寅の巻 弐
「申し訳ないねぇ、旅の方。生憎、今出せる物は何もないんだよ」
灯りがついていた家の中で、一番大きい家を二人は訪ねた。中では、家主と思しき老婆だけでなく、二十人ほどの子ども達が、身を寄せ合って震えていた。
部屋の真ん中に位置する囲炉裏に正座をしながら、繚華と慈照は老婆と向き合っている。取り囲むように思い思いの位置に座する、数多の視線を集めながら、繚華は茣蓙帽子を外し、慈照も菅笠を外した。好奇、期待、怯え、恐怖……様々な色の混ざった視線を向けられながら、二人は特段気にする事なく老婆に向かう。話を切り出したのは、煙管を取り出す慈照であった。
「いやいや。この状況下で、快く宿を貸していただけるだけでも有り難いという話。その上ぼたん鍋まで頂こうなんざ、罰が当たるってもんさ」
「慈照の言うとおり。別に、わたし達は腹など減って――」
ぱちぱちと木が弾ける音だけが響く部屋の中、大きな腹の音が鳴り響く。老婆の「ごめんなさい」が聞こえるよりも先に、慈照の拳骨が繚華の頭を捕らえた。
「
「うぅ、本当にごめんなさい……」
申し訳なさそうに目尻に涙を浮かべながら繚華は頭を下げる。耳を澄ませば、子ども達の小さな笑い声が聞こえてくる。口でこそああは言った物の、繚華の腹の音は、ある種緊張感を
「悪ぃ、この
煙管こそ咥えているが、その人なつっこい笑みが初対面の人間に強いことを慈照は熟知している。隣で涙を浮かべながらも、澄まし顔を続ける繚華とは対照的であろう。
どこか怯えた様子だった老婆も、子ども達の笑顔と慈照の笑顔に絆されたのだろう。正座を正すと、この村の事を話し始める。
「ご存知の通り、この村は猪を狩って、柴を刈って……都とは違う、豊かな自然の恵みを頂きながら生活しております」
「おうさ。それこそ、この
「うぅ、返す言葉もない……」
先までの自分を思い返して紅潮し、朱色の着物の裾で顔を隠す繚華。本人は意識などしていないだろうが、着物姿でしなを作る様は、見る男を例外なく魅了するであろう。生憎ここには慈照しか成人男性はいない。慈照にとっては見慣れた姿であった。
「豊かな自然には、通常の動物だけではなく、"
「"魔性"……」と繚華の小さな口が動く。囁きにも満たないほんの小さな声は、この場の誰の耳にも届かない。
"魔性"とは、この世界における、魔術を行使して悪事を為すもの達の俗称である。獣の事もあれば、人の事もありうる。今回の場合は前者であろう。
「しかし、かの"
「ほう、虎かい」
慈照が吐き出す白い煙は、囲炉裏の煙と共に上へと流れゆく。
「初めは小さな虎の子からでした。蓄えていた猪の肉を食い散らかした事から、やむを得ずに成敗。次に来たのは中くらいの子。最初の子を探しに来たのでしょうが、こちらもまた倉庫に入りこんだため、始末せざるを得ませんでした」
「餓鬼達を始末したってぇ訳かい。なるほど、話は見えてきた」
煙管を右手に持ち、左の手で慈照は顎髭を撫でる。老婆が膝に置く手は、ぐっと握って震えている。表の景色を鑑みれば、その内容は凄惨で、口にするのも憚られるのだろう。
――だからこそ、その話を、敢えて慈照は自分から切り出す。
「要は、虎の尾を踏んじまったわけだな。
「はい……そう言うことにございます。つがいの虎でございました」
繚華が、出された茶を啜る。出ていた湯気も、気づくと生ぬるくなってしまっていた。
「先も申しましたが、"魔性"を相手取る以上、この村に住む男達は全員魔術を使えます。ヒトや噂の鬼には敵わぬでしょうが、並の"魔性"であれば訳もありません……そんな男共ですが、こと、あの二匹の白い大虎は話が違いました」
老婆の話に曰く、
その脚は、目にも止まらぬ俊敏さで、衰え知らずに村を駆け回り、
その爪は、並の"魔性"では傷すらつかぬ鎧を、布の如く引き裂き、
その牙は、容赦なく男達の首や腹を噛み千切り、悉くを鏖殺した。
つがいの片方を倒した物の、その時点で村の若者達は壊滅状態。残っているもう一匹には、さしたる傷をつけることも叶わなかったとか。
話が進むに連れて、周りにいる子ども達の表情が曇る。思い出したのか、啜り泣く声さえ聞こえてきたのだった。
「――それがあの惨状っつーことか」
「
慈照は分かりやすく顔を押さえて、
繚華は分かりにくくも眉を潜めて、
惨状に対する苛立ちと嫌悪をそれぞれに露わにする。
「若い衆のほとんどが死に絶えました。無事だった者も、今別の所で養生しております。さて、ここまで話したのは他でもありません。お二人にお願いがあります」
勢いよく老婆は頭を下げる。下げられるだけ頭を下げようとして、しかし思うように曲がらぬ腰を、ぷるぷると震わせている。その未練と無念が言うまでもなく伝わってくる。
「快く泊めただなんてとんでもない。袖の下こそございませんが、すべては下心あってのこと。この
その小さな体から、想像もつかぬ声が狭い部屋の中に響く。
土下座の姿勢を取る老婆に向けて伸びゆくは、朱色の着物で覆われた嫋やかな腕。
「お婆ちゃん、顔を上げてください」
鈴を転がすような優しい声。囁くような小さな声は、不思議と生命力に溢れる声であった。
「一宿一飯の恩義に報いること。我が諸国行脚の宿願なり。喜んでお受けいたしますよ」
「お前、一飯の意味分かってんのか? なーんて野暮は置いといて、できる限りの手伝いはするぜ。ここで見捨てちゃ、お天道様に顔向けできねぇさ」
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
繚華の手を取りながら、老婆は幾重に感謝の声を漏らす。溢れ出す感情が涙となって、その声を震わせる。
怯えていた子達が、歓喜の声にどよめき立つ中、ひときわ大きな声が響き渡る。
「ばあちゃん! 土下座なんかみっともない! よそ者なんかに頼るなって!」
驚いてそちらを見れば、顔に傷を残した少年の姿。汚れて、どこか寒そうな格好ながらも、その握りしめた拳はどこか力強さを思わせる。
「これ、
「この町にはまだ俺達がいる! 俺だってもう十一なんだ! 多少は魔術だって使える!」
佐助、と呼ばれた少年は老婆の制止の声を振り切りながら、わら靴に足を入れ始める。
「見てろよ、俺が今すぐあの虎を仕留めてくるから! 頼むから、そんなみっともない姿を見せないでくれよ!」
勢いよく戸を開けて飛び出していく佐助。
呆気にとられたままだった二人は、飛び出した佐助を呆然と見ながら、入ってくる吹雪を見ていた。
「随分と威勢のいい子だな。あの子は一体なんなんだい?」
「あの子は佐助……あの子の両親は、若い衆の筆頭でね……」
「……そうか」
佐助の事が心配になったのか、繚華は扉の方へと歩み寄る。
吹雪で覆われた外の景色。常人であれば、届く光も音もない、景色に……
繚華は、はっと目を見開き、
ただ一言、
「慈照!」
風のように声を残しながら、寒空の元に着物だけで飛び出していった。
続く景色に呆気にとられる老婆と子ども達。開け放たれた扉と同様、開いた口が塞がらないと言わんばかりだったが、
「やれやれ。何を見たのか聞いたのか。おれにはさっぱり分からんが、呼ばれたからには行かねばならん」
ただ一人、慈照だけは立ち上がる。気怠そうに首を鳴らし菅笠に手を伸ばす。出ていく直前、不安そうな一行を見ると、にへらっと表情を崩す。
「心配せんでも大丈夫。怪しかろうが、おれ達二人……正確には、あの
そう言い残して慈照もまた吹雪の夜に飛び込んでいく。
吹きすさぶ雪は、未だ止まる気配を見せない。
吹きすさぶ風は、遠く獣の咆吼を乗せている。
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