寅の巻 肆
"花札結界"の中で、二匹の獣は見つめ合う。
駆け回り、暴れ回るには充分すぎる広さを持ったこの椀状の空間には、閉じる前の世界がすっぽりと入っている。そのため、木に降り積もった雪であったり、大地に積もった雪はそのまま残っている。しかし、新たに降る雪は障壁によって塞がれている。もし陽光や月光があっても、この中には届かない。障壁が放つ仄かな魔力の光だけが結界内を優しく照らしている。とはいえ、今は夜の中。常人であれば、その視界はとても悪くなる。
トラの形をした獣、"
ヒトの形をした獣、
夜であろうと、その視界は澄んでいると言いたげに。
「鍛え抜かれてる。いいなぁ」
暢気な賞賛の声を漏らしているが、剣呑な雰囲気に飲まれぬよう必死である。
喉元に刃を突き立てられているかのようにすら感じられる、鋭い視線。これほどまでに研ぎ澄まされた殺気は、易々と出せる物ではない。強い激情と憤怒がひしひしと伝わる。正であれ負であれ、抱く思いはそのまま魔術の力となる。これほどの強い念を持つ"白虎"の魔力は、さぞ強烈な物であろう。
強烈な殺気を全身に浴びて、繚華の表情は僅かに緩む。花すら恥じらう妖艶な笑み。それは恐怖から湧き出た
――あぁ、滾る。
ただ、己の
その破顔に、"白虎"は一瞬だけ足を止める。虚を突かれたような表情をしたのも束の間。すぐに険しい顔つきに戻り、繚華への敵意を露わにし始めた。
その豹変が、ますます繚華の琴線に触れる。
「度量も上々。さぁ、思う存分、
右手の刀を真横に振るい、僅かに積もった雪を払う。
はらりと舞い散る白雪が、地面に落ちたその瞬間、
二匹の獣は、地を蹴った。
交錯するその瞬間、先に仕掛けたのは"白虎"だった。その鋭い爪に氷を纏わせ、繚華に向けて振るう。
軌道を見極めた繚華は、身を翻してそれを避ける。豪腕であれ、避けてしまえば無防備な腕が伸びるだけ。後隙を逃さず、刀を振るおうとするが、
繚華の視界が、真白に染まる。
驚愕の変化に、刀が止まった。
「つめたっ」
漂う冷気から漏らした声が、目の前の壁に吸い込まれていく。
その正体は"雪の壁"。"白虎"の左前足は、先に雪へと触れて攻撃の後隙を潰すべく準備していたのだ。
僅かな時間で現状把握をした繚華だが、続く攻撃に気づいて頭上を仰ぎ見る。案の定、底には"白虎"の姿があった。大きい虎の体重は六十貫(およそ220キロ)を越えると聞く。その上で爪を立てて迫ってくるとなれば、繚華の体は押しつぶされ、無惨な挽肉へと姿を変えるであろう。
――ならば。
意を決した繚華は、"雪の壁"を跳びながら蹴る。凍り付いた"雪の壁"は壊れることなく、逆に反作用で繚華の体を空中に飛ばしていく。「く」の字を描くように繚華は跳躍。落ちてくる"白虎"を紙一重で躱すと、朱色の着物の裾を
「はぁあ!」
裂帛のかけ声と共に、重力の勢いを乗せた刀を"白虎"の喉元目かげて振り下ろす。断頭台の如く、刃は"白虎"の首元に真っ直ぐと落ちていき、その鋭い刃が"白虎"の首筋に触れた瞬間、
――グォオオ!!
"白虎"の咆吼と共に、"雪の壁"より新しい壁が生えてくる。その突き出される勢いのまま、横殴りに繚華の体を吹き飛ばしていった。
「かはっ!」
吹き飛ばされた繚華は、"花札結界"の障壁まで吹き飛ばされていく。二度に渡って叩きつけられた痛みが全身を襲い、雪上に華奢な体が投げ出された。幾重か咳き込んだ拍子に喀血し、土の混ざった雪に赤を混ぜていく。
痛みに悶える暇などない。身の毛もよだつような強風が繚華を襲う。
はっとして顔を上げれば、顔をまるごと食らわんとする程に開かれた
「全く――」
休む暇すらないのだな。
言葉を飲み込みながら、自分を食らわんとする牙を、刀を縦に構えて押さえ込む。
鋭い刃は"白虎"の顎に傷をつける。当然、"白虎"が押し出す程に刃は食い込むのだが、それでも"白虎"は果敢に攻め立てる。首を落とし掛けた時の傷も相まって、痛々しいまでの姿を晒すのだった。
「強いな、お前は」
届くはずのない言葉を、思わずかけてしまう。
血塗れになりながらも、苛烈に攻め立てる。一介の武士にも負けずとも劣らぬ、武勇の誉れを見せつけてくる。
しかし、劣勢は依然として繚華の方にある。踏みとどまるだけで、繚華の体には強い痛みが襲いかかってくる。体は軋み、骨は砕けそうになる。一瞬でも気を許してしまえば、その瞬間"白虎"は乗しかかり、蹂躙の限りを尽くすであろう。
これが、村人達と戦った直後だというのだから恐れ入る。
食いしばりながら堪える中で、繚華は"白虎"と目が合った。
その小さな瞳孔に染まる色は、憤怒、怨嗟、そして――悔恨。
「あぁ、――」
思わず漏らしたその一言。全身を僅かに弛緩させてしまったその瞬間に、"白虎"は更に押し込んでくる。
燃え盛る程の激情は、近くの繚華の身をも焦がしていき――
繚華の頬に、一筋の涙が落ちた。
それはまるで、雪溶けのように。
「――
その言葉を皮切りに、繚華は全身に魔力を流す。繚華の全身を、魔力は血管の如く覆っていく。白い柔肌の下に流れる色は翠。冬の寒さに耐えきり、ついぞ花を結ぼうと背を伸ばす植物のような、生命力溢れる澄んだ翠色だった。
繚華の変化に、"白虎"も僅かにたじろぐ。
――グォオオ!
その戸惑いも一瞬のこと。「今仕留めねば」と感じ取ったのであろうか。刃が食い込む痛みに臆することなく、"白虎"は跳躍し、その全身を繚華にかける。
しかし、大地の底に強く根を生やしたかのように、繚華の体はびくともしない。"白虎"が体重をかければかけるほどに、全身を覆う魔力の線はより濃くなっていき、繚華の力が増しているのだ。
「はぁあ!!」
かけ声と共に、全身に奔る魔力の線は輝きを増す。遂には、繚華は"白虎"を押し返したのだった。
――グォ
短く吼える声は、どこか虚を突かれたような色を孕む。宙返りをしながら大地に着地をした"白虎"は、繚華の豹変に目を疑った様子だった。
魔力が奔った全身は、白い繚華の肌を翠に染め上げている。それ自体も大きな変化であるが、その
その姿は紛れもなく、オニだった。
美しかった朱色の着物も、こうなってしまえば数多の獲物の血で染め上げられたように見えてしまう。
真の姿を晒したオニは、同じく翠に染まった刃を持って、
静かに涙を流している。
「分かるよ、お前の悲しみ」
繚華の胸を締めるのは、"白虎"に対する万感の同情。
相対する中で、"白虎"から強烈に感じた悔恨。
――木々を刈って生活する村人達、餌となる猪を取り合う日々、そして失った家族。
住み場も、食料も、愛する者も、すべてを失ったその慟哭の怒り。
「あぁ、お前も辛かったのであろう?」
鬼夜叉の姿を取りながら、その声は涙のように優しくて、"白虎"の凍り付いた心に、僅かながらに染みこんでいく。
"白虎"の脳裏に過ぎるは家族と過ごした日々だった。
本来群れる生物ではない虎だが、雪を操る"魔性"の虎は少し事情が違った。
極寒の大地で家族と身を寄せ合って、暖を取った夜。
自分の狩った食料を分け与え、喜ぶ家族を見た時。
はぐれぬように、つかず離れずついてくる子達。
もう戻らない、家族の姿――。
――グォオオ!!
耳をつんざくその咆吼は、結界の中にありながら、村中すべてを覆い尽くす程の勢いであった。
"白虎"は、両の腕を雪の中に突き刺す。"雪の腕"を二本生み出すと、すぐさま怯んだ繚華に差し向けた。一呼吸の間すら与えぬ勢いで、同時に迫る"雪の腕"。もはや、すべてを崩さんとする覚悟の籠もった、嘆きの一撃であった。
鼓膜に"白虎"の慟哭を響かせながら、繚華は小さく飛び上がる。そして、独楽のように、くるりと身を翻した。
その刃は二つの"雪の腕"に触れる。切っ先こそ"雪の腕"を捉えたが、ただこれだけで両断ができるわけでもない。
だが、繚華の防御はこれにて成された。
音を立てることなく雪上に着地する。
"雪の腕"は繚華へと向かっていき――
柔らかな感触で繚華を包み込んだ。
"白虎"が攻めの手を緩めたのか? 否、"白虎"は殺す気で攻めている。絆される心の余裕などないのだが、それでも、"白虎"は目の前の景色に、心を奪われている。
"白虎"が伸ばした"雪の腕"は、もはや存在しない。"白虎"と繚華を繋ぐのは、"雪の腕"と置き換わった、
繚華が切った所を中心に咲き乱れた鉄仙は、"白虎"の全身にもまた絡みついている。柔らかい感触でありながら、動かせどもその鉄仙が千切れることはない。
繚華はほうっ、と白い息をこぼす。僅かに伏せた瞼越しに、星を散りばめた天の川の如く咲き乱れる鉄仙の花を眺めている。
やがて、"雪の腕"を切った刀を一払いし、歩みを進めていく。
「鉄仙か。なるほど」
繚華の持つ刀は、ただの刀ではない。繚華が"オニ"の力を表出した時、特別な業物へと姿を変える。
その効果は、"切った物の魔力を植物へと変える"、と言うものであった。。
歩みを進める繚華に対し、"白虎"は動こうと藻掻く。しかし、"白虎"を包む鉄仙の蔦は、未だ動くことを許さない。
ならばと、"白虎"は猛々しく吼える。吼えた拍子に回りの雪が浮かび上がり、塊となって繚華に押し寄せる。
「生きることは、争うこと。争うことは、奪い合うこと――ヒトでもオニでもトラでも、それは変わらないな」
無駄な所作なく、"
赤い
黄の
青い
に色とりどりの花となっては雪化粧の地に落ちていく。
「憤怒に燃え、悲嘆に暮れ、癒やす間もなく次の戦禍は舞い降りる。それが、この"
"白虎"の放った"雪塊"の数は二十を超えるが、その悉くを繚華は切る。
次々生まれる花道を、繚華は止まることなく歩み続ける。
「孤独になって尚、戦い続ける高潔さ。束縛されて尚、攻め続ける獰猛さ」
"白虎"は繚華の足下に、
小さな腕ではさしたる物ではないであろう。しかし、人体の急所でる顎を狙った下からの一撃は、食らえば昏倒は免れぬ。
"雪塊"に気を取られている繚華に向けて、"白虎"は仕込んだ"雪の腕"を勢いよく伸ばした。
「お前のすべてに、敬意を示そう」
小さな風切り音が響く。
繚華の顎を優しく撫でるは
不意打ちも失敗に終わり、度重なる消耗によって"白虎"の魔力はとうに尽きていた。
それでも、殺気を伴う視線を未だ繚華に向け続ける。
彼我の距離はあと僅か。少し手を伸ばせば触れられるその距離に繚華が入ったとき、
"白虎"は、蔦を引きちぎりながら跳びかかる。
全身を引き裂く痛みを
「生憎と、お前を切らねば進めぬ者達がいる」
繚華は刀を構える。必殺の構えは、介助者のように。敵意よりも慈悲の念が籠もっていた。
その一太刀は、正確に"白虎"の首を刎ねる。
断ち切られた"白虎"の首は、跳びかかった勢いのままに飛んでいく。
"白虎"の顔とすれ違ったその時に、
――ひとひらの雪が、繚華の頬を濡らした。
「――その嘆きに安らかな眠りあれ。わたしぐらいは、せめてお前を覚えていよう」
"花札結界"が崩れゆき、再度の雪が降り始める。
降り止まぬ雪に祈るように、繚華は仰いだ空に呟いた。
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