寅の巻 参
低くうなり声を出しながら、"
毛並みは新雪の如く、混じりけのない白。差し込む黒い線が、いっそうその純白さを際立てている。
美しさだけではない。先の村人との戦闘で、ついた傷は既に塞がっており、この"白虎"の獰猛さを彩っている。猫科に特有のしなやかな肢体で、凍れる大地を踏みしめて屹立している。厳しい環境で培われ、鍛え上げられたずっしりとした逞しい体躯。顔に浮かべた険しい表情も相まって、その全身からヒトに対する憎しみを表している。目の前にいるのが如何な小兵であれ、小さな瞳孔でじっと伺いながら、前屈みに構えている。
その敵意は、素人である佐助にもはっきりと伝わっている。勇んで飛び出したはいい物の、相対して分かった"白虎"の底知れぬ恐怖から、震えが止まらないのだった。
「か、かかってこい! おれだって、戦えるんだ!」
「……」
詰まりながら叫ぶ佐助の言葉に、"白虎"は何も言わない。
武者震いと言えば聞こえはいいが、佐助の威勢は虚勢に他ならない。右手には魔力で生み出した炎が出ているが、それも灯火程度。蝋燭の灯りの方が、まだ迫力がありそうなぐらいの小さな炎であった。
ふっと、ひときわ強い風が佐助と"白虎"の間に吹き付ける。
佐助の点した灯が消え失せたその瞬間に、"白虎"は助走をつけることなく、しかし屋根ほどの高さにまで跳躍をする。
――ガァッ!
消えた炎に
"白虎"の右前足には、爪が覗いている。一本だけでも
動けぬ的など、裂けぬ道理なし。
その切り裂きは――
虚しく、空を切るだけだった。
手応えのなさを不思議に思いながら、"白虎"は華麗に着地をする。鼻をひくつかせて、獲物がいることを確かめると、すぐさま周囲を見渡した。
「大丈夫だったか」
吹雪の中でも凛と響く、小さく、儚い声だった。
その声に、佐助は安堵を覚えた。
「よかった。……無事で、よかった」
佐助を
その声に、"白虎"は戦慄を覚えた。
こと体格だけで言えば、これまでに蹴散らしてきた村人達の誰にも劣る。無駄な肉がなく、触れれば折れそうな嫋やかな女だった。しかし、"白虎"は、この女に対して、構えを解くことができなかった。
村人に囲まれた時ですら、ここまで動揺した覚えはない。
「さぁ、ここはわたしに任せて」
「で、でも!」
「いいから」
繚華は、諭す母親のような静かな迫力と共に一喝。佐助の言葉を黙らせると、ゆっくりと立ち上がり、振り返る。
一挙手一投足のすべてが、流れる水のように緩やかだった。隙だらけの姿だが、しかし、"白虎"は警戒の色を強めるばかり。低く唸って威嚇を続ける"白虎"に向けて、繚華は僅かに口紅を塗った艶やかな唇を開く。
「待たせたな。"白虎"」
鈴を転がすようなこの声も、
――グォオオオオ!
雪崩を起こさんとする程の、地を振るわせる強烈な咆吼。
ほんの僅かに繚華が怯む。この隙を"白虎"は見逃さなかった。わずかな助走と共に、繚華に向けて飛びかかる。前足の爪は、降りゆく雪を纏いながら"氷の爪"へと姿を変えていく。
対して、凛とした佇まいを見せたまま、繚華は動かない。"白虎"の爪が、女の柔肌を抉ろうとしたその瞬間、
「いいな」
キンッ、と。
爪と
その動作への感動を伝えるように、繚華はにこりと口角を上げた。
「あぁ、いい動きだ」
繚華の右手には、いつの間にか刀が握られている。細く長い刃渡りの得物を、同じく細く長い右腕で振り払い、"白虎"の跳びかかりを防ぐ。どころか、その巨躯を弾き返したのだ。
喉を震わせながら"白虎"は、右腕を地面に突き立てる。それを合図に、周囲の雪が盛り上がっていく。
「ほう。それが、お前の魔術か」
雪はまるで
――どう出るか。
刀を水平に構えながら、繚華はその動きをじっと見つめている。
ゆらゆらと揺らめいたと思いきや、"雪の腕"は勢いよく繚華に伸びた。
届く瞬間を見切った繚華は、刀を振り払う。
しかし、"雪の腕"はぐにゃりと曲がる。
「なっ――!」
"白虎"の狙いが違うと気づいた繚華は、瞠目した
その標的は佐助。"雪の腕"の動きは"白虎"の俊敏さに負けずとも劣らない。佐助は急いでその場を逃げようとするが、雪に足を取られて転んでしまう。
「うわぁあ!」
雪崩を思わせる雪の奔流に、佐助は悲鳴を上げる。
身の竦んだ佐助に"雪の腕"が届こうとした時、
「おっしゃ、なんとか間に合った!」
佐助の体が強く押し出される。背後を走る"雪の腕"をやり過ごすと、底抜けに明るい声が耳元で聞こえた。
「よぅ、佐助。三途の川での再会にならなくてよかったな。
緊張感に欠けた、大きく笑い飛ばす男の声。変わった外套に身を包む菅笠姿だが、助けた拍子に雪塗れになっている。
この声が合図と言わんばかりに、無口な女は声を張り上げる。
「
「応さっ!」
その声ですべてが分かると言いたげに、饒舌な男は短く叫ぶ。
傍観を決める"白虎"ではない。慈照の面妖な雰囲気に何かを感じたのか、再度"雪の腕"を差し向ける。彼我の距離を一瞬で詰め、雪崩に飲み込まんとするが、
「
慈照に当たろうとする寸前、"雪の腕"は光る何かにせき止められる。
それは浮かび上がった小さな札。霊験あらたかな御札などではなく、遊び道具で使われる、馴染み深い物であった。佐助は思わずその名を口にする。
「花札……?」
「さーて、まだまだ こいこい 行くかぁ!」
慈照のかけ声に合わせて、魔力の光が強くなる。花札と同じ茶色の光が、壁のように広がっていく。
「―――――」
慈照の口は止まらない。聞き取れぬほどの速さで何かを唱え上げている。更に、両の手を組み合わせながら、何かを形作っては、すぐに別の形を作る。
佐助には何をしているか分からない。しかし、こうして何かを唱えながら、手で形を作る姿に、見覚えはあった。ここまで速くはないものの、村にも訪れる、ある職種の者がやっていて――
「あぁ、熱くなってきた!」
慈照は外套を脱ぎ捨てる。家の中でも脱ぐことのなかったそのコートの下は、佐助の想像を正解へと変えていく。
だらしない着こなしだが、様になっている真っ黒な僧衣。そして、肩には
「おっさん、坊さんだったのか!?」
「後で答える。集中させろ」
慈照は、一つの壁を作っている訳ではない。
その数は十二。繚華と"白虎"を中心に、ちょうど時計の数字と同じ場所に配置されている。その一つ一つが魔力の光を放ち、光の壁を作り上げていく。
早口で唱える読経と、高速で結ばれる印。
花札から拡がる魔力の結界は形を成していく。
「
勢いよく放つかけ声を最後に、その結界はできあがる。
閉じられた魔力の光は、逆さにした
その完成を見届けて、慈照はどさりと雪の上に腰を落とす。
「で、話って何だったよ、坊主?」
「いや、聞こえてただろ! 坊主なのか、って聞いたんだ!」
「あぁ、言ってなかったか? まぁ、
呵々! と短く笑い飛ばすと、慈照は菅笠の雪を払いながら、結界の中を見る。
この"
「細工は流々、仕掛けは上々。あとの仕上げは任せるぜ」
それでも、慈照は中にいる繚華を見つめる。視線も声も届かずとも、せめて見守らせろと言いたげに。
生臭かろうと、その坊主は
「――お前の庭だ、好きに暴れな」
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