彼への想いを整理する。カンバスの整理も終わらない内に、混沌とした心の裡へ語りかける。それには、彼の存在がありありと感じられる場所---まるで、自分の座るスツールから彼の熱が伝わるようで---なら、当然に起こる帰結だった。


 振り返ると、彼の死は私の中ではちょっとしたさざめきのようなものだった。彼の死がもう間もないということは知っていたし、彼が死に際にあっても普段通りの彼でいてくれたからだと思う。


 普段通りの彼。必要なことだけを語り、不必要なことは語らない。若い頃から仕事熱心で、その代わり祝祭の日だけは私を食事に誘った彼。


 そんな"warm heart,cool brain"な彼に私は心惹かれた。だから結婚して同棲したのだが、それが故に、私たちは普通の夫婦とはちょっと違ったのだ。子どもも持たない、家も持たない、車は別々。まるで「共有」の二文字がなかった。愛を確かめ合うこともなかった。共に、個別の男女が在るだけだった。


 それを私は心地よく感じてもいなかったし、うざったく思うこともなかった。でも、それが良かったのかと言えば返答に困る。私は、実の所もっと彼から積極的に形ある愛を受け取りたかった。本当のところ、厄介なロマンチストは私だったのだ。人知れず愛に狂って、それをひた隠しにして、無理のある愛を求める。でも、夫婦とはそういうものではないのか。


 そんな悩みを抱えながらも、なあなあのまま時は経ち、いつしか私たちは彼が貯めに貯めたお金を携えてここまでやってきたのだ。田舎に移り住むことも、場所の選定も、家の設計も家具の配置も彼が全部決めた。いつの間にか、決まっていた。思うに、彼は仕事が退屈だったのだろう。晴耕雨読な生活であれば、己は欲求を満たせると考えたに違いない。


 けれど、そんな奇妙な夫婦生活を彩っていたのは、彼の多趣味だった。彼はアングルのヴァイオリンたらんと、様々なことに手を出してはやめていた。それを私は戒めることなく見守り、彼は自由に熱中する。まるで親子だ。幼い息子を見ているかのようだった。それを困ったものだと思いつつも、何だか楽しくなっていたのだろう。そうしている内に、心に秘めた呪いは薄まっていった。


 こうして、不確かな愛の物語は続いていったのだ。そして、彼が死んで、彼の作品を見た途端、消えたと思った呪いは再燃した。


 「それでも、あなたは私に『好き』の一言も言わずに死んでしまった。逃げたようなものよ。」


 彼が愛していたのは、私ではない。私との淡い生活だったのかもしれない。妄想ではあるのに、変に現実味があった。嫌だった。少なくとも、私だけは彼を愛していたつもりだった。


 ………。


 ………。


 ………本当に?


 はっと思って目をゆっくりと開ける。海の底から意識を引き戻す。月は知らず知らずの内に山の裾野へと隠れ、ランプの光が私の背を垂らすばかりだった。


 回想すると、彼の死が私の人生の中で大した意味を持たないことも自明だった。私はあの人とは絶対的に別人だ。私は独りでぼんやりとした愛の揺り籠で眠り呆け、彼は独りでぼんやりとした見たままの景色を描き続けた。


 「……辞めてよね、そんなこと。」


 月が語る音楽も失せ、木々も寝静まる夜がやってきた。時間はわからないが、もうここに入って何時間も経ってしまっただろう。


 どうやら私は、芸術家かぶれの彼が熱中した絵を見て、私への愛をなぞっていただけらしい。その贋作の熱に絆され、こうして下らない過去に耽り、過去の海から溺れながらも顔を出し、苦し紛れに息を吐く。


 「幻を見ちゃうのは、神経症ではなくて---。」


 スツールから立ち上がり、昏きから取り戻した視界の中、ガラス窓へと手を伸ばす。彼の後ろ姿を作ったのは正常な自分だった。夢を見ているのだ。今も。


 「なーんだ。全部私の、妄想か。」


 首が絞まるような思いがする。今は、周りにあるカンバスを全て燃やしてしまおうかと思うくらいだった。このアトリエも、何もかも。彼との思い出は今更要らない。ただちょっと、明日も昨日も慮らない無気力な楽園の中に居ること自体が楽しかっただけだ。


 だけれど。結露がついた窓を手ぬぐいで拭いたかのように、自分の心にかかった曇りが晴れていった。割り切りが時には肝要なのだろう。


 そうしてランプを手に提げ、自宅に戻り、すぐにベットに入る。ベットは空っぽの匂いがした。


 「おやすみ。」


 誰に聞かれるまでもなく、私はこう呟くのだ。就寝の挨拶は、どこかの闇へと無秩序に溶けていった。


 明くる日、私は気持ちがいいほどの朝を迎えた。彼と過ごした屋敷の中は、彼の残滓がべっとりと付いていたが、それも全部灰色に見えた。色彩の失った、不要な思い出だ。これから私は本当に独りで、自分勝手にやっていける。長年の見えない呪縛を、ようやく私は解き去ったのだ。


 昼下がり、約束通りA氏は家にやってきた。彼が生きていた頃、A氏とは数回会った程度で、最後に会ったのは彼の葬式の時だ。A氏は軽トラック一台を連れ、自分はそれなりの車に乗っていた。後ろにつけたトラックには、年若い青年二人が乗っていた。トラックから降りて、A氏は私に恭しくお辞儀をして、「この度は有難うございます。」と言った。すると、慌てたように青年二人組もトラックから降りて、A氏を真似るように腰を曲げた。


 「有難うなんて、それはむしろこっちの言葉ですわ。あれだけカンバスがあったら、私が困っちゃう。あなたのような有識者に処分してもらえるなんて。」


 「処分なんて、そんな言葉を仰らないでください、奥さん。」


 A氏は苦笑しながらそう言った。彼とは似ても似つかない、嫌味のない口元だった。どうしてこんな人と彼は付き合えていたのか、不思議でならない。


 「それじゃあ、絵の方を……。」


 「ええ、わかりました。おい二人とも、着いてきなさい。」


 「あのお二人は?」


 「弟子です。不出来な弟子でして、ご迷惑をおかけします。」


 「まあ!お弟子さんだなんて、本物の絵描きさんみたい。」


 「はっはっは!本当に絵描きですよ、私は。いえ、絵描きになったと言った方が正確でしょうか。」


 A氏はいつの間にかプロの画家になっていたらしい。私が知る限りでは、A氏はとある地方都市で働くサラリーマンだったはずだ。


 


 「まあ、その---残念でした。彼のことは。私としては、彼とまた伊豆かどこかへ旅行に行きたかったのですが。」


 アトリエへと向かう途中、A氏は度々彼の死を残念がるように言った。どうやら彼は私が思っていたよりも絵に精通していたらしい。


 「そんなにも、夫は凄い絵を描いていたのですが?」


 「いえ、平凡ですよ、彼は。あんなにも拘りがあって頑固なのに、彼の筆は至って平凡で淡白だ。……ああいや、貶してる訳ではないのです。」


 ---ただ、あんなにも淡い色で世界を見据えている人を私は知りません。


 A氏は、大切な友人を亡くしたことよりも、才能ある人間をこの世界から失ったことを悔やんでいるようだった。


 アトリエに入ると、アトリエの様子は昨日のままだった。


 「これは……凄いですね。」


 A氏は嘆息していた。溢れんばかりのカンバスを目にして驚愕しているようだった。


 「画家っていうのは、こんなに絵を描くものなんですの?」


 「そうですね……。人によると思います。描く人もいれば、本当になかなか描かない人もいる。でも私は、彼がこんなにも絵を描く人だとは思わなかったのです。」


 「ええ?そうなんですか?私が見る限り、彼は絵を描くことしかしていませんでしたけれど……。」


 暫く、私とA氏は黙り込んでいた。家での彼と、外での彼は違ったということなのだろうか。それとも、この片田舎の家が絶好の題材だったのか。


 「とりあえず、ここにあるものは全部持って帰ってもらって結構です。画材も、欲しかったら持っていってもらって。」


 「本当ですか?」


 「ええ。本当です。」


 「……分かりました。奥さんがそう言うなら、私が責任を持って預からせていただきます。……おい、トラックに運び出せ。全部だ。落としたらするんじゃないぞ。」


 A氏は弟子たちにそう言って、何度も何度も重いカンバスを運ばせた。その間、私とA氏は二人してアトリエの中を歩いて回った。はじめ話題はたわいもないことだったが。自然と彼の話へと移っていった。


 「そうなんですか。彼はずっとここに籠りっきりだったと……。」


 「ええ、そうなんです。何度私がここに食事を運んできたことか。」


 「それは男にとっては最高ですよ、奥さん。彼が奥さんに愛されているようで良かったです。」


 愛。その言葉を聞くと思わず眉を顰めかけたが、やめた。目の前の人に、私たちの私情を押し付けることも、無碍に話すこともしたくなかった。だが、彼の言葉はどうも可笑しいように聞こえた。


 「愛されているようで良かったって、どういうことですか。」


 「彼は良く私にこう言っていましたよ。『私は彼女に恩返しをしなければならない。この図体の男を生かすには大変な気苦労だろうに。』と。この言葉通りなら、まるで彼は奥さんに飼ってもらっているようなものではないですか。でも、あなたから聞く限りでは、奥さんは彼のことを大変愛していらっしゃる。」


 「そう、ですか。」


 照れ隠しの言葉も湧かずに、私はそれに頷くばかりだった。恩返し。また、頭を痛める単語が出てきた。その言葉は私の頭の中で反響し、ぎゅうぎゅうと締め付けた。それがどうも苦しかったから、


 「ごめんなさい、ちょっとお水を飲んできます。」


 とだけA氏に言って私は家に戻り、30分ぐらい目を閉じた。何も考えずに、眠りもせず。すると気分は次第に軽くなっていった。そこでアトリエに戻るとそこには彼の残した画材たちは姿形なく消えていた。作業はもう、とっくの前に終わっていたようだった。


 「あら、もう終わっちゃいましたか。」


 「ええ、うちの弟子が頑張ってやってくれました。中々骨のある若者です。」


 「若いっていいですね。」


 「本当にそうです。いつの間にか、私も彼も、とんでもなく老いてしまったものです。」


 そうだ。時間は無惨にも私たちの気持ちを考えずに流れていく。私はその砂時計を見ることもなく、あのあやふやな関係に甘んじてしまった。後悔は最早ないが、あるのはたった一つの彼に対する疑念だけ。これがどんなに苦痛なのか、朝に忘れたはずのそれが蘇ってきた。しつこいほどの感傷に浸っていると、そろそろA氏はお帰りになるとのことだった。するとA氏は去り際になってこう言った。


 「彼はこのアトリエを大変気に入っていました。」


 A氏は画材を回収したけれど、流石に家具まではそのままにしていた。例のスツールは、変わらずアトリエの中央にあった。


 「スツールから見える景色が綺麗だと、私のアトリエに来るたびに皮肉のように言っていました。私のアトリエは街の中ですから、見えるのはコンクリートの無機質な壁ばかりです。」


 A氏は寂しげに視線をスツールに落とした。


 「でも、その彼が愛していたアトリエに来て、納得しました。何て綺麗な、本当に美しい景色が広がっているんだと。」


 昨夜から開けっ放しの天井からは、暮れかけの夕暮れの赤と紫が混じった黄昏が、濃い油絵の具のようにアトリエ内を照らしていた。


 「奥さん。彼の作品は全部、私が貴重に保管いたしますから、見たくなったらいつでも連絡してください。そして、彼のアトリエを、どうか大事になさってください。彼が生きていた証を、どうか忘れないでください。」


 A氏は、今度こそ彼の友人として、彼を尊敬する一人の男として私に語りかけてきた。


 「……本音を言うなら、あなたが彼の作品を私に譲ると言ってきた時、貰わない方がいいと思ったんです。」


 「え?」


 「これは私の私見ですが……彼は絵を描く楽しみを、あなたに向けてのものだと思っていた節があると思います。あなたのことを愛していたし、あなたが彼を愛していたから、彼は絵を描き続けたのだと思います。」


 「……。」


 「だから、奥さん。これは処分ではありません。ぜひ私の倉庫を彼のための、あなたのためだけのギャラリーだと思ってください。待ってますから。」


 それでは。そう言ってA氏はアトリエから去ろうとした。ぽつり。口からお礼の言葉は出なかったが、代わりに、酷く滑稽ながらも、彼の話をしようと思った。


 「あの。今度、ここから夜空を見上げてください。満月が、丁度あの窓から差し込むんです。」


 そう言うと、A氏はにこやかに笑って、有難う、と言って帰っていった。彼の頬には、確かに涙が流れていた。


 


 

 


 

 

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