時だ。そろそろ失礼致します」
鈴江は音音からスマホの番号を聞き出し、彼女の家を後にした。
門を出ると、セダンが停まっていた。覆面パトカーだ。
鈴江は助手席に乗り込んだ。
「それにしてもおまえ、
暖房が効いていて温かい。
「『天体観測』に出てましたよね?」
「ああ、あのトレンディドラマは面白かったな?
セダンが発車する。秩父市内の
荒川沿いの宿に泊まることになっている。
谷津川沿い側の温泉地には秩父三十四箇所の1つで、三十番札所である法雲寺が存在する。
1月24日
ある力士が弟弟子を殴打する傷害事件があったことが判明。元所属力士は2016年に、傷害罪で有罪判決が確定している。
朝早く起きて、鈴江と箆塚は細川邸に向かった。
箆塚は運転中、しきりにあくびをしていた。
「寝てないのか?運転変わろうか?」
「大丈夫です」
細川邸は秩父鉄道車両公園の近くにあった。秩父鉄道三峰口駅構内に鉄道公園はある。秩父鉄道創立90周年事業として建設され、1989年(平成元年)3月17日に開園した。
細川邸には8時頃に到着した。応接間に2人は通された。ソファはフカフカしてる。麻美子はどことなく
麻美子は確かに昨夜、音音と会ったと話していた。「6時に来て、鍋パーティして8時くらいに帰りました」
「何の鍋ですか?」
「チゲ」
「美味いですよねー」と、箆塚。
「俺、春菊入れる奴の気が知れない」と、鈴江。
「え〜美味しいじゃないですかぁ〜」
そう言って、麻美子は姿を消した。
「鈴江さんって学生時代、何部でした?」
箆塚か尋ねてきた。目の下に隈がくっきり出来てる。
「中学のときは剣道、高校のときは柔道。ヘラは?」
「中高大とバスケやってました」
「さてはスラムダンクの影響か?」
「スラダン見てました?」
「親が厳しくてテレビ見せてくれなかった」
麻美子が戻って来た。2つの湯呑みにはほうじ茶が注がれている。
鈴江はふ〜ふ〜したが、舌を火傷した。
麻美子がソファに腰掛ける。
鈴江は昨夜、音音の夫がいないことが気になった。あのとき、2階にいたのかな?
「あの〜、沼津さんのご主人って何をされてるんですか?」
「八百屋で働いてるって音音さん言ってたな」
麻美子は窓の外を見た。
「この辺り、春は桜が美しいんですよ」
「桜かぁ〜、昔、三春の滝桜見に行きましたよ」と、箆塚。
「三春ってどこでしたっけ?」
麻美子はスマホをいじりながら言った。
「福島です」と、箆塚。
「へぇ〜。そろそろ帰ってもらっていいです?用事があるんで……」
「分かりました。お忙しいところ申し訳ない」
鈴江は頭を下げ、立ち上がった。めまいを感じた。疲れているのだろうか?
細川邸を出ると本部に戻った。
1月26日
ある大臣が、沖縄県で米軍ヘリコプターの不時着や緊急着陸が続発している問題をめぐって国会で「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばした責任を取り引責辞任した。
今日は定時(5時半)で終わった。ルシファーの
「早く帰りたいだろ?」
「ええ」
「人数が随分増えたし、君いらないから」
怒りが込み上げた。
早朝出勤、残業などかなり体を酷使した。会社の為に身を粉にして来たつもりだった。
「そりゃあんまりですよ〜」
「上が決めたことだから」
帰り際、南栗橋駅のホームで缶ビールを浴びるように飲んだ。
1月31日
国内各地で約3年ぶりの皆既月食(ブラッドムーン)が見られた。この日の皆既月食はスーパームーンおよびブルームーンと重なっており、アメリカ航空宇宙局(NASA)は「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」と呼んでいる。
俺はカードを探す旅に出ることにした。
犯罪が自由になるってことは、犯罪に絡んだ場所に眠ってるに違いない。
俺の脳裏にはずっと『ルパン三世』に出てくる石川五右衛門が浮かんでいた。
五右衛門が史実の人物だと知ったのは中2のとき、大河ドラマ『秀吉』で
石川 五右衛門(弘治4年〈1558年〉〜文禄3年8月24日〈1594年10月8日〉)は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。
旅に出る前に弟の修と電話で話した。修からもらった五右衛門情報。
安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。
京都か〜、雪に煙る五重塔なんて風情があるなぁ。今年の9月に安室奈美恵が引退する。久喜駅からJRに乗り込み、『キャンユーセレブレイト』や『チェイスザ・チャンス』などを聴いていた。『チェイスザ・チャンス』は
東京駅についたのは午前11時頃、新幹線のぞみに乗り込み、駅弁を食べながら流れ行く景色を眺めた。は〜仕事見つけなくちゃな〜。
京都駅に昼過ぎに到着した。駅員に三条駅への行き方を尋ねた。京都駅から地下鉄烏丸線で烏丸御池駅まで行き、歩いて5分で三条に着くそうだ。
ホームで列車を待っていた。俺は『ルシファー食品』を思い出していた。あの会社はゲテモノ料理をメインに扱う会社だった。犬や猫の肉の匂いは思い出すだけで吐き気がする。休憩時間は昼の1時間だけ、あとは丸々機械を回したり、清掃したりする。
列車がやって来た。グリーン色の車体だ。列車に乗り込む。雅な発車のベルだ。
京都駅→五条駅→四条駅→烏丸御池駅。
烏丸御池駅は、京都府京都市中京区虎屋町にある、京都市営地下鉄の駅である。烏丸線と東西線の2路線が乗り入れ、両路線の乗換駅となっている。駅番号は烏丸線がK08、東西線がT13。
駅周辺はオフィス街を形成している。新風館や文椿ビルヂングなどの複合商業施設があり、カフェやショップなどの出店も盛んである。
三条大橋が見えてきた。
三条大橋の西詰から河原町通および、その先の四条河原町や新京極にかけて繁華街が広がっているほか、先斗町や木屋町通沿線などの飲食店街もあり賑わっている。また、カラオケ店やコンビニエンスストアなど、大小の商業施設が多く立地する。
駅伝発祥の石碑や、弥次さん喜多さんの石碑がある。
弥次喜多は
本作は、弥次喜多の旅行記の形式をとる。
お江戸・神田八丁堀の住人、
俺は三条河原を散策した。宝箱ないかな〜!?無職じゃ未来なんか描けない。強盗が自由になるカードとかないかな?銀行に立て籠もって、SATに蜂の巣にされても死なないのかな?あっという間に1億が手に入ったりして。
大橋を見上げた。
最初に橋が架けられた時期は室町時代といわれている。天正17年(1589年)、豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。
江戸時代には五街道のひとつ東海道五十三次の西の起点となる。そのため幕府直轄の公儀橋に位置付けられた。その後、元禄、明治、大正の各時代に橋の架け替えが行われた。
橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。
近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。五右衛門の他にも殺された人がたくさんいる。
秀吉の甥、豊臣秀次と、その妻子側室侍女 - 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀吉より謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後、三条河原へ豊臣秀次の首が運ばれた。首が据えられた前で妻子侍女など39名が処刑され、秀次の首と共に1か所に埋められ見せしめの塚が作られた。この塚は1611年(慶長16年)角倉了以の高瀬川開削時に塚と石柱が見つかり、現在も瑞泉寺の境内にある。
さらにここでは関ヶ原の戦いの総大将、石田三成も首を晒された。
三成は永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦一族である相模国大住郡石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久の末裔とされる他、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとも言われている。
羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。 秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。 同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。 同年末に賤ヶ岳7本槍も4000〜6000石の加増なのに対し秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。
天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(『常山紀談』)。 秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。 三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。 秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の一つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があった事である。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。 また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。 なお、三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。 ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。 当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている。
文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。 しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩や大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している。 また、この年に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。 秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江(滋賀県)佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ、正式に佐和山城主となった。それにより佐和山に城を築く大大名となった。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。 明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。 ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。
その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。 この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。加藤清正は石田三成に帰国をしないことを秀吉に報告され。武断派との対立が深まったと言われている。
慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。 しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。 慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となる事が決定していた。 しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。
秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。 しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められる中、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。 慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたる事を改めて誓う起請文を作成している。 一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。
翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚する。 これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。 四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せるなど対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文を提出することなどにより一応の解決をみた。
同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きる。三成は後に、この事件の中心人物として事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている。
この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。
慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。
慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が別れる。従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている。また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い。
『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いた時の逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証は無い。
また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説もあるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けは無い。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携は、無かったとする考察もある。
決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する(伏見城の戦い)。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。
通説では当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされているが、小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営につくか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通、彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている。
戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
欄干の下で宝箱を見つけた。箱を開けると、犬の絵柄が入ったカードが入っていた。裏には『放火』と書かれていた。
京都に来た甲斐があったな?
金がないからカプセルホテルに泊まることにした。
🔖関ヶ原西軍武将に関連する史跡にカード
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