不安障害

増田朋美

不安障害

寒い季節、一気に年の瀬といわれる季節になった。もう今年もわずか。あと何日かで終わりを告げてしまう。そんな季節がやってきた。子供には、楽しいとか嬉しいなど呼ばれる季節だが、大人の一部にとっては、憂鬱で辛い季節でもある。

その日、年末年始休暇を利用して、製鉄所を訪れた由紀子は、四畳半で、杉ちゃんと、ブッチャーが、こんなことを言っているのを立ち聞きしてしまった。

「ほらあ、だからあ、ご飯の一つくらい食べてもらえないかなあ。なんで食べる気がしないなんて言うもんなのかなあ。なんにもたべないなんて、作ったやつに失礼だと思うんだけど、そんな気持ちもないのかなあ?」

「ほんとですよ。作る側の気持ちを考えてあげてください。」

二人がそういっているからには、また、水穂さんご飯をたべさせようと、奮戦力投しているのだろう。仕舞いには杉ちゃんが、

「ほら、頑張って無理して食べようよ!」

と、でかい声でそう言うほど、水穂さんはご飯を食べていないことがわかった。同時に細い声で、

「体が、動かない。」

と、言っているのも聞こえてきた。ブッチャーが思わず、

「脚気にでも、なったんでしょうか?」

と呟いている。

「バーカ!動けないのは、食べないからに決まってるじゃないか。そんな当たり前のことを注意しなきゃならない、こっちの身にもなってくれよ。さ、わかんないこと言わないで、食べろ。」

杉ちゃんが、そういったが、返ってきたのは、咳き込んでいる声だった。

「咳き込んでもだめだぞ。今日こそは、シッカリ食べてもらう。食べないと、大変なことになる!」

杉ちゃんが、でかい声でそういったのと、同時に、由紀子は四畳半にはいってしまった。

すぐに、咳き込んでいる水穂さんのところへ駆け寄って、其の背中を叩いたりして、中身を出しやすくしてやった。中身をある程度吐かせてやると、由紀子は、水穂さんに薬を飲ませて、咳き込んでいるのを止めてあげた。

「あーあ、結局、これかあ。もう、どうしてくれるんかいな。こうなったら、またご飯を食べなくなるじゃないかよ。どうしてくれるんだよ!」

杉ちゃんに言われて由紀子は、

「だって、苦しんでいるじゃないの!助けてあげるのが当たり前よ!」

と、対抗した。

「助けてあげるかあ。でもさ、なんにもご飯を食べないで、こうなっちまうやつを、誰がなんとかできる?何もしてないのに、なんとかしてもらえるやつなんて、秩父宮さんのような、国民的ヒーローじゃないとだめだよ。」

杉ちゃんがそういうと、ブッチャーも、

「そのとおりですね。まあ確かに皇族は特別ですからね。」

と、呟いた。

「そんな人と、比べないでよ!身分の話なんてするもんじゃないわ。それよりも、水穂さんが、辛い思いをしているのを、なんとかして上げるべきじゃない!」

由紀子が、急いでそう言うと、

「まあ、そうだけど、暮なので、病院は開いてないし。」

「薬をもらうにしても、この時期、お医者さんは来てくれませんよ。」

杉ちゃんもブッチャーも、そういうのであった。

「どうして二人とも、そう平気な顔していられるの?」

由紀子は、ちょっと怒りを込めて言った。

「平気な顔って、何もしてないよ。僕らはただ、事実を言ってるだけで。」

杉ちゃんは、すぐに答えた。

「最も、秩父宮さんみたいな人だったら、すぐに医者にきてもらえるんだろうが、まあ、それはむりだから、水穂さんには、年明けまで、我慢してもらおう。」

「秩父宮の話は好きじゃないわ。」

由紀子は、そういう身分の人が嫌いだった。水穂さんのそばについてから、高尚な身分の人が嫌いになっていた。水穂さんが、そういう人と比較されるのが、何よりも嫌だった。

「まあ、とにかくねえ、ご飯を食べてもらいたいよ。このままだと、おせちも食べられなくなるぞ。」

杉ちゃんは、冗談で言ったのかもしれないが、由紀子は、何故かそれが深刻な悩みに見えてしまった。もしかしたら、来年まで持たないのではないか。由紀子は途方もなく不安になった。

「私、呼んでくる!」

と、由紀子はいった。

「は?」

と、ブッチャーが言い返すと、

「私、お医者さんに来てもらうようにたのんでくる!」

と、由紀子は、言った。

「よしなよしな。塩をまかれるか、汚いやつを連れてきて、何やってるんだと、怒鳴られるのがオチだ!」

と、杉ちゃんが言うが、由紀子はそれを無視した。自分のスマートフォンにこれまで見てくれた医者の名前と電話番号を明記していた。由紀子はその番号に片っ端から電話した。確かに、杉ちゃんの言うとおりでもあった。大病院に問い合わせても、年末年始期間ということで、機械的な応答メッセージが流れるだけで、何も反応はないのであった。個人病院に電話しても、いつまでもダイヤルがなり続けるだけで、電話は誰も出なかった。これを、五、六回繰り返したが、医療関係とカテゴリ分けされた番号には、誰も出ない。杉ちゃんが、それを見て、

「ほら見ろ。だから言っただろ。どうせ、病院なんて、本当に見てほしい患者は、放置するんだよ。」

と、言うのが余計に腹が立つのだった。由紀子は、医療関係とカテゴリ分けされた最後の番号に、一か八かのつもりでかけてみる。予定通り、ダイヤルが、三回なった。また無理だろうなと思ったが、由紀子のスマートフォンが、ガチャリという音を立てる。

「あの、木島先生のお宅でしょうか?」

「いえ、現姓は、柳沢、」

という老人の声が聞こえてきたので、由紀子は間違えたのかと思ったが、

「現姓は柳沢で、旧姓は木島です。今月になってから、妻と別れまして、本来の柳沢姓になりました。」

という声が聞こえてきた。

「そうですか。あの、じゃあ、こないだ、水穂さんに会ってくださった、先生ですね?」

由紀子が聞くと、

「水穂さん。ああ、あの方ですね。覚えてますよ。何かあったんでしょうか?」

電話口で、木島先生こと、柳沢先生は言った。

「あの、水穂さん、具合が悪いんです。すぐに、来てもらえないでしょうか。本当に、この時期で申し訳ないんですが。」

由紀子は勇気を出してそういった。

「了解しました。15分ほどお待ちいただけますか?すぐに行きますから。もし、水穂さんが、また咳き込みだすようなことがありましたら、横向きに寝かせて、吐き出しやすくするようにしてあげてください。」

「はい!わかりました!」

由紀子は、急いで、電話を切った。

「で、誰がこっちへ来るんだって?」

と、杉ちゃんがいうが、由紀子は名前を思い出せなかった。

「ごめんなさい。私、電話に夢中で。」

思わずそう言うけど、由紀子は、名前を思い出せないのが、悔しかった。

「まあ良いや。誰であろうと、結果はおんなじことだと思うからさ。」

杉ちゃんがそう言うと、ブッチャーも、そうですねとだけ言った。

また水穂さんが、咳き込み始めた。薬がきれてしまったのだろうか。由紀子は、電話で柳沢先生が言っていたのを思い出して、急いで水穂さんを横向きに寝かせて、中身を吐き出す手助けをしてあげた。水穂さんの口元から、赤い液体が漏れ出した頃。

「こんにちは。」

と、製鉄所のインターフォンのない玄関がガラッと開いて、一人の老人が入ってきた。

「ああどうぞ、お入りくださいませ。」

と、杉ちゃんが間延びした声で言うと、お邪魔しますと言って、柳沢先生は、四畳半にやってきた。由紀子は、水穂さんの背中を擦ってやるのに精一杯で、何も言えなかった。同時に水穂さんが、更に激しく咳き込んだので、柳沢先生は、はいはいと言って、すぐに背中を叩いて吐き出すのを手伝ってくれた。杉ちゃんが、なんだ河太郎先生じゃないか、なんて言っているのも由紀子は、聞こえなかった。こういう年配の人は、電動の喀痰吸引機のようなものがなくても、中身を出すのを上手にやってくれるものだ。それはやっぱり、亀の甲より年の功だ。水穂さんは、出すものをとにかく出せるだけ出してしまうと、柳沢先生が出してくれた薬を飲んで、やっと静かになってくれた。

「本当にありがとうございました。あたしでは、どうにもならなかった。来ていただいで、ありがとうございました。」

由紀子は、申し訳ない顔をして、柳沢先生に、頭を下げると、

「いえ、大丈夫です。それより、彼がどうして、このような重篤な症状を出したか知りたいので、咳き込み始めた前後の事を、教えてもらえませんか?」

と、柳沢先生は言った。

「はい。わかりました。木島先生。あのですね、水穂さんに、ご飯を食べさせようと、思ったんですけど、どうしても、ご飯を食べてくれませんでね。僕達もよくわからんのです。普通、腹が減れば、ご飯を食べたくなると思うんですけど。それは、どういうことだったのかなあ。」

杉ちゃんは、大きなため息をついて答えた。

「木島ではありません。以前はその姓を名乗っていたときもありましたが、現姓は、柳沢です。」

木島先生こと、柳沢先生は言った。

「そうなのか。離婚でもしたのかな。まあ、そんな事はどうでも良いや。河太郎に似てるから、河太郎と呼ぼう。そういうわけで、ご飯を食べさせようとしても、全然食べようとしてくれないんですよ。多分、食べないせいで、体力がなくなっているんじゃないでしょうか。なんだか、今日は、体が動かないとまで言い出しました。」

と、杉ちゃんは、急いで言った。

「そうですか。では、食事をしなかったということですね。」

「はい。そういうことですね。全くね。どうして、こうなっちまったんでしょうか。なんでご飯を食べないのか、僕らはよくわからんのです。だって、少なくとも、僕達は、衣食住の世話はちゃんとしてるし、何も不自由なところはないようにしているのに、水穂さんだけがつらそうで、なんだか、疲れているみたいなんです。」

杉ちゃんの説明は、時々言いすぎていることもあるが、今回はちゃんと的をついているなと由紀子は思った。

「そうですか。おそらくですけど、彼は、不安障害を併発している可能性がありますな。」

柳沢先生は、何か考えながら言った。

「不安障害?なんだよそれ。」

「あの、不安を自分で制御できなくなることですよね。水穂さんにとって、不安になるような事は何もないと思うんですが、そんな人が何を不安に思うんでしょうか?」

杉ちゃんとブッチャーは相次いでそういった。

「はい。彼は、一生懸命隠そうとはしていると思うんですが、疲れ果てています。食事をしないのも、咳き込むのも、そのせいでしょう。」

「だったら、私達は、どうしたら良いんでしょうか?」

と、由紀子は急いで尋ねると、

「そうですね。まずはじめに、寂しい思いをさせないこと、孤独なんだと感じさせないことが一番大事だと思います。」

と、柳沢先生は言った。

「なんだよそれ。僕達は、一生懸命ご飯を食べさしてるし、着物だって着せてやってるし、憚りもちゃんと手伝ってるよ。それなのに、孤独だと感じさせてるってどういうことかな。それとも、同和問題に起因することかな?」

と、杉ちゃんがいうと、

「ああ、それもあると思いますね。つまり、水穂さんは、言ってみれば、少数民族に近いわけですから、それはあると思いますね。もしかしたら、それがバレたら、世話をしてもらえなくなるのではないかという不安は常に抱えているでしょうね。それはね、同和問題に限らず、他の国家の少数民族も同じことを感じると思います。少数民族の中には、自分だけ助けてもらって、病院に入院することができても、できないのが当たり前の生活を強いられている自分の仲間に申し訳ないと言って、治療を拒否する人も少なくありません。それと同じような感情を持っているのではないでしょうか?」

と、柳沢先生は言った。

「まあ、たしかに、未開の部族の中では、医者よりもシャーマンのような人が力を持つという事もありますしね。」

ブッチャーが、覚えていた知識を絞り出すように言った。

「俺は、映画でしか見たことありませんが、ヨーロッパ式の医学のみならず学問を、未開の部族に教えるのが、本当にたいへんだったというのは、理解できます。」

「そうだなあ。確かにそれは言えるかもしれないな。サバイバーズ・ギルトというのだろうか。そういう感情を持ってしまう、少数民族は、少なからず居るよ。例えばさ、広島原爆のときなんかによくあったじゃないの。家族は、全員被爆したのに、自分だけ免れて、本来の考えならよかったと思うのに、なんか家族に悪い気がして、自殺してしまった例もあるじゃない。」

ブッチャーと、杉ちゃんが、思い思いの知識を出し合って、柳沢先生の言うことを理解しようとしているが、由紀子は、どうしてもそれが理解できなかった。なんで?水穂さんは、自分だけここにすんで、申し訳ないと思っているの?私が居るじゃない。それは、思ってはくれていないの?そんな思いばかり渦巻くのだった。

「まあ、そういう気持ちがたたって、不安障害になったか。それでは、また事実は事実であると考えなければ行けないな。治療としては、どういう選択肢があるのか教えてくれ。」

と、杉ちゃんが急に頭を切り替えて、そういう事をいうので、皆びっくりする。

「そうですね。一応、抗不安薬などあることにはあるんですが、体力がないので、大量には飲ませられません。あまりにも薬漬けにしてしまっては、彼が可哀相になってしまう。それではいけませんから。とにかく、孤独だとか、寂しいとか、そういう事を感じさせないようにしてあげて下さい。もし、口だけでわかってもらえないようでしたら、態度で示すしかありません。彼には、そういう存在が必要なんだと思います。」

「そうかあ。そういうことか。まあ、難しいわな。僕達今でさえ、一生懸命水穂さんの世話をしているんだからな。それでは、もっとそばにいてやれるような人物をつけてやれってことでしょ。それは、どうしたら、良いのやら。人数を増やすしかないよ。」

杉ちゃんが、柳沢先生の言葉にそういった。

「まあ、もし、世話役が一人必要なら、家政婦か、女中を募集しよう。そのほうが、医者代を払うより、安く済むかもしれない。これまでに雇った人は、みんな水穂さんに音をあげてやめちまっているが、それもある意味御縁の問題だからね。」

「そういうことじゃないと思うわ。」

由紀子は杉ちゃんに言った。

「そういうことじゃなくて、もっと、心から、安心して接して貰える人というか、そういう人が、水穂さんには必要なんじゃないかしら。」

「まあ、そうだけどねえ。由紀子さん。そういう事は、ちょっと、今の僕たちはできないな。どうしても、人間だもん、完璧にやれるということはないね。由紀子さんだってそばにいたい気持ちはあっても、仕事があるだろ?それと同じだよ。僕らも、それを放棄するわけには行かないんでねえ。」

「じゃああたしたちにできることは。」

由紀子は、杉ちゃんに食って掛かった。

「なにもないってことになるな。もし、手伝い屋が必要なら、雇うけどな。」

なんていう結果だろう。こんな答えが出るとは思ってもいなかった。杉ちゃんという人も、木島こと柳沢先生も、皆冷たいじゃないか。と由紀子はおもった。

「由紀子さんが、水穂さんをそこまで思っているんだったら、それが水穂さんに伝わるように働きかけて行くことも、必要なんじゃないでしょうか。黙っていたら、何も伝わりませんよ。」

そっと、柳沢先生が、由紀子に言った。耳ざとい杉ちゃんは、それをすぐに聞き当てた。

「おう!河太郎先生良いこと言う。河太郎先生日本一!」

「そんなこと!」

由紀子はバカにされたようで、杉ちゃんに思わず怒りを示そうとしたが、ブッチャーが、

「由紀子さん、あんまり大声を出すと、水穂さんが、めがさめてしまいますよ。今は、安静にさせてあげなくちゃ。」

と言った。

「ごめんなさい。」

と、由紀子は、涙が出てくるのをこらえながら、そういった。それは、とてもかなしいことであったが、でも由紀子は受け入れなければならない現実だった。でも由紀子は、河太郎先生が言った、水穂さんにはたらきかけて行くことを、実行することに決めたのだった。

「ところで、ちょっとお尋ねしてもよろしいですか?」

と、ブッチャーが、柳沢先生に聞く。

「はい。何でしょう。」

「あの、変なことを聞くようですけど、先生はなぜ、水穂さんの事を熱心に見てくださるんですか?水穂さんが、同和地区の出身者とわかったら、熱心に診察してくれうる医者は一人もいなくなりました。俺たちも、それは意外だったので、理由をお聞かせ願えませんでしょうか?」

ブッチャーが質問すると柳沢先生は、かっぱのお皿のような頭をかじった。

「いやあ、若い頃、医者として、ミャンマーに行っていました。その時、道路で倒れていた、ロヒンギャの人を、偶然見つけて、急いで病院につれていきましたけど、どこへ行っても断られましてね。結局、その人は、申し訳ないからと言って、村へ帰っていきました。その背中を、忘れられないんです。だから、水穂さんのような人を見ると、放っておけないんですよ。」

「はあなるほどねえ。ちなみにロヒンギャとは、ミャンマーの少数民族だよね。水穂さんもそういうことになるのか。」

と、杉ちゃんが感心したように言うが、由紀子は、何故かそれを、そうなんですかと受け入れることはできなかった。なんでだろう。そのとおりにしたら、水穂さんを特別視してしまうような気がする。

「まあでも、そういう人は、特殊な経験というか、重たい経験をしていないと、多数派の人は、目が行かないよな。水穂さんも、河太郎先生に見てもらえて、嬉しいかもしれないね。」

「はい。俺もそう思いますね。やっぱり、そういう経験は、必要なんだなあ。」

杉ちゃんとブッチャーは、納得してそういう事を言っているようであるが、由紀子は納得できなかった。

「由紀子さんもそのうち分かるときが来るさ。それがホントの両思いだぜ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。





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不安障害 増田朋美 @masubuchi4996

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